第七章
翌朝。
これほどまでに目覚めたくないと思った朝があっただろうか。
奴隷だった時も、商人のおじさんに引き取られていた時も、そしてこの屋敷に来てからも
これほどまでに目覚めたくないと思った朝はなかった。
今、私は声を大にして言いたい。
「行きたくなーい!」
なんで昨日大丈夫、なーんて笑顔で言っちゃたんだろう。
見栄か?プライドか?意地か?
何でもいいから行きたくない。
あんな扱いを受けるなら、汚い床で寝て、朝から晩まで働いていた奴隷時代に戻りたい。
悪口言われるでもなく、暴力振るわれるわけでもなく、ただ、
あなたはここの一員じゃないのよ。ごめんなさいね。感をだされるのがどれほどつらいか
わかるまい。教頭も教頭で普通子供に向かって「あれも嫌、これも嫌というのならいっそ
死んだらどうですか」とか真顔で言っちゃいけないと思う。
子供だから!わがままくらい言うでしょう?その点に関してはあの子達も可哀想!
「ああ!」
怒りとも悲しみともつかないこの感情をどうしたらいいのよ!
全くもうっ。
ぷりぷりしながらも、制服を身につけていく。
今日はレディさんいないらしいから、自分にでもできる髪型にしなくては。
さんざん悩んだ末、緩い三つ編みの一つ結びにすることにした。
偶々テーブルの上にあった白いリボンも一緒に巻き込む。
鏡を見れば生気のない表情をした少女がこちらを見る。
「よしっ」
両手ですっかり滑らかになった頬を叩き、気合を入れる。
こうなったらやってやるわよ。
黄緑と紫の瞳に力が宿る。
それは部屋に置いてある物たちのどれよりも美しく、輝いていた。
ドアノブに手をかけ、勢いよく開くとなにかにぶつかる音がした。
「うっ」
「何かしら」
声の主を確かめようと外へ出たが、そこには誰もいなかった。
「おかしいな」
腰に手を当て、考えているとキッチンのほうからスカイの声がした。
「スノーいい加減起きてください」
「わぁったよ」
全く、と首を振っていたスカイがリリィを見止め、ほほ笑んだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
スカイは最近よく笑うようになった。
慣れない笑顔に戸惑いつつ、挨拶を返す。
とそこへ寝ぐせつき放題のスカイがやってきた。
「その髪、自分でやったのか」
「そうですけど…」
発言の意図がこの人は毎回よくわからない。
「あ、そう」
今日もそれだけ言うと自分のコップに牛乳を注いでさっさと席に着いた。
「朝食にしましょうか」
「はーい」
首をひねりつつ、リリィも席に着く。
「それでは神の御加護に感謝をささげて」
「「「いただきます」」」
朝食はいつもの柔らかい丸パンとサラダとフルーツ、少量の牛肉ソーセージだった。
三人とも朝からたくさん食べるタイプではないのですぐに食事は終了する。
「じゃ、行くか」
「はい」
口元を布巾でぬぐって、背の高い椅子から降りる。
脚が地面に着いたときに、不思議とああ現実なんだなと思う。
ふわふわした気持ちのまま支度をして、スノーの後をついていく。
「いってきます」
学園指定の革でできた鞄を背負うと、とうとう逃げられない。
「お気をつけて。スノー頼んだよ」
「はいはい」
寝ぐせをなおし、外行きの服を着たスノーは見違えるほどかっこよかった。
見送るスカイに手を振って玄関をくぐる。
外に出てもまだそこは広大な屋敷の敷地内なのだけれど、屋敷とは違う雰囲気に
いつも落ち着かなくなる。はるか遠方にある門を目指して、二人黙々と足を動かした。
憎たらしいほどに気持ちのいい日差しが二人を照らし、柔らかな土が足元を支えた。
「そういえばさ、言ってなかったんだけど」
門を目の前にして、スノーが口を開く。
会話は続けながらも、右手は門のカギを外している。
「敷地外に出るとさ…」
鍵をずらし、現れたパネルに手をかざすと、キィーという音がして門が僅かに開いた。
スノーが片手で門を開くと、ぶわっと顔面に風があたり、人々の喧騒が耳に届く。
「ん?何?」
一瞬そちらに気をとられ、聞き取ることができなかった。
スノーが立っていた方を見ると、そこに彼の姿はなかった。
いや、正確に言えば先ほどまでの彼の姿はなかった。
ピンと伸びた耳と髭、頑丈そうな顎、頬に残る傷はそのままに、全身を柔らかく美しい
白い被毛が覆った獣人の姿がそこにあった。
リリィの姿を青い瞳がとらえ、ゆったりと尻尾が動いている。
「ひっ」
しばらくぶりに見るスノーの姿だった。
「俺の場合は将軍から魔力を借りてるから、屋敷や将軍から離れたりすると、姿が維持できねえんだよ」
スノーがしゃべらなければ、リリィはパニックになって走り出していたかもしれない。
それほどまでに最初に受けた傷は深く、その姿は恐ろしかった。
「行くぞ」
前を歩き始めた獣人についていく気はリリィに起きなかった。
代わりにやることはゆっくりと後退することだけだ。
「おい、チビ」
「ちょっ、触らないで」
マントをつかむスノーに抵抗するも、六歳児と大人、人間と獣人、敵うはずもない。
母猫が子猫を運ぶようにいとも簡単に連れていかれる。
「離してよ、恥ずかしい」
「大丈夫誰も気にしちゃいない」
「そんなわけないじゃん」
めちゃくちゃに手足を動かしながら抗議する。
「じゃ見てみろよ」
「はぁ?」
反抗しながらも辺りを見回すと、皆忙しそうに歩いていくか、露店の商品に目を向けるか、
店主と話すかしかしていない。
「な?わかっただろ」
よいしょっとリリィを降ろすと、腰に手を当てぐんと伸びをした。
ネコ科の所以か驚くほどよく伸びる。
「ねえ…」
「あ、これも忘れてた」
ズボンのポケットから何か取り出すと、リリィに手渡す。
手の上に乗せられたのは、白い貝殻を削ってつくったブレスレットだった。
ちょうど一番上になるところに、小ぶりな新緑の石が四角にはめられている。
「綺麗」
手をくぐらせると、サイズは少し大きいくらいだった。
「将軍がもってろってさ」
「おじ様が?」
目を輝かせて喜ぶリリィを見ながら、スノーは内心舌打ちした。
(なんでこんな貴重なもんをこいつにやるんだよ)
「行くぞ、遅れる」
「うん」
半分熱に浮かされたような表情のままリリィはスノーについていく。
その様子を見ているとなんだかざわざわと心が落ち着かなくて、スノーは口を開いていた。
「帰りも俺が迎えに行くけど、勝手にほっつき歩いたりしたらダメだからな」
「うん」
視線は手元に、頭の中はきっと将軍のことで一杯だろう。
足を止めると、腰のあたりに軽い衝撃が来た。
振り返ればリリィが頭を押さえて立っている。
「大人の話はちゃんと聞いといたほうがいい」
僅かにトーンの下がった声を聴いて、リリィがうなだれる。
「ごめんなさい」
瞳が軽く伏せられ、眉