「01」熱と悪意と殺意と血の臭いの満ちた部屋で
燃え盛る赤。
ミシミシと音を立てて、木が朽ち、灰になる。
静寂さの欠片もない中、その森はとある事件に巻き込まれていた。
「鬼だ!鬼が出たぞ!」
あちらこちらから悲鳴が沸き上がっていた。
ごうごうと燃え盛る炎の中、彼らはフナムシの溜まり場に石を落としたように散り散りに逃げ惑っていた。
そこに余裕など微塵もなく、あるのはただただ生き残ることだけを考えた生存本能のみ。
──まるで獣である。
燃え盛る街中の木々が、乱暴に折り倒され、その炎が民家から民家へと燃え移る。
炎の嵐が、森を消し炭へと変えて行く。
その様はもう、地獄絵図である。
──鬼は残忍に笑い、燃え盛る街を闊歩する。
「……」
「この、鬼め!」
そんな彼に、一人の勇敢な男が立ち向かっていった。
しかし、それもすぐに、虚しい赤い花を散らせていった。
……その様に、俺は無力感を植え付けられた。
足がすくむ。
背中に流れる冷や汗が、まるで氷のように冷たく感じる。
必死に込み上げてくる吐き気を押さえる。
「……」
俺は状況を冷静に把握しようと、思考を巡らせる。
二階の部屋の中。
妹と二人であることも相まって、少しの安堵感が冷静さを引き留めてくれる。
「にぃ、早く逃げないと!逃げないとみんな殺されちゃう!」
しかし彼女は完全にテンパっているようだ。
「わかってる!」
焦る心を、理性で圧し殺すのももう限界に近そうだ。
……しかし、かといっても今ここから逃げなければ、確実に殺られる。
それはわかっているのに、どうやって逃げればいいかわからない。
早く……どうにかしてこの状況を打開しないと──。
(くそっ……!)
親を置いて逃げる方が、今ここにいる二人だけででも逃げた方が、生存確率は高いだろう。
しかし、今の俺には、そんなことはできない。
親を残して逃げるなんて、とてもできない。
俺の今とれる行動は、親のところへ行き、共に逃げることだけ……。
だがその場合、クレアを放置する形になってしまう。
そんなことをすれば、クレアを死なせてしまうかもしれない。
(どうすれば……どうすれば生き残れる……!?)
窓の外を睨みながら、俺は必死に思考を巡らせる。
火事ということもあり、周囲の酸素も残り少なくなってきている。
酸欠で頭がふらつく。
「にぃ……」
そんな俺を心配そうに見つめるクレア。
俺は、クレアを安心させるために、その銀髪を撫でた。
「大丈夫だ。俺は少し下の様子を見てくるから、お前はここで待っていろ。誰か来たらすぐにでも逃げられるように準備しておくんだ。いいか、絶対に降りてくるなよ?」
鬼が俺の家へと向かってくることを確認すると、俺はニコリと微笑んで、不安そうな顔をするクレアの額に、キスをした。
同時に、守護のルーンを組んで、その魔力を彼女の体に流し込む。
「にぃ!それは……!」
「いいか?絶対に約束を守れよ?」
ここももうすぐ火の海になる。
逃げたとしても、時間が足りない。
だけど、クレアだけなら。
クレアだけならば、なんとかなるかもしれない。
(ルーンの効果時間は30分……その間に逃げてくれれば……)
俺は彼女にハグをした。
俺は、まだ名残惜しいその腕の感触を確かめながら、その場を後にした。
部屋を出た俺は、急いで一階にある両親の寝室へと向かった。
「!?」
鬼は既に家の中へと潜入していた。
予想はしていたが、奴の姿を見た途端に、俺の体は急にすくんで動かなくなってしまった。
恐怖が俺の中へと雪崩のように入り込んでくる。
吐き気と寒気が、俺を襲う。
(一酸化炭素中毒……こりゃ、ここから出ることが出来ても、もしかしたら死ぬかもな……)
それだけならまだしも、この感覚……。
殺気にあてられたか。
朦朧とした頭で、俺は彼を見据える。
「──」
彼は異国の言葉で何かを話し、そして俺の方を向いた。
──その驚くほど冷たい、光の灯らない眼光は、鬼と呼ぶには可愛すぎた。
俺の動悸が激しくなる。
鬼の黒い瞳が、炎の赤を照らし出す。
部屋の中はもう火の海だ。
逃げ場なんてもう無い。天井もそろそろ崩れ落ちそうだ。
足がふらふらと力なくよろめく。
俺はそれを必死に耐えた。
足が動かない。
鬼がその手に持った刀を振りかざした。
(くそっ……ここまでか……)
体が言うことを聞かない。
絶体絶命。
ゆっくりと引いていく血の気に、俺は死を覚悟した。
炎の揺らめきが遅くなっていく。
彼はすっと目を細めて、その口角を上げた。
──それは、殺しを楽しむ鬼の形相をしていた。
黒い髪を一つに束ねた男が、刀を降り下ろす。
反射的に、俺はその攻撃を避けた。
「うぐっ!?」
さっきの動きのせいか、頭がぐわんぐわんと揺れるような感覚に陥る。視界が回り、吐き気が増してくる。
──ちょっとかすったな。
(不味い、これ以上動いたら意識を持っていかれる……)
彼の目を見据え、次の行動に対処するための準備を始める。
よろめく鬼。
霞む視界には、更に広角をつり上げる奴の顔が映る。
「……」
俺の息も、もう虫のように小さい。
大気中の酸素もそろそろ底をつきそうだ。
しかし炎は弱まることを知らない。
──すっと目を横にそらすと、開いたままになっている玄関の扉が見えた。
感心した風な顔をする彼を他所に、俺は必死に打開する策を巡らせる。
(戦うしない……!)
