幽霊論
しいなここみ様『梅雨のじめじめ企画』参加作品
部屋の隅にぼんやり浮かんだ影は、徐々に人の姿になった。
血の気の無い紫色の顔。眼球は半ば飛び出し、こぼれ落ちそうになっている。
口からは多量の涎。分厚くなった舌に圧迫された喉から、絞り出すような声を出した。
「く・る・し・い・・・・、く・る・し・い・・・」
その様子に琉衣は口を塞いで、後ずさりした。
「出たな!」
宇井は興奮気味に言った。
ここは某アパート。いわゆる事故物件だ。
以前に住人の首つり自殺があり、夜な夜なそれが出るという・・・
長らく借り手がつかないので、格安で出ており、不動産業者も事情を説明して、気にしない人に住んでもらおうという方針になっていた。
「宇井さん!危ないです!」
琉衣が叫ぶ。宇井は幽霊に向かって歩いて行ったからだ。
「いや、ボクの仮説が正しければ大丈夫だ!」
宇井は歩みを止めない。
そして、霊の横を素通りし、押し入れの襖を開けて中に手を入れた。
何やらシャーっと音を立てている。
「く・る・し・い・・・・、く・・・・・・・・・・・・・」
霊はまた姿をぼんやりさせ、やがて消えていった。
「もういいよ」
宇井はそう言って、部屋の電気を付けた。
その手には何やらスプレー缶が持たれている。
「カビ取りだよ」
まだ思考が追い付かない琉衣に、宇井教授が答えた。
彼は大学で情報工学を研究し、琉衣はその研究室に所属している大学院生である。
宇井は、琉衣を押し入れの前まで来るよう手招きした。
恐る恐る琉衣が覗き込むと、押し入れの壁には、滲んだ黒いカビを内包した白い泡があちこちで垂れている。
「カビが・・・幽霊の原因なんですか?」
琉衣が聞いた。宇井がこんな研究をしていたことは、彼女も知らなかった。
よく、その手の本を読んだりネット記事を見ているのは知っていたが、単にオカルト好き程度にしか思っていなかったのだ。
「カビだけじゃない。一部の生命にはその機能があるというのが、ボクの仮説だ」
宇井は得意気に言う。
「一部の?」
琉衣はまだ要領を得ない。
「人間だってそうさ。霊能者っているだろ?」
「宇井さんはあれを信じているんですか?」
「ああ。そもそも幽霊とは何かという話だが!」
得意になった宇井は少しもったいぶる。
「何なんですか?」
「魂だよ!」
「は?」
それじゃ何の答えにもなっていない!そういう顔をした琉衣に対して、宇井は自説を語る。
「そもそもだが、DNAって生命の設計図だと言われてるだろ」
「はい」
突然何を言い出すのかと思いつつ、琉衣は相槌を打った。
「人間の細胞1つ当たりのDNAの情報量は750MB~1GBだそうだ」
「凄い容量ですね」
情報を専攻する琉衣は、素直に感心した。あんな小さな細胞にそれだけのデータがあるなら、既存のどんな記憶メディアよりも多い。
「でもさ、それだけじゃ足りないよな」
宇井が言った。
「データとしてなら、かなりの容量だ。でもデータだけあってもしょうがないだろ?そのデータを扱うプログラムはどこにある?」
「・・・?」
「DNAの一部をRNAにコピーし、そのRNAを元にタンパク質が作られるという仕組みは分かっている。しかし、どんな条件、どのタイミングで、DNAのどの部分をコピーするという制御プログラムはどこにある?」
「それもDNAの中に含まれてるんじゃないですか・・・ああ、なるほど」
琉衣は、宇井が言わんとしていることを理解した。
今のPCの主要OSでさえ数十GBある。人一人を作るプログラムは流石に1GBじゃ収まらないように思える。
「作るだけじゃない。生物には本能と言うプレインストールされたプログラムがあるだろ。親を認識する、食べる、排せつする。更には周りを真似て二足歩行を試みたり、特定の音を解析して言語を覚える学習機能。そんな高度なプログラムはどこにあるんだろう?」
「確かに」
「生命の誕生は卵、つまり1個の細胞から分裂が始まる。つまりDNAだけなら最初は750MB~1GBの情報しか持っていないことになる。その情報量で人間一人なんか作れるのだろうか?」
琉衣は深く頷いた。
「だから、DNAだけじゃ完結しないんじゃないかというのがボクの仮説さ。生命の法則、もっと言えばこの世の法則を管理するコンピュータのようなものが別にあって、生命はそれと通信してるんじゃないかってね」
「SFでよくありますね。神とは法則であるってヤツ。そして、この世は仮想現実であるみたいな」
自分らの専門に触れる話題になったので、琉衣も饒舌になって来た。
もうすっかり、先ほどの幽霊に対する恐怖はなくなっているようだ。
「そう。それで言う神、要はメインの法則コンピュータと通信してると最初は考えたんだけどさ、一つのコンピュータで受けるにはとんでもない通信量だろ?だから、その下請けのようなコンピュータが無数にあるんじゃないかと考えた」
琉衣には話が通じるので、宇井は便宜上コンピュータと言い切っている。ただし、ここでいう『コンピュータ』は地球人が使用している物理的な物は指さない。何かしらの情報を処理して返す仕掛けそのものを『コンピュータ』と呼んでいる。
それが電波のような物で出来ているのか、はたまた別の未知のエネルギー体で出来ているのかは分からない。あくまで仮説だ。
「面白いですね!その下請けコンピュータが『魂』ってことですね」
琉衣は興奮気味に言った。
「そう。で、話を幽霊に戻すと、そういう魂との通信を生命が行っているのなら、それを傍受する生命がいてもおかしくないだろ」
「特に死期のような強い通信は、傍受しやすいのかもしれないですね。そして、傍受した内容を記憶し、他の生命に送信する機能を有したとしたら・・・」
琉衣はもう、宇井の話を補完出来るほど理解したようだ。
「それが幽霊というのが、ボクの仮説だ。実際、幽霊が出る所ってジメジメしていて、菌類や微生物が繁栄しやすい所だろ。彼らは進化が早く多様だからね。色んな機能を有する可能性はある。で、このアパートならカビかなって目を付けてたんだ」
琉衣は深く二度三度頷きながら聞いている。そして、笑顔で言った。
「しかし、そうなると、もったいないですね」
「なにが」
「そんな面白いカビを駆除してしまったのが」
「ああ、それなら大丈夫だ。カビはこの程度で完全には駆除できないよ。実際、今までだって入居者が入る度にクリーニングはしてたはずだ。それでも幽霊は消えなかった。しばらく放置したら、またカビが繁殖し、幽霊も出ると思う」
「ということは、研究が続けられますね!なんなら、これを足掛かりに世界の法則まで分かったりして!」
「もちろん、そのつもり・・・さ・・・・」
宇井が手を胸に当て、膝を着いた。そして、そのまま倒れこむ。
「宇井さん!大丈夫です・・・」
同じく琉衣も倒れこんだ。
そして、二人は完全に動かなくなった。
ーー同時刻、とあるシステムの管理記録ーー
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ー了ー
生物にはさほど詳しくない、元情報畑の人間の妄想ですので悪しからず。
ちなみに宇井と琉衣はウイルスが語源です。
最初は宇井とルイスにしようとしたのですが、名前の違和感が凄いのでこのようにしました。