現代から新たなモーツァルトは生まれるか
芸術は形式であるか、内容であるか、というような議論は昔から行われていた。今またその問題を個人的に蒸し返してみたい。
例えば、モーツァルトという作曲家がいる。この作曲家は世界中で賞賛されている天才であり、またその才能には疑いようのないものがある。だとすると、僕はこのモーツァルトの形式を丹念に学び、そして、そのような曲を造る事ができれば、僕はやはりモーツァルトのように世界中から賞賛される天才へと昇華できるだろうか?。・・・・・その答えはおそらくノーだろう。
僕は思うのだが、芸術に携わる人間が最初に必ず犯す間違い、そしてその最大の誤ちというのは、「芸術は永遠なり」というものだ。僕達はモーツァルトやベートーヴェンをYOUTUBEなど聴いて、その楽曲に感嘆する事ができる。僕がゲーテを読んで涙を流す事は当然ありうる。たが、誤解と誤ちの原因は多分、そこにある。そして、僕はこれまでずっと、そういう誤ちを犯してきたらしい。できれば、今から話す事を十代の自分にタイムマシンで帰って聞かせてやりたいものだが、十代の僕がそれを理解できるかどうかは、かなり怪しい。
「芸術は永遠なり」。この公式から出発して、芸術をただの形式と見る事は可能だ。そして、半端な学者連やディレッタントなどは昔からそう見てきた。そして、その形式論から始めて、例えば「ドストエフスキーっぽい」作品を造る事は可能だ。あるいは、今のライトノベルの応募作などを見れば、そのような「っぽい」作品で溢れているのではないか、と思う。そしてそういう作品では毎回毎回、義理の兄に妹が擦り寄ってくるのかもしれない。だが、そういう作品を書いている人は次のように僕に抗弁するだろう。
「だってそういう作品が売れているじゃないか?。だから、僕もそういう作品を書いたのだ。それの何が悪いのか」と。
それに対して、僕はビジネス的な用語で返す事にしよう。
「大切な事はマーケティングして、それに見合う製品を提供する事ではない。そうではなく、市場そのものを開拓する事にある」と。優秀な経営者というのはこのように、大抵、市場自体を、消費そのものを生産によって生み出す事を自分の中の目的としているが、しかし、その方法論は不明である。だが、人々から見ればその方法論が不明だという事が不服だろう。受験勉強にはノウハウがある。何故ならそこには正解がすでにあるから。そして、受験の最大のノウハウは予め、その答えを知っている事である。・・・僕はふざけて言っているのではない。既に決定されている答えを解く事など、そう大した事ではないと言いたいのだ。大切な事は、ない答えの中に問いそのものを設定する事にある。そして、適切に問う事ができれば、その答えも適切に違いない。問題は前人未到の地を行く事だ。そして前人未到の地は常に無限に広がっているが、整備された道しか知らない者にはこの地はただの荒れ地に過ぎない。一部の人間にとってピンチはチャンスだが、人々にとってはピンチは文字通りピンチと映る。要は考え方次第ーーーしかし、考えた後には一歩前に進まなければならないだろう。
確かに、芸術は形式に過ぎないし、モーツァルトにはそれ固有の形式性がある。そして、それが天才性の証だという事も確かだ。だが、僕らが忘れてはいけないのは、それがモーツァルトという固有の人間が作った事、そしてその作った時の社会環境は今とは全く異なる、という事にある。例えば、モーツァルトは現代のピアノのような精巧なピアノは持っていなかった。(吉田秀和のエッセイに載っていた。)それに、モーツァルトの時代は、我々の社会のように、こんな様々な雑音には満ちていなかったであろうし、また、音楽が『BGM』として使われた事もなかっただろう。我々はモーツァルトをモーツァルトとして聴くが、しかしモーツァルトにとっては、それが彼の社会環境という檻から出る唯一の脱出方法だった。モーツァルトは音楽によって、世界の彼方に飛び立った。・・・だが、その場合の『世界』というのはあくまでもその当時の『世界』であり、今の『世界』とは全然違うものだ。