2 マサ叔父さん
やっとのことで小さな間口のその店にたどり着いたころには、とっくに朝がやってきていた。ただ、相変わらずの雨のために空はどんよりと沈んだ鈍色で蓋をされたままで、太陽の位置もわからなかった。
「僕だよ、マサ叔父さん。ちょっとあの……困ってて」
二階を住居スペースにしたその建物の裏手に回り、呼び鈴を押すと、叔父さんは寝巻き姿のまますぐに出てきてくれた。
「俊ちゃん、いったいどうしたの。おやおや……これは大変だ」
そう。
僕のお目当ての場所というのは、このマサ叔父さんの店だった。
東正臣さんは僕の母の弟で、もう何十年も前からこの界隈で小さな靴屋を営んでいる。なかなか腕のいい職人さんで、今ではご贔屓のお客さんが遠くからでもけっこう来るらしい。
近くの繁華街にいる「夜の蝶」なんて呼ばれるお姉さんがたもちょくちょくやってくるらしく、店の中には男性用の革靴に混じって華麗な装飾のあるヒールなんかも飾られている。
マサ叔父さんは、ぽっちゃりした体型のとても温厚なおじさんだ。
五年前、僕がこちらの大学に受かって地元を離れることになった時、母は僕が知らない都会でひとり暮らしをすることをひどく心配していたものだった。それでもやっと最後には「正臣が近くにいる所だったら」と、この近くのアパートに住むことを許してくれたというわけだ。
僕からことの次第を説明されると、叔父さんは二つ返事でこう言った。
「わかったよ。俊ちゃん、午後から学校なんだろう。彼のことは任せなさい。君は帰って少しは寝ていかなくちゃ。そうだろう?」
「はい……。すみません、叔父さん。こんなこと、急に……」
そう言って頭を掻くと、どんなに櫛でとかしてもまっすぐになることのない僕のもしゃもしゃで真っ黒な髪の毛から、水滴がぴょんぴょん飛んだ。叔父さんはにっこり笑った。
「大丈夫だよ。この町には時々こういうことがあるんだ。いちいちびっくりしていられないさ。それに、こういう人を見て見ぬふりして通り過ぎるような甥っ子だったら、めぐ姉さんから君のこと頼まれたりしてないよ、僕は」
「ありがとうございます……」
「めぐ姉さん」というのは、僕の母、恵のことだ。父は僕が小学生のころに亡くなっている。弟の信二はもう高校生になっているけど、六年前に交通事故に遭って以来、ずっと車椅子の生活だ。それ以来、母はその面倒を見ながら仕事をいくつも掛け持ちし、働き通しで僕ら兄弟を育ててくれた。
僕はそのまま彼をマサ叔父さんの家へ運び込み、着替えさせたり傷の手当をしたりするのを手伝ってから家に戻った。
彼に肩を貸して歩いたものだから、傘がうまくさせなくて、こちらも全身びしょぬれだった。僕はアパートの共用スペースでさっとぬるいシャワーを浴びると、自分の部屋に転がり込んで、そのまま布団を広げて倒れこみ、夢も見ないで眠ってしまった。
◆◆◆
午後の授業が終わり、今度は夕方からファミレスの厨房のバイトへ行って、僕はようやく叔父さんの店に行くことができた。
時刻はとうに日付が変わる頃になってしまっていたけれど、マサ叔父さんは快く僕を迎え入れてくれた。
二階の小さな一室に、彼は寝かされていた。叔父さんは一人暮らしなんだけど、その四畳半はきれいに片付けられていて、真ん中に布団が敷かれている。布団の脇に小さな丸いちゃぶ台があって、その上に看病のための洗面器やタオル、包帯、ペットボトルなんかがきちんと置かれていた。
青黒く腫れ上がった顔はそのままだったけれど、彼はそのとき、すでに目を覚ましていた。マサ叔父さんいわく、彼はあれから八時間ほどしてやっと目を覚まし、少しだけれど冷ましたお粥なんかも食べられたんだそうだ。怪我のせいで熱も高く、叔父さんは病院に行くことを勧めたんだけど、彼が頑として「いやだ」と言い張ったらしい。
「保険証もないって言うし、なにより名前を言いたがらなくてね。仕方がないから、『名無しのなっちゃん』って呼ぶことにしたよ」
叔父さんは困った顔でちょっと笑い、頼まれている靴の修理が残っているとかで、僕と彼をそこに残して店のほうへと降りていった。
僕は途中のコンビニで買ってきた飲み物やプリンなんかを取り出してちゃぶ台の上に置きながら、彼の顔をそっと見た。
布団の上で上体を起こした彼は、マサ叔父さんのものらしいTシャツにジャージ姿になっている。叔父さんはぽっちゃりはしているけれど小柄な人だ。だから長身の彼にはあちこち丈が足らないようで、少し動くと腹が見えてしまいそうな感じだった。
袖からもにょっきりと太い手首が覗いている。布団の端から、その手首に黒いサポーターが嵌まっているのがちらりと見えた。
「……あの。良かったらどうぞ? 一応、傷に染みなさそうなもの、見繕ってきてみたから」
僕が恐る恐るそう言って、ちゃぶ台ごと彼のほうへと押しやると、彼は黙って暗い目でこちらをちらっと見て、またむこうを向いてしまった。
それでもこんな言葉がやっと小さく聞こえてきたので、僕はちょっとほっとした。
「……リガト、ゴザイマシタ……」
なんだか片言に聞こえるのは、顔が腫れ上がってものが言いにくいためらしい。それとも、もしかして外国の人だったりするのだろうか。
僕はううん、と首を振った。
「気にしないで。たまたまバイト帰りに見つけて、近くに叔父さんの家があったからできたことだし」
そうじゃなかったら僕だって、きっと「面倒くさい」って見て見ぬふりをしていたかも。実際、あと少しで通り過ぎようとしていたんだし。
叔父さんはああ言ったけど、僕だって決して聖人君子なんかじゃない。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだし、正直なことを言ってしまえば人の面倒を見ているような余裕は、時間的にも金銭的にもないんだから。
「まだ、熱あるんでしょう? 横になっていたらいいからね」
ペットボトルのお茶を差し出してそう言うと、彼は思いのほか素直にそれを受け取って、ゆっくりと口に含む様子だった。「あ、イタ」とか小さく言っているところを見ると、やっぱり外国のかたではなさそうだ。こういう場合、英語圏の人だったら「アウチ」とか言いそうだからね。
顔の腫れは引かないけれど、見たところどうやら彼はなかなか精悍な顔立ちみたいだ。体つきも、やせてはいるが骨太でがっしりしている。ひょろひょろの僕なんかとは大違いだ。
「じゃ、しばらくこちらでお世話になるといいよ。マサ叔父さんは本当にいい人だからね。安心して休んで。えーっと……なっちゃん?」
「…………」
そこからちょっと、なぞの沈黙の時間があった。
やがて、いかにもあれこれ逡巡した挙げ句といった感じで、彼がやっとまた口を開いた。
「ショーゴ」
「え?」
「……名前。ショーゴ、……です」
大きな背中を丸めるようにして、つぶやくみたいな声で言う。
気のせいか、なんだかやたらに恥ずかしそうだ。
「ああ、そうか。『ショーゴ』君って名前なんだ」
こくりと彼がひとつうなずく。
なるほど、姿に似合った男らしい名だなと思った。
声の感じからすると、せいぜい二十歳そこそこじゃないだろうか。
「僕は、俊介。東俊介といいます。マサ叔父さんは本当の叔父さんなんだ」
だから安心して、と続けた僕の言葉に、また彼はひとつ、こくりとうなずき返したのだった。