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1 路地裏



 彼に逢ったのは、本当にただの偶然だった。

 季節がちょうど秋から冬に変わるころ、ちょっと小洒落た小説だったら「霏々(ひひ)として」なんて形容されるような、冷たい秋雨の降る夜だった。


 その当時、学費を稼ぐためのアルバイトをあれやこれやと掛け持ちしていた僕は、その日はコンビニの深夜バイトに入る日だった。

 明け方、ようやく上がりの時間がやってきて店をあとにした僕は、いつものように午後からの講義に出るまえに少し寝ようとばかり、ともするとれだしそうになる欠伸をかみ殺しつつ急ぎ足に歩いていた。

 と、ふと何かが聞こえた気がして僕は足を止めた。自分のアパートからほんの百メートルほど手前のあたり、ごみごみした小さなわき道の奥の方から、小さなうめき声みたいなものが耳に届いたのだ。

 コンビニで売っている安物のビニール傘をくるりと回して、僕が目線を一周させると、小路のあちこちに散らばったゴミ袋だのポリバケツだのの間から、スニーカーを履いた人の足らしいものが突き出ているのを見つけてしまった。


(うわ。ちょっと……マジ?)


 ここはもともとそれほど物騒な街という印象はなかったけれど、それでも繁華街にほど近い場所にはそれなりのことが色々とある。普段から強面こわもてのお兄さんたちが肩をいからせて数人で歩く姿なんかはよく目にするし、夜ともなれば調子に乗った若者たちがたむろして、大声をあげていたりケンカしたりなんてこともざらにあるのだ。

 こういう街のこういう場所で、こんな時間にのびている人間がいるのだとすれば、それは多分に()()()()問題に巻き込まれた誰かさんであることは間違いなさそうだった。


(ああ……どうしよう)


 もちろん生きていてくれるに越したことはないのだけれど。もしも最悪、あれがお亡くなりになっている人の足だったとしたら。僕はその第一発見者として、これから警察にあれやこれやと事情を聴かれ、足止めされて、貴重な睡眠時間を奪われることになってしまうだろう。

 「放っておけよ」という悪魔のささやきが、ちらちらと脳裏にうごめく。

 このまま何も見なかったことにして歩き去ったからと言って、誰にとがめられるわけでもない。今の僕を見ているのは、多分そこらに設置されている人情味のかけらもない監視カメラぐらいのものだろうから。


(……いや。ダメだ)


 しかし、僕はすぐ、勝手にむくむく湧きあがってしまったそんな不届きな考えを振り払った。

 ダメだ。少なくとも、いま僕が目指しているあの仕事に就こうとする人間なら、こういう時に見て見ぬふりをするべきじゃない。そんな「悪魔のささやき」に耳を貸す人間であってはいけないんだ。

 とかなんとか、カッコいいことを言っても始まらない。なぜなら僕は、実際そこまで決心するのに結構な時間を費やして、その場をうろうろと意味もなく何度も往復したからだ。なんのことはない、要するに僕なんて、ただのどこにでもいる小心者の若造に過ぎないということだ。

 それでも結局、僕は雨のしずくの少しくっついたメガネを押し上げ、ビニール傘の柄を握りなおして、その小路に入り込んでいったのだった。




◆◆◆




「……ねえ。あの。大丈夫、ですか……?」


 ビールの空き缶だのバナナの皮だの惣菜の入っていたらしいポリ容器だのといった生活ゴミがてんでに散らばり、雨で汚い水溜りまでつくられているその場所に、彼はめちゃくちゃになって倒れていた。

 誰かによってたかって好き放題に殴られたり蹴られたりしたらしく、顔は赤紫色に腫れあがり、瞼も腫れて開かなくなっている。人相もよくわからない。

 髪は少し茶色くて短いものだ。こんな季節にランニングシャツ一枚。下は工事現場なんかでよく穿くみたいな、だぼっとしたカーゴパンツだ。どれもこれも、泥だらけな上にぐっしょりと血や雨に濡れていて、もとの色さえ判別がつかない。殴られた拍子に嘔吐したのか、衣服からはえた胃液のにおいまでした。

 そんな惨憺さんたんたる様子ではあったけれども、さすがに人を傘の先でつつくなんて失礼なことはできないので、僕は恐る恐る彼――一見して、彼は男性にしか見えなかった――の肩にそうっと触れた。


「う、……わ!」


 僕はちょっと、いやだいぶ、みっともない悲鳴をあげて飛びのいてしまった。

 壁に上体をもたれさせ、足を放り出すようにして座っていた彼の体が簡単にずるずるとずり落ちて、横向きに倒れこんでしまったのだ。倒れた先には敗れたゴミ入りのポリ袋があり、それがぱりぱりと音を立ててクッションのように彼を受け止めた形になった。


「うわ、うわ……。ちょっと、しっかりして――」


 こんな全身怪我まみれの人、いったいどこを持てばいいかも分からない。下手に骨折でもしている箇所に触ってしまったら、骨が内臓を傷つけるかもしれないのだ。

 だけど、こんな状態の人をいつまでもこんな不潔な場所に放置しておくわけにも行かない。僕はなけなしの勇気を奮い起こして、意識を失っている彼の腕の下に体を入れ、どうにかこうにか彼を抱きおこした。

 僕は、背だけはひょろりと高いけれど、それにふさわしいだけの筋肉というものを持ち合わせていない。触れてみた感触だと、彼も僕と同じぐらいの背丈みたいだったけれど、筋骨逞しいところは完全に僕よりもはるかに男らしい感じだった。その分、体重もしっかりあって、なかなか持ち上げるのに苦労した。

 立ち上がらせる時、彼が小さく呻いたようだったけれど、とにかく意識のない人には「どこが痛いですか」と聞くわけにもいかない。僕はゆっくりと彼を助けおこし、なんとか立ち上がると、唯一の当てを目指してよろめきながら歩き出したのだった。

 


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