だから、今私達がこの世界を足蹴にして、自分の世界を作りたければ、それは当然、モーツァルトとは違った形式の楽曲を作らねばならない、という事になるだろう。(そもそも『楽曲』でいいのか。映像もつけた方がいいのか、なども考えなければならないだろうが。)そして、その場合、現在の楽器その他のテクノロジーも問題になってくる。僕は、芸術とはあるもの何でも使って良いものだと理解しているし、芸術家はありとあらゆる道具、観念に通暁して損はない。もちろん、全部を使う必要はないのだが、しかし、道具に精神が縛られるのは不具である。仮にも芸術家であるなら、精神が道具を支配しなくてはならない。だから、エレキギターを使っていたら音楽ではないとか、あるいはボーカルの音程を処理してたら、真の音楽ではないとか、電子書籍は本当の本ではない、などという議論は根本的にナンセンスである。それらは、芸術とは関係のないノスタルジックな議論に過ぎない。芸術は精神に憑かれた物のいいである。どうして、物の形が全てだと勝手に思い込むのか。そういう事を言う人間は、芸術を擁護しているようで、実は芸術を冒涜している。・・・とはいえ、それは芸術が精神の産物である限りにおいての事であり、もしかしたら、彼らの頭の中では芸術は何かの製品と同列に考えられているのかもしれない。だとしたら、特にかける言葉はない。
芸術とは確かに形式性に過ぎない。だがしかし、それが再び芸術としてよみがえるのは、僕達がその中に内容ーーーつまり、精神を読み込むからである。オーディオオタクにはわかりにくい事だろうが、僕らに必要な最大のプレイヤーは僕ら自身の心である。千年前の作品に涙を流す為には、僕達の心に、千年の時を遡り、そしてそこに一つの純粋な精神を読み込み、再生できる上質なプレイヤーがなければならない。いくら音が良くても、心という名のプレイヤーのできが悪ければ、それは何の意味もないのだ。そして、この心というプレイヤーは磨く事ができる。成長する事ができる。これは物を扱う事、物を磨く以上に楽しい事であるが、そこにはもちろん、物の助けがいる。物は、あくまでも僕らの味方であり、目的ではない。
芸術とは精神に彩られた形式であり、これを社会学的に、あるいは生物学的に考える事はできるが、しかし、結局の所、芸術的に見なければ見えてこないものだという事を忘れてはならない。僕達はその中に一つの精神を、魂を読み込む。そして、その魂というのはいつも真っ白に輝いて見えるだろう。そして、そういう経験をたくさんするからこそ、僕らは芸術は永遠なるものと見誤ってしまう。これは厄介な事だが、本当だ。もう少し言うなら、作るのと見るのとでは大違い、という事だろう。僕らは見ている時は、「こうやればいいんだろう」ぐらいに思っているが、実際取り掛かると今までそんな風に考えていた事が全部嘘だった事が明らかになる。これは何かを製作しようとした(芸術に限らず)人には通有の体験であるように見える。傍観者にはそんな経験はないので、だから彼らは相変わらず好きな事ばかり言う。
実際、何かを作るというのは大変であると同時に奇妙なことである。例えば、僕がモーツァルトになるにはどうしたらいいか。僕はモーツァルトを徹底的に探求すればいいだろうか。あるいはクラシックを学ぶ為に、音大に入って、作曲家になる事を目指せばいいだろうか。・・・だが、僕の答えは全く逆だ。僕は今ならば、パソコンの作曲ソフトの使い方を徹底的に学ぶだろう。そしてシンセサイザーによる音の合成の方法を学び、そして現代の最新の、かつ最上の音楽を徹底的に探し、そしてそれから学ぶだろう。もちろん、モーツァルトを学ぶ事は大切だろうが、しかし、その事と、現代のモーツァルトを目指すという事は根本的に異なった事実である、という事を僕らは了解しなくてはならない。モーツァルトとは歴史の中の一回限りの現象である。そして、それを繰り返そうとしても、もうその実験場であるところのこの世界そのものが代わってしまっている。だから今、モーツァルトそっくりの音楽を創りだそうとする事は、モーツァルトを目指すというその目的と逆の方向に走ってしまう、という事になる。僕らは現代という時代から逃れる事はどうしてもできない。それは不可能な相談であり、逃れようとすれば、途端に僕達の観念がそれに異論を唱える。通信手段がこれだけ整っているのに、いまさら、『君の声が聴きたいけど、聴けない』みたいな甘い歌詞のラブソングを作ったら、違和感を覚えるだろう。僕らはどうしてもこの現代という檻から逃げる事はできない。そして、現代という時代から、新たなモーツァルトが生まれる可能性は実際低いかもしれない。しかし、その場合でも、僕らは今のこの時代を不服だと言ってはならない。何故なら、モーツァルトその人こそが、自分の生まれた時代、そして楽器や貧困などの様々な環境に対して不服を唱えなかった人物だからだ。天才というの常に、その時代のあるがままの手段を借用する。そして、不服を唱えるのは常に自分自身に対してである。自分に対して不服だから、彼らは成長するのだ。成長できない人間はそれを周りのせいにする。まさにその為に、彼らは成長する事ができない。彼らの自己欺瞞は全身を浸している。だから、彼らはいつも自分自身を正当化し、そして世界を非難する。だが、彼らの気に合う世界などこの世のどこにもない。僕は、つまらない人間がこぞって「ああ、宝くじが当たればなあ」という嘆きを吐くのを聞いた。だが、彼らに宝くじがあたったところで、彼らはその金をすぐに使い果たし、そしてまた「ああ、宝くじが・・・」と嘆くだろう。金を持てばそれを失う事をおそれ、そして金がなければそれを嘆く人間にはどこにも安息の地などない。自分の中に安息がない人間は地球の果てに行こうと、安息はないのだ。
現代において、モーツァルトになるという事はおそらく、モーツァルトとは似ても似つかぬ姿になるということである。そして、その似ても似つかぬ姿とは、そのアーティストの魂を掘り出した、その形であるに違いない。例えば、ドストエフスキーとシェイクスピアは非常によく似ている、と僕は思う。だが、具体的にシェイクスピアとドストエフスキーのどこが似ているかと言えば、それは非常に抽象的な議論に傾かざるを得ない。あるいはパスカルとニーチェは非常に似ているが、しかしその具体的な形はぜんぜん違う。これはどういう事か。これを僕は次のように考える。もし、現代にモーツァルトそのものの魂が再び生まれたとしよう。と、すると彼はどのような音楽を作るか。彼はきっと、モーツァルトとは似ても似つかぬ曲を作り、そしてモーツァルトという名で呼ばれる事もないだろう。似ているのはただひとつ、その音楽の雄大さ、そしてその天才性の発露、それだけである。そして、その他の事は全て、時代の必然性に拘束されているだろう。現代のモーツァルトがシンセサイザーを扱い、そしてDAWを自由自在に使いこなしても、僕は少しも驚かない。そして、その現代のモーツァルトがモーツァルト評論家に批判されても、これもまた何の不思議もない。天才とは常に、自由を求める魂そのもであるのだが、これは当然、時代という名の拘束と格闘する事になる。そしてその際に、この魂は無限の苦痛を覚えるのだが、しかし、彼がその魂により、物ーー時代の必然性を支配していくと共に、その苦痛は一種の快楽へと変わっていく。そういう過程で、この敵は彼の味方へと変貌していく。そして、その時には、モーツァルトという名やその音楽の形式から開放され、彼はまた一つの魂の自由へと還っていく。だが、僕達はそれを形式から遡らざるを得ないからこそ、形式に足をすくわれ、そして見誤るのだ。魂を得るには形式を支配しなければならない。これは僕達の世界の掟だが、形式主義者にはさぞわかりにくい事であろう。・・・現在、我々ができるのは我々のいる時代と格闘することであり、それ以外に道はない。芸術とは常に、時代との際限ない格闘のその結果である。そして、その結果が永遠として残るのだが、我々にはそんな永遠を考えている余裕などない。我々は常に、最も『現代』たりえなければならない。そして、その結果が他人にとって永遠だとしても、それは我々の仕事の甘い褒美であり、その真の報酬は常に、その仕事自体である。我々はまず徹底的に現代であらなければならない。そして、過去や未来に想いを馳せるのは、クリエイターではない、別の誰か、他人の仕事なのだ。