俺は力の入らない拳で、彼の顔面を狙って殴りかかる。
しかしそれは悠々と回避され、その刀の峰で腹を殴られ、吹き飛ばされる。
「ぐふっ!?」
ただでさえ息苦しいというのに、その痛みに身体中の酸素が抜ける。
やっぱり、戦うなんて悪手でしかなかったんだ。
背中が本棚にぶつかった。
棚から鉢植えが落下し、音をたてて散らばった。
痛みと酸欠に苦しむ俺をよそに、鬼は表情を変えずに両親の方へと向かった。
「止めろ……!」
思考が鈍る。強い疲労感が襲い、立ち上がることすら難しい。
おそらく俺たちがここで殺されたならば、俺の部屋に待機させていた妹のクレアまでもが、こいつによって殺されるだろう。
必然的に、俺には逃げ場はない。
絶対に負けられない....。
俺の魔力も、いつまで持つか....。
守護の魔法が切れるまで、あと何分だ?
(せめて、逃げていてくれれば....)
判断力の鈍った状態では、正常な判断ができずに思考が脱線してしまう。
....戦うしかないか。
幸い、授業で俺は実践に近い戦い方を覚えていた。
奴に通用する可能性は極めて低いが、今の俺にはそれくらいしか考えられない。
俺は気だるい体に鞭を打って立ち上がると、その激痛に痛む背中を無視して、鬼にタックルをする。
しかし、それは彼によって受け流され、母親を巻き込んで壁にぶつかる。
「くはっ!?」
母親の長い白髪は、すでに炎の色を反射させて、力なく萎れ萎えていた。
二人をまとめて殺してしまおうと言わんばかりに、彼はその刀を振り抜いた。
がこん。
重いものが、木製の床に落ちる鈍い音が、辺りに響く。
俺は、恐る恐る目を見開くと、そこには首の切り落とされた父親が、俺たちをかばうようにしてそこにいた。
「!!」
俺は目を見開いた。
俺は、この状況が理解できなかった。
ぐらぐらと揺れる視界の中、俺は狂喜に微笑む鬼を見た。
しばらくして、ゆっくりと現状を把握していく俺の脳は、ついに限界を迎えそうになった。
もう理性が限界を迎え始めた。
怖い。
怖い怖い怖い怖い。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
自分もあのように殺されてしまうかと思えば、恐怖で一杯になってしまった。
しかし。
「よくも!よくもよくもよくもよくも!」
夫の亡骸を前にした母親が、狂ったように叫びながら、鬼へと特攻した。
制止をかける余裕もなく、彼女は俺の前から消える。
面倒くさそうに払うその刀が、その胸を切り裂いた。
赤い、深紅の血が辺りを染める。
部屋が両親の血液で赤く染まった。
「よ....くも....アレイを....っ!」
まだ息の残っていた母親を、彼は一瞥して、その腹に蹴りを入れる。
「うっふ!?」
口からその血が吐き出され、傷口は広がり、血の池を作る。
「....!」
そんな状態になっても、彼女は鬼を睨み続けた。
「殺してやる....絶対にぃ....!」
そうして、彼は彼女の首を、その日本刀で切り落とすのであった。
「あああああああ!」
その雄叫びに、彼は心底不快そうな顔をすると、俺を蹴り飛ばし、床に叩きつけた。
そんな時であった。
鬼の後ろに、大事そうに人形を抱える妹の姿があった。
「キャーッ!」
「逃げろ!」
彼はそんな俺の様子を見るなり、ニタリと微笑んだ。
「やめろ!何をする気だ!?」
彼はとた、とた、とたと、足がすくんで動かないクレアに、彼はゆっくりと近づく。
思考が、理性が追い付かない。
足が動かない。
「やめろぉぉぉぉおおお!」
俺は動かない足に鞭を打つが、間に合わない。
そして、彼は日本刀を降り下ろして、その心臓を切り裂いた。
血の飛沫が、更に舞う。
何もできなかった自分に腹が立つ。
俺は全気力を振り絞って、鬼へと殴りかかった。
フッと、視界が反転する。
何か起きたのか、さっぱりわからなかった。
ただ、その次に見えた、首のなくなった俺自身の体を見て、そして、刀を振りきった様子の彼を見て、何となくは顛末が見えた気がした。
(死んだ?)
いや、ちがう。
そうじゃない。
俺は、俺たちはこいつに、殺されたんだ。
「絶対に....殺してやる....!」
熱と悪意と殺意と血の臭いの満ちたこの空間で、俺はその生首だけとなった頭で宣言した。
「──」
そして、彼が何かを喋った。
しかし、それがなんなのかは、俺には理解できなかった。
体から何かが離れていくような感覚に陥り、瞬間の浮遊感にみまわれる。
そう、俺はこの時、その一生を終えたのだ。
時にして18歳。
レレム・リル、他家族三名が、その部屋で死に絶えた。
この頃はそこにいた誰もが思ってはいなかっただろう。
この場にいる彼、レレムが、復讐を達するために転生してしまうなんてことは。
(呪ってやる....)
心の中で呪詛の言葉を吐いて、俺の視界は暗転した。
さあ、今宵が転生譚の幕開けだ──。
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