6 キャンディさん
それから。
僕たちは別々の部屋に住むことになった。それでも毎日朝と晩には、弁当箱をやりとりするために必ず顔を合わせる間柄だったけれど。
「あーら、ショーゴちゃん。あなたほんっとマメよねえ」
同じアパートの二階に住んでいるキャンディさんが、夕方の出勤前にそんな僕らを見てにやにやするのも、もはや恒例になってしまった。
キャンディさんは、本名を熊倉鉄男という、れっきとした男性だ。いや、そう言ってしまうのは失礼なのかもしれない。世の中にはこういった、男性の体でありながら心はそうでない人たちが相当数いるという話だからだ。
このアパートの大家である澄子さんは、この物件を自分以外の女子禁制にしているのだけれど、それは体の性に限ったことであるらしい。
キャンディさんは近くの繁華街の中にある、とあるゲイバーで働いている。背は僕よりも拳ひとつぶん高いぐらいで、体の幅は三倍ほどか。いや、正直、もっとあるかもしれない。こんな狭いアパートの廊下では、この人とすれ違うのは僕みたいな痩せっぽちですらけっこう難しいぐらいの、それはりっぱなお腹をお持ちの方だ。
キャンディさんはいつもこのぐらいの時間から、その豊満な体を派手な花柄のワンピースに包み、指先を綺麗なネイルで飾りたて、ばっちりと化粧をしてお出かけをされる。
本当は、このアパートでは「店子同士の恋愛禁止」ということになっている。まあそもそも女人禁制にしているのだからそういう事態にはなりにくいのだけれど、このキャンディさんにそれを求めるのは少し無理があるようだった。
「いやあん。ほんと、いつ見てもいい男ねえん、ショーゴちゃんたら」
にこにこと太い腕でしなを作ってそんな事を言っている。
別に省吾に限ったことでなく、この人は僕やほかの住人の男子のこともこんな風にして扱うのだ。
「またお弁当? ほんとマメねえ。シュンちゃんたら、ちゃあんと責任とってあげなくちゃダメよおん?」
つけまつげだとかアイシャドウだとかでごってりと飾り立てられたどんぐり眼で見下ろされると、あまりの迫力にすぐに返事が出てこない。
「え、あの……責任て」
しかしこの人、こんな風で意外と人をよく見ているのだ。「あ~ら、やあねえ」なんていいながら、意味深な流し目を省吾に送っている。
「なんでもそうだけど、ナマモノを拾ってきたら最後までちゃんと面倒見なきゃダメでしょう? 中途半端に助けて、中途半端に放り出すのがいちばん罪よ。おわかり? シュンちゃん」
「ええっと……あの、意味がよく――」
「あらあらん。しょうのない子ねえ」
大きな両の鼻の穴から太い息をふきだして、キャンディさんはため息をついたようだった。
ちらりと省吾を見れば、彼は少し青白い顔になって固まっている。彼はどうも、以前からキャンディさんが苦手のようなのだ。
「よく分からないですけど、はい。ちゃんと責任は持つつもりなので。早く行かないとまたママに叱られるんじゃないんですか? キャンディさん」
「あらやだ! ほんと、こんな時間じゃないのう! それじゃね、シュンちゃん、ショーゴちゃん」
そう言ってばさばさと音を立てんばかりに付けまつげを瞬かせると、キャンディさんは地響きを立てるようにして猛然と外へ出て行った。彼――いや、やっぱり「彼女」って言うのが正しいのかな――がいつも履いてるあのヒール、サイズはどれぐらいなんだろう。
キャンディさんがどたどたと古い階段を下りて姿を消したのを確認してから、省吾がちらりとこちらを見た。
「あの……俊介さん。ちゃんとご飯、食べていますか」
「えっ? あ、だ……大丈夫だよ」
「…………」
省吾はすっと目を細めると、数秒間じっと僕を見定めるようにした。
「本当ですか? 自分が転がり込む前は、カップラーメンばかりだったんでしょう。そういうのに戻ってないですよね」
「……う」
そうだった。もともと僕は帰ってきたら手早く食べられるコンビニ弁当やおにぎり、そうでなければカップラーメンをかきこんで近くの銭湯へ行き、すぐに寝てしまうという生活だった。少し時間があるようなときでも、教授にたのまれた実験データの整理をしたり自分の研究論文をまとめたりで、ゆっくり料理なんてしている暇もなかったし。
最近ではデータの整理をするにも論文を書くにもパソコンがなかったら話にならないわけなんだけど、うっかり「持っているノートパソコンが古すぎて使い物にならなくて」と言ったのが運のつき。指導教官の教授から「内緒にしておくんだよ」と釘を刺された上で、中古の――それでも僕のものよりはずっと新型のものだ――ノートパソコンを押し付けられてしまったのだ。
その代わりにと言うのかなんというのか、普段から僕は半分、その教授の助手みたいなことを任されてしまうことが多くなったのである。まあ、このパソコンがバイト代がわりだと思えば安いものかもしれないんだけどね。
「……やっぱり。ウソはダメですよ、俊介さん」
ちょっと中を見せてくださいと僕の部屋を覗いた省吾は、すぐにため息をついて僕をうらめしげな目で見つめた。
「……面目ないです」
僕は素直に肩を落とす。
これまで掃除をする関係で僕の部屋の様子をこまかく見てきた省吾には、隠すだけ無駄だった。部屋の中は省吾が来る前の状態にすっかり逆もどりしてしまっている。ちゃぶ台の上には例のノートパソコンと、空になったコンビニおにぎりのビニール包装やらペットボトル、空き缶などが置かれたまま。ゴミ箱もいっぱいになっていて、さらにその横に出しそびれたゴミ袋がいくつか置いたままになっている。
冬場なのと生ゴミはほとんどないのが救いだけれど、そうじゃなかったら臭いはたまったものじゃないだろう。
以上のような惨状を見た省吾の目がどんどん険しくなっていくのを、僕はなんだか叱られ坊主になったような気分で、ただ黙って見つめていた。
やがて彼が、また小さくため息をついた。
「……こんな自分が言うことでもないですけれど。食事はちゃんとしなくちゃダメですよ、俊介さん」
「はい……」
「体を悪くしちゃったら、研究やバイトどころじゃなくなるんですよ? それで困るのは俊介さんなんですし」
「うん、わかってる」
「まあ、自分みたいに病院にもろくにかかれない奴が言うことでもないんですけどね」
最後は完全に自嘲の苦笑になって、省吾はそう言うと廊下に戻った。
「ね、省吾くん」
そのまま自分の部屋へ戻ろうとする彼を、僕は思わず呼び止めていた。
「そういう君は、どうなの? あれからちゃんと、食べてるの」
「え……」
顔だけを振り向けてこちらを見た彼の目が、ほんの僅かに戸惑って揺れたのを、僕は見逃さなかった。
「人のこと、言えないんじゃないの? 僕と住んでいたときと同じように食事したり、ちゃんと眠ったりとかできてる? できてないんじゃないの、君だって」
「…………」
その沈黙が、全部教えてくれたようなものだった。