5 お弁当
「あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
夜中までやっている歌番組を見おわって、僕らはテレビの時計が零時を示すのを待ち、お互いに新年の挨拶をした。それからふたりで出かける準備をし、一階にいる澄子さんにもご挨拶をしたうえで近くの神社に初詣に出かけた。
大きな神社ではないけれど、そこは地元のひとたちに昔から愛されている古い場所で、毎年、年が明けるのと同時に並べた樽からふるまい酒がおこなわれることになっている。数には限りがあるけれど、間に合えば今年の干支の絵のついた枡も一緒にもらえるのだ。
すでに新年のお参りにきた人々で、境内にはずらりと列ができていた。僕らはその最後尾に並び、一緒に初詣をして、枡と御酒をいただいた。
賽銭箱の前で手を合わせて、神妙な顔でなにごとかをお祈りしている省吾の横顔を、僕は隣からそうっと盗み見た。でも、省吾はごく真剣に、一生懸命なにかをお祈りしているだけで、僕を見ることはいっさいなかった。
その後も、僕も省吾も先ほどの話を蒸し返すことはまったくなかった。そうしてさっさとアパートに戻ると、そのまますぐに布団を敷いて寝てしまった。
なにしろふたりとも、元旦からバイトが入っているのだ。家族のもとに帰るでもない独り者の学生なんて、クリスマスや年末年始はだいたいこんなものだろう。省吾もそれは似たようなもので、やっぱりコンビニやカラオケボックスなどのシフトでびっちりと予定が埋められてしまっていた。
本当のことを言えば、僕は学部の四回生まででコンビニのバイトは辞めるつもりでいた。ところが、あとの人がなかなか決まらず、「なんとか次が決まるまで」と店長から拝み倒されて今まで続けてしまったのだ。まあ、だからこそあの日、省吾に会うことができたとも言えるわけだけれど。
本来、修士課程になったら家庭教師だとか塾講師、あるいは学内で提供されるTAやRA、でなければごく短期・単発の日雇いなんかのアルバイトをするのが主流で、僕みたいに普通のコンビニバイトを続けるような人はそんなに多くない。学部のときのように講義そのものにさほど時間を拘束されない代わり、研究発表や論文作成などの時間が必要だからだ。
ともかくも、結局はそんなことで、お正月の三が日はお互いあれこれと掛け持ちしているバイトに入り、そんなにちゃんと顔を合わせることもなく駆け足に過ぎてしまったのだった。
◆◆◆
「長い間、ほんとうにありがとうございました」
「え、省吾くん……」
省吾からその話があったのは、松の内も明けた一月なかばのことだった。
彼の淹れてくれたコーヒーに口をつけたところだった僕は、危うくそのカップを取り落としてしまいそうになった。
彼は、以前から澄子さんが言っていた通り、このアパートの別の部屋に移ることを決めたというのだ。気になっていた保証人のことは、むしろ澄子さんの方から申し出があって「うまくやっておいたから」ということだった。何をどうしたのかということは、僕にはもちろん教えてなど貰えなかった。
お風呂の顛末があったため、てっきり彼が別のアパートを探すんじゃないかと思っていた僕は、かえってそのことでほっとしている自分に気づいて心の中で自分自身を叱咤した。
「そ、……そうなんだ。僕のほうは別に、このままいてもらっても全然構わなかったんだけど――」
「いえ。いつまでも俊介さんのご厚意に甘えているわけにはいかないですから」
そう答えた省吾は、ごく穏やかに笑っているように見えた。だけどその笑顔はどこか、寂しさを秘めているようにも思えた。いや、それは多分、僕のほうがそんな顔をしていたからなんだと思うけれど。
「本当に、たくさん助けていただいてありがとうございました」
彼はきちんとホットカーペットの上で正座をした姿勢から、僕に向かって深く頭を下げてきた。
「うわ。や、やめてよ。そんな風にお礼を言われなきゃならないことはなんにもしてないんだから」
「そんなことはないです。あの時、俊介さんに見つけてもらえていなかったら、自分なんか……どうなっていたか分からないし」
きゅっと唇を引き締めた彼の顔を見つめて、僕はもやもやと不穏な色を生じさせはじめた胸中の霧の、その意味をはかりかねていた。
そうして翌朝、省吾はここしばらくで買いこんだ少しばかりの衣類と食器とを持っただけで、僕のところからだと斜め向かいにあたる別の部屋に移っていった。こんなおんぼろアパートなものだから、そもそも敷金なんてほんの僅かだ。だから、ちょっとアルバイトを頑張っただけのことで彼にもこんなことが出来てしまったというわけだ。
僕は、完全に自分の悲惨な懐事情ゆえの選択だったのにも関わらず、どうして自分がもっと敷金や家賃の高い物件に住んでいなかったのかと、そのことを心ひそかに恨めしく思ったりした。もちろん、最後にまた深々と頭を下げて「ありがとうございました」と言った省吾には、そんな気持ちは噯気にも出しはしなかったけれど。
彼が出て行ったあとの部屋を振り返って、僕はそれが単純に冬場のことだからでも、人の体温がひとつぶん欠けてしまったからというのでもなしに、変にその場所が何度も温度を下げてしまったように思った。もともとそうだったのにも関わらず、部屋は不思議にがらんとした場所になったように思えた。
と、閉めてしまった背後の扉を叩く音がした。扉を開くとさっき出て行ったばかりの省吾がいて、僕は驚いた。
「え? なに……? どうしたの」
「あ、ああ、あのっ……」
省吾は少し顔を赤くして、しばらく言おうかどうしようかを迷うようなそぶりを見せた。
「……あの。お弁当、なんですけど」
「お弁当?」
僕はきっと、黒縁の眼鏡の奥で目をぱちくりさせていたことだろう。
省吾は困ったように、あの黒いサポーターを巻いた手をもちあげ、口元を少し覆うようにした。
「……えっと。俊介さんさえ良かったらなんですけど。作らせてもらっても、いいですか……? このまま」
その瞬間、どうしようもなく木枯らしの吹きぬけていた僕の胸の中で、ぽん、と明るい色の花が咲いたような気がした。
でも僕は、どうやらそれでもぼんやりと彼の顔を阿呆のような顔で見つめていたらしい。彼はさらに困った顔になり、もごもごと言い添えた。
「あの……。どうせ、自分のも作らなくちゃならないので。ひとつ作るのも、ふたつ作るのも同じですし。でもあの、俊介さんさえイヤでなかったら、ですけど……」
「あ、いや! もちろんだよ!」
僕はそこでやっと、現実に引き戻されて声をあげた。
「決まってるじゃないか! 嬉しいよ! 省吾くんのお弁当、本当に綺麗でおいしいんだもの。そんなの、僕からお願いしたいぐらいだったのに……!」
僕は多分そのときの、彼の笑顔を一生忘れない。
どうってことのない古ぼけたアパートの廊下の隅で、僕はそのとき、ぱあっと綺麗な花が花弁をひらいたのを見たと思った。