「10」ジズ
月。
グルジェフの、「人間という工場」に於いて、それは人類の本体なのではないか。
記角麒麟は、1人、とあるビルの最上階で、機械に繋がれた被験者を見ながら、そんな雑孝をしていた。
今夜は月が赤い。いや、紅いといった方が、雰囲気にあっているだろう。
紅い月光が照らすこの最上階で、彼はふふっと、笑みを浮かべる。
『やけに楽しそうだな?』
「そりゃあ、ね。こんな壊れた世界で、これだけの被験者がそろうというのは最早奇跡だからね」
壊れた世界。
それは、彼の望む世界へ着実と変貌を遂げていく世界。世界の理が、書き換えられていく世界。数多くの矛盾が、解決されようとする世界。
それはもう、もとのあの世界とは全く違った様相を見せていた。
『奇跡....な....』
ソロモンの悪魔の二十九柱目の存在であるアスタロトによって、あらゆる秘密を知る力で、天地開闢の秘密を知って、その神のような幸運と知力で悪魔の力を我が物にし、この現在を創った彼。
奇跡なんて、この世に存在しないことを、一番よく知る彼が言っても、それは仕組まれた運命としか思えないのだ。
全く、人間臭いAIである。
『それで、アスタロトの出した宿題は提出したのか?』
「無論、合格だったよ」
彼はシステムにそう答えて、うっとりとした顔をした。
(俺の願望は、終わることはない)
彼は、ニヤリと微笑むと、6と書かれたカプセルベッドで眠る、一人の幼い少女に頬擦りをした。
「....道に迷ったな」
広い、東家の実家で、杏子によってあの牢獄じみた浴場に閉じ込められ、脱出してから、俺の時間感覚が狂いはじめて、どれくらいたっただろう。
最初に見た中庭ほ約三倍くらいはありそうな、広い和室の中で、俺は困ったように呟いた。
「そうじゃの。ここじゃ、時間も確認できんし....。かといって、来た道を戻るのもな....」
旧サブシステム・バックアップ・アカウント擬人化AIこと、因幡朔は、もう歩くのは疲れたとでも言うようにそこに寝転んだ。
正直俺も、そろそろ足が痛くなってきた頃だ。特に足首と太ももが。
俺も、彼女にならってその場に寝転んだ。
グー。
腹の虫が鳴く音が、かれこれ数分前から鳴り続けている。
(屋敷で道に迷って餓死なんて、笑えないぞ....)
腹が空きすぎて、若干気分が悪くなってきた。
グー。
朔の腹の虫も悲鳴をあげているようだ。
喉も乾いてきた。
(もう無理。死にそう....)
まだ死ねないのに。まだ、あれを殺していないのに、餓えて死ぬ?バカな。そんなことは死んでも許さない。
俺はとりあえず、今までに通ってきた道から逆算して、頭の中で一応のマッピングを試みる。
そして、最初に外部から見た時の大きさや、窓の配置、屋敷の立地、そこから得られる大気の流動の規則性等を思い起こす。
この道を通ったときは、この方向に風が流れた。このときの空模様はどうだった。だとか。色々と思考した。
しかし、空腹でもうろうとした頭では、もうそんなことはどうでもよくなりつつあった。
(杏子め....)
まるで入ったものは出てくることが叶わないという富士の樹海に、目隠しをして奥深くまで連れてこられた気分だ。
しばらく、静かな時間が過ぎた。
何時間たった?あるいは、そんなに経っていないのかも知れない。
ガタン、と、部屋の襖障子が開かれた。
「ここにいたか、イナバ!」
「京....馬....」
なぜ、こんなところに京馬が?
「ったく、世話かけやがって。おいアン!お前のせいだからな!手伝え!」
(やった....助かった....のか....)
俺は、その安心しきった彼の顔を見て、少し安堵した。
しばらく廊下を進むと、食べ物のいい臭いがした。
「イナバ、飯は食えるか?」
喉が乾きすぎて声が出せないので、俺は首を縦に振る。
目の前に出されたのは、豚のしょうが焼き定食だった。
「いただきます!」
ああ、なんて幸せなんだろう。
食事ができるって、今まで感じることはなかったが、とても幸せなんだな。
そして、俺はみるみるそれを平らげたのだった。
「ごちそうさま!」
「イナバ、いるか?」
朝食後、睡眠をとっていると、部屋に京馬がやって来た。
「なんだ?」
「アンのこと、改めて謝っておこうと思って。すまなかったな」
彼はそう言うと、畳の上に腰を下ろした。
「大丈夫だ。にしても、お前の家....というよりもはや城だな」
お陰で道に迷った。
家の中で道に迷うって、はじめての経験だったな。
危うく死にかけたし。
「まあな。親父の趣味なんだよ。それで、休んでいるところ悪いが、お願いがあるんだが。いいか?」
なんだろう。
「別に、今はそれほど疲れているわけではないから、聞くくらいはするけど」
そう答えると、彼は頭をガリガリと掻いて、言った。
「ジズが焔陽炎を試したいらしくてな。俺じゃ、なんの練習にもならないから、よければなんだが。相手してくれるか?」
「ジズの?」
確か焔陽炎は薙刀だったな。俺も、薙刀を相手にしたことは無かったし、ここで経験を積むのもいいかもしれない。
「頼めるか?」
「わかった。案内してくれ」
京馬に連れてこられたのは、広い体育館だった。だいたい、二千人くらい人が入りそうな、大きな体育館だ。
「きょーま!そのひとだれ?」
入ると、赤い薙刀を持ったジズがこちらに近寄ってきた。
「因幡六花。お前の相手をしてくれるよう頼んできたんだ」
「ほんと?!ありがとー、きょーま!だいすき!」
東京馬、シスコン疑惑。
いや、ジズが単にブラコンなのかもしれない。
「そんじゃ、イナバ。よろしく頼む」
彼はそう言って、俺の頭を撫でると、体育館を後にした。
「それじゃ、ほんきでおねがいしますね、いなばさん?」
彼女は間合いを取ると、薙刀を構えた。
瞬間、彼女の姿が認識しづらくなった。
(?!)
見えてはいる。しかし、見えているはずなのに認識できない。まるで、陽炎のように、姿がぶれている。
(なるほど、それで焔陽炎か)
これはあの薙刀の効果だ。おそらく、心理学なんかを応用していたりするのだろう。
俺は、無武の構えをとった。
「構えないんですか?」
彼女はそう聞いてきた。
そういえば、最近そんなことは聞かれなかったためか忘れていたな。
どんな姿勢からでも、あらゆる攻撃に対応し、あらゆる技を使う。それが、無武の構え。
一見、構えていないように見えるが、実はかなりの神経を使って、あらゆる状況を想定して、常に最善の手を尽くそうと、脳では行動パターンが設定されている。
これは、相手をおびき寄せたりする際にも有効なため、相手に先手を与えやすい。
だからこそ、勝てる。
「構えてるよ?」
俺は比較的優しい声でそう言った。
彼女は、そうですか。と言って、足に力を込めた。重心が乱れる。
突如、彼女の薙刀が、俺の頭部を襲った。
(?!)
間一髪で回避し、距離をとった。
(抜き足と、薙刀の能力が合わさっているのか....)
なかなかに厄介だ。
何せ、相手の認識が常にずれているのだから、余計な動きが混じってしまい、結果、隙を作ってしまう。
彼女の武器の刃が、俺を襲う。
間一髪で避ける。
突き、突き、袈裟斬り、逆袈裟斬り、横薙ぎ、斬り落とし、柄で突く、押す、そして、突きが来て薙刀を旋回させて接近を排除する。
なかなかの技量だった。そこに、一切の無駄な動きはなく、精錬された技があった。
隙がない。
(リーチの差だな)
俺はまだ本気を出してはいないが、わかる。彼女は強い。そんじょそこらの野郎よりは確実に。
「どうしたの?ほんきでくるんじゃないの?」
彼女は一切息が上がっていない。その上、挑発的な言動をとる余裕すら感じられる。
彼女が突きを繰り出した。
もう彼女の癖は見えた。
俺はその突きを脇に挟んで防御し、そのまま逆の手の甲で柄を内側へと引く。
テコの原理で、彼女は軽く宙に浮き、そして、背後に振り落とした。
針流、大半花。
本来は暁鬼の構えから放たれる投げ技で、相手の腕を自分の腕で絡めとり、もう片方の手で相手の体を固定して背後に振り落とす技だったが、今回は相手が薙刀だったのでこの方法をとった。
彼女は空中で手を離すと、受け身をとって着地した。
今の彼女に武器はなく、俺は彼女が自ら手放した薙刀を持っている。
「や、やるね....おねえちゃん....」
彼女は驚いたようにそう言った。
「驚いたのはこっちだよ。まさか、その年でこれほどの技量とは。やっぱり天才だな」
彼女の怪物じみた身体能力は予想してはいたが、もはやここまでとは思いもしなかった。
「おねえちゃん。ほんき、だしてないでしょ?わたしほんきだったのに」
ジズはふぅと一息つくと、その場に座った。
「まあな」
正直に言えば、あの焔陽炎の能力は、俺にとって無意味だ。いや、殺気のなかった彼女の攻撃は、それに対して、有効ではあったが。
殺気を隠して殺す。面白い才能だよ。正にあの武器を持つにふさわしい能力だ。
俺は彼女に薙刀を返すと、その場に腰を下ろした。
「お見事じゃったの、小娘」
どこからか、朔の声がした。
見回しても、どこにもいない。
(どこだ?)
「ここじゃよ、ここ。主の足下じゃ」
言われて、俺は足下を見た。すると影から朔の顔が浮き出していた。
「うおぅわおっ!」
びびったー。マジでびびった。腰抜かすかと思った。
「そう驚かんでもよいわい。妾は単なるデータじゃ。こんなことができてもおかしくはなかろう?」
「いやいやいや、十分おかしいから。おかしいを通り越してもはやホラーだわ!」
そう言うと、彼女は不服そうな顔をして、よいしょと言って影から抜け出してきた。
「そう騒ぐな。誰かにでも見られたらどうするんじゃ?」
お前が言うな!と思ったのは、果たして俺だけだろうか。
「まあ、心配せんでも、そこのジズとやらは妾が眠らせておるからの。安心して話せ」
ふと横を見ると、確かに彼女はぐっすりと眠っていた。
(いったい、いつの間に....)
そんな疑問を浮かべながら、俺はふと気になったことを聞いた。
「そういえば、朔。今までどこにいたんだ?もしかして、ずっと俺の影の中にいたのか?」
そう思うと、少しゾッとするところはあるな。
「なめんなよ?妾をなめるなよ?妾を誰だと思っておるのじゃ。そこらの影の中に潜むくらい、朝飯前じゃよ!」
「忍者か!」
怖いな。こいつに命狙われたら、俺にはたぶんどうすることもできそうにない。
はぁ、と、俺はため息をついた。
正直、彼女の攻撃を避けるのに体力の消耗が激しかった。それに、大半花は、ある程度体力も使う。
あれから睡眠も浅いからな。疲れがたまるのも道理だろう。
「なんじゃ?疲れておるのか?」
朔が、ニヤニヤしながら、こちらの顔を覗き込む。
「あぁ。正直な。疲れた」
俺は、ばたりとその木の床に寝転んだ。
(今頃、ニーフ達はどうしているだろうか)
吸血鬼どもが城に攻めこんで、向こうではおそらく4年ほど経っているだろう。
いい加減に向こうへ戻らないと。
厄介な神祖一族は俺が消滅させたから、かなり難易度は落ちただろう。それでも、吸血鬼に人間が勝てる可能性なんて、大気中の酸素原子一粒程度と言ってもいいくらい、低い。
やつらの攻撃で、こちらが負ける確率なんて、高いというレベルを遠に越している。
下手をすれば、帰ったときには人類がいなくなっている可能性すら存在する。
そして、そのルートをほぼ確立させた記角麒麟。
(一体、何者なんだ?)
とにかく、今は一刻も早くあの蛇を殺さなければならない。そのためには、向こうへと渡る必要がある。そして、向こうへ行けば、すぐさま大穴へ行き、血の石をすべて破壊する。
向こうへ渡るには、あの記角麒麟をどうにかしないといけない。
でも、どうすればいい?
どうやって、向こうへ行けば....。
「アリスゲームって、もしかして俺が思ってたものとは違うのか?」
俺はてっきり、アリスゲームとは、奴の願望成就のためのお遊びかと思っていたが、実は全く違った?いや、それとは別に、もうひとつあった?
一体なんなんだ?
「なんじゃ、アリスゲームについて知りたいのか?」
「知ってるのか?」
「いや、知らん。ほとんどデータは消されてしまったと言ったろうが」
(なんだよ。やっぱり使えないじゃねえか)
俺は、期待を裏切られた気分で、ため息をついた。
「使えない」
「口に出すなよ!思っていても口に出すなよ!?ったく。はやとちりしおって。ほとんど消えたのであって、完全に消えたとは誰も言ってはなかろうが」
彼女は全く....と呟きながら、腕を組んだ。
「じゃあ、少しでもそのデータは残っているのか?!」
少しでも残っていれば、何か手がかりになるかもしれない。
俺は起き上がると、彼女を見つめた。
「ん?ま、まぁ....な。でもちょっとじゃぞ?」
「それでもいい!教えてくれ!」
若干引いている感じはするが、それでも構わない。
向こうに帰ることができる。そのヒントであれば何でもいい。
「し、仕方ないのぉ....」
彼女はなぜか顔を赤らめながら、そう言った。
「な、なら、少し場所を変えよう。誰かに見られでもしたら、大変....じゃし、の?」
彼女の挙動に、少し不信感を覚えながらも、俺はわかったと頷いた。
次回「11」




