4 アパート
ショーゴは結局、ほとんど身ひとつで僕のアパートにやってきた。といっても、男二人で住むにはあまりにも狭いスペースだ。
僕の部屋は六畳一間こっきりで、隅に小さな押入れがひとつあるだけ。窓も古い引き戸のものがひとつ。そこに錆び付いた手すりがあって、軒先にロープをわたして洗濯物なんかが少し干せるようにはなっている。でもまあ、干してもあまり意味があるようには思えない。なぜなら向かいはすぐに隣の建物で、手を伸ばしたら届きそうなところに壁があるからだ。
「さっきもちょっと言ったけど、トイレや洗面所、台所なんかは共同。お風呂はないから、近くの銭湯を使ってるよ。小さいシャワーだけはあるけど、あんまりまともにお湯が出なくってさ……」
僕はあれこれ説明しながら、彼を部屋に迎え入れた。
あ、ちなみに彼の名前は「茅野省吾」というのだそうだ。
ここへ来て、新たに入居するため大家さんに説明する必要に迫られ、ようやく彼が「『われをかえりみる』と書いて省吾」だと教えてくれたのである。訥々としたそういう説明も、なんだか奥ゆかしい人柄を垣間見させるようでふしぎに気持ちがよかった。
彼は着のみ着のままの姿で、少し不安げな目をしながら遠慮がちに部屋に入ってくる。
ここは本当に古い文化住宅というやつで、昭和の時代からある建物らしい。大家さんは気のいい年配のおばさんで、自分でも一階のひと部屋をひとりで使って住んでいる。
本当だったら住民票のことだとかなんだとか、もっと厳しく身元をあらためられるはずのところだったけれど、このおばさん――僕らはこの人を「澄子さん」と呼んでいる――はどうやら人を見る目に自信のある人らしく、ちらっと省吾を見たあとは僕に向かって「あんたが責任もちなさいよ」と言っただけで、あっさりと一緒に住むことを許してくれた。
まあ、ちゃっかりと「ある程度の収入ができたら他の空いてる部屋に移ることが条件よ」とは言ったけれどね。その時には保証人をどうするのかとか、また考えなくちゃならないことが沢山あるだろうけれど、ひとまず今はそれでいいということになったのだ。
携帯電話の普及した今はあまりお世話にもならないけれど、玄関を入ってすぐ、管理人室の前には昔ながらの十円玉を入れて使うサーモンピンクの電話機が置かれている。
部屋は一階に二部屋、二階に四部屋で、店子は僕を入れても四名だけ。風紀の問題があるとかですべて男性だ。仕事や学校、アルバイトの関係もあってほかの住人と顔を合わせることはほとんどないけど、そのうち彼のことは彼らにも紹介するつもりだった。
ひととおりそんなことを説明してから、僕は共用の台所でお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れて部屋に戻った。折りたたみ式の小さな四角いちゃぶ台の上にそれを置き、やっと落ち着いて彼と向き合う。
そうやって僕ら二人が座ったら、あとは布団が一式敷けるぐらいのスペースしか残っていない。残りは僕の勉強机と小さな冷蔵庫、それに山ほど詰まれた本やら論文の束やらが占拠してしまっている。いい大人の男としては恥ずかしいことだけれど、僕は片付けと名のつく行為が絶望的に下手なのだ。
彼はいかつい見た目とは裏腹に、こういう場所でどかりと胡坐をかいたりはしない人のようだった。僕が勧めた薄べったい座布団には座ろうとせず、畳の上に直接きちんと正座をして、ひざで両手をそろえている。なんだかテレビで見るような、時代劇に出てくる武家のお嬢さんみたいな感じだ。
(やっぱり、育ちがいいんだな)
僕はマサ叔父さんが言っていたことをふと思い出しながら彼にコーヒーを勧め、自分もマグカップに口をつけた。
(それに、けっこういい男だし)
怪我と汚れまみれだったときには気づかなかったことだけれど、僕は彼を見ながら改めてそんなことをぼんやり思った。
こうしてちゃんと見てみれば、派手な感じはないけれど、省吾は一重の目元も鋭く涼しく、鼻筋の通ったなかなかの男前だと思う。けっこう、女の子にはもてるんじゃないだろうか。
と、省吾がいかにも居心地悪そうにもそりと体を動かしたのを見て、僕はあわてて視線をそらした。
「えっと……それで。一応、ルールなんかを決めておこうか?」
「…………」
彼がこくりとうなずいたのを確かめて、言葉を継ぐ。
「体がちゃんと治ってからで構わないけど、できたら家賃や生活費は折半で。ついでに言うと、家事なんかも分担してくれるととっても助かるかな」
省吾がうなずく。
「実は僕も、いわゆる苦学生ってやつなんだよね。実家に仕送りなんかもしてるし、都会ってほんと、物価が高いし。こういう大学の教科書なんかもバカみたいな値段だしで、そんなに裕福とは言えないもんだから。……いいかな?」
また、こくり。
「あ、えっと。仕事なんかは、どうする……? 日雇いの仕事とか、続けても大丈夫そうなのかな」
そうなんだ。もしも彼がそういう仕事をしている中で何かの揉め事に巻き込まれたのだとしたら、また同じ仕事に就くのは危険なこともあるかもしれない。僕もマサ叔父さんも、何よりそれを懸念していた。
「……いえ。大丈夫、です」
相変わらず、省吾はごく言葉少なだ。
「そうなの? もとのバイト以外にも、なにか当てがあるのかな」
「…………」
どうやら、そういうことでもないらしい。
また少し体をもじもじさせて、省吾は自分の手首の黒いサポーターを少しさするようにしている。
「省吾くん」と呼びかけたら、彼が一瞬、びくっと体を固くした。細めの目を大きくして、じっとこちらを見つめてくる。
「……あ。ごめん」
そういえば僕はあれ以来、彼をちゃんと下の名前で呼んだことがなかったのを思い出した。
「えっと。そう呼んで、いいんだよね……? 一応、僕のほうが年上みたいだし」
「あ、……はい」
「あっ! それともあの、『茅野くん』のほうが良かったかな。失礼だよね、いきなり下の名前でなんて。ごめんね?」
「いえ、あの……」
それから随分と間があって、ようやくものすごく小さな声で「省吾で、お願いします……」と言うのが聞こえた。
困ったようにうつむく姿が、到底その容姿に似合っているとは言いがたかったけれど、それでもやっぱりどことなく可愛い気がした。
(なんだか、変な感じだな)
こんな、自分よりいい体をした男子をつかまえて「可愛い」ってなんなんだ。
まあ、いいけど。
それに、なんだか怯えた子猫みたいな目でこちらをうかがってくる省吾を見ていたら、その形容のほかは頭に浮かんでこなかったんだから、しょうがない。
そんなことをぼんやり思ううちにも、省吾は目の前で一度姿勢を正すと、僕に向かって深く頭を下げたのだった。
「ご迷惑をお掛けします。よろしく、お願いします……」
「あ、……うん。こちらこそ、どうぞよろしくね」
ともかくもそんな感じで、この小さなひと部屋での僕らの共同生活は幕を開けたのだった。