2 クリスマスイブ
僕が省吾のことでとある違和感をおぼえるようになったのは、そんなふたり暮らしがひと月ほど続いてからのことだった。
すでに師走にはいった街は、クリスマスのイルミネーションで飾り付けられて、夜ともなれば身を刺すような寒風が吹くようになっていた。にも関わらず、省吾は銭湯に湯を使いに行くこともなく、まともにお湯もでないアパートのシャワールームでしか体を洗っていないようだった。
古いシャワールームの給湯器は、冬場になるとぶおんぶおんと大きな音ばかり立てるわりに、ごくぬるいお湯しか供給してくれないというひどい代物なのだ。
「あの、省吾くん。そろそろ銭湯を使ったほうがいいんじゃないかな? いい加減、風邪をひいてしまうんじゃ……」
僕が心配して何度かそう言ってみても、省吾はちょっと笑って「大丈夫です、けっこう体は丈夫だから」と言って聞こうとしない。
「もし、銭湯代のことが気になっているんなら、君には家事だってほとんどやってもらっているんだし、僕が代わりに出してもいいから」と申し出てみたら、「とんでもない!」と半ば怒るようにしてきっぱりと断られてしまった。
「でも、心配なんだよ。ほら、省吾くん最近、シャワーから戻ってきてからくしゃみしてることもあるでしょう。このところ、バイトも掛け持ちしてがんばっているみたいだし。体を壊したら元も子もなくなるよ? 病院にはかかりにくいんだし――」
心からそう言ったら、省吾は不思議なぐらい嬉しそうな目になってちょっと笑った。
「ありがとうございます。大丈夫です。ちゃんと気をつけますから」
そこまで言われてしまったら、僕にもそれ以上はなにも言えなくなってしまった。
今でこそその理由は分かるのだけれど、そのときの僕は、本当になにも分かっていなかった。省吾がどうして、銭湯には決して行きたがらなかったのか。
思い出すたび、僕はそのときの僕を拳で思い切り殴りつけてやりたくなる。自分のあまりの観察眼の鈍さに情けなくなるのだ。
でもそのときの僕はただただ、「どうしてなのかなあ」と不思議に思い、それ以上のことを考え付くことはなかったのだ。
ともかくも、そうしてバイトに向かう途中の道すがら、明るいイルミネーションに彩られた街のショッピングモールを見て、僕はとあることを思いついた。
(そうか……。それなら)
それは、とてもいい思いつきに思えた。もちろんあくまでも「その時の僕にとっては」という但し書きつきではあったけれど。
ともかくも、僕はそれで、明るいクリスマスカラーのあふれた店内に軽い足取りで入っていったのだ。
◆◆◆
クリスマスイブは、僕も省吾も当然のようにバイトだった。
世の家族づれだとか彼氏や彼女のいる人たちにとって、ゆきとどいたサービスを受け、大いに楽しむべきその夜は、僕のようなそうではない人たちにとっては、逆に人にサービスを提供する側に回る日だ。まあそれも、一人で寂しく家にこもっているのでなければの話だけれど。
クリスマス用のチキンだとかケーキなんかをなるべく最後まで売り切るために、僕もその日は遅くまでコンビニのシフトに入っていた。普段だったら九時まで入ってくれる夕方シフトの女子学生たちも、彼氏との約束のために軒並み休みをとったからだ。
僕は日付の変わるころになってようやく、売れ残りのクリスマスチキンを手にしてコンビニを後にした。もう片方の手には少し大きめの紙袋も持っている。省吾の目には留まらないよう、ここ数日、コンビニのロッカーに置かせてもらっていたものだ。
アパートに戻ると、少し早く帰ってきていたらしい省吾がややはにかむような顔で出迎えてくれた。見れば、部屋の中が少しばかりクリスマス風に飾り付けられていた。
「……わ。君がしてくれたの?」
きょろきょろ見回すと、ちゃぶ台の上にはごくささやかなものだけれど、一応ケーキなんかも乗っている。
「あ、ちょうど良かった。これ」
言ってチキンを渡したら、省吾はもっと嬉しそうな顔になった。
「あ、すて――」
どうやら「すてき」と言いかけたらしいのを、さっと横を向いてごまかして、省吾は「ありがとうございます」ともっと大きな声で言い直した。
「大丈夫? なんだか顔が赤いみたいなんだけど」
「い、いえ! 大丈夫です……」
省吾があわてたようにそう言って、僕からチキンを受け取り、用意していたらしい紙皿に出し始めた。
僕は僕でコートを脱いでハンガーに掛け、省吾と向かい合わせになるようにちゃぶ台の前に座った。彼はちゃんと小さなろうそくまで準備していて、ケーキにほんの数本をさし、そこに火をつけた。
電気を消すと、昔、家族でやったバースデーパーティーのようにほわりと暖かなオレンジ色の光だけが周囲を照らした。
「なんだか、子供のとき以来だなあ。こんな、ちゃんとケーキを囲んでのクリスマスだなんて。懐かしい。何年ぶりだろう」
「自分もです」
ふふ、とどちらからともなく笑って、僕らはろうそくの火を吹き消し、料理に手をつけた。
省吾は少ない材料を使って、それでもあれこれとそれらしいものを作ってくれていた。クラッカーにハムやトマトなんかをのせてオードブル風にしたものや、お手製のサンドイッチなど。どれも、とてもおいしかった。
特に、卵がいっぱいの分厚い卵サンドが絶品。なんて言うか、コンビニのやつの何百倍も美味しいのだ。いったい何を入れたらあんなに美味しくなるんだろう。
「チキンまでは買えないなと思ってた。嬉しいです。ありがとう、俊介さん」
省吾の言葉にも表情にも、なにひとつ嘘はなかった。彼はただただ、嬉しげに目を細めていた。
やがて僕は、適当な折をみはからって脇においた紙袋から例のものをとりだすと、省吾に向かって差し出した。
「あの、省吾くん。……これ」
「え……?」
彼の目が、びっくりして見開かれる。大きな体が、こちんと久しぶりに固まったようだった。
僕はなるべくなんでもない風な顔と声をとり繕って、彼にむかってそれをさらに突き出した。
「ほんと、いつもいろいろありがとう。これ、その……大したものじゃないけど。使ってくれたら、嬉しいなって」
「自分、に……?」
省吾の声が、ちょっと震えているみたいだ。
僕は急に、わけもなくとても恥ずかしいことをしている気になって、首筋から耳のあたりにかけて熱くなってくるのを感じた。
それでとうとう、ぎゅっとそれを彼の胸におしつけるようにした。
「開けてみて。早く」
「……は、はい……」
がさがさと、近所のショッピングモールのプレゼント包装を開く音がする。
出てきたのは、そんなに分厚くはないけれど、紺色チェック柄の袢纏だった。
省吾はそれを、胸のところで抱きしめるようにして黙りこんだ。
「ええっと……。この部屋、ろくに暖房が入ってなくて寒いでしょ。炬燵を入れたらいいんだろうけど、そしたら寝るところがなくなっちゃうしで」
「…………」
彼が返事をしないものだから、僕の口はいつもの何倍も勝手に饒舌になってしまった。
「いつもはほら、布団に入ってしまえばそのうちあったかくなるからって、適当にやってたもんだから。でも、省吾くんはそれじゃ大変だろうし。少しでも暖かくしてもらえたら僕も嬉しいから――」
「…………」
やっぱり凍りついたような顔で沈黙したままの彼を見て、僕は次第に心配になってきた。
「あっ、あの……ごめんね? 色とかサイズとか、僕、細かいことまで気が回らなくて。おしゃれとか、てんで分かってないもんだから。気に入らなかったら、交換してもらってくるし。余計なこと、だったかな……?」
そこではじめて、彼ははっとしたようにこちらを見て、急にぶんぶんと激しく首を横に振った。
「いいえ! そんな! ……ありがとうございます……」
それから、本当に小さく小さく、「うれしい」と聞こえたようだった。
顔をくしゃくしゃにして、ちょっと泣きそうな目になっている。
僕はほこほことおなかの中から温かいような気になって、ぎこちない顔で笑って見せた。
「……そう。それなら良かった」
久しぶりの、温かなクリスマスイブ。
僕らはそのまま、そのささやかな食卓を楽しんだのだった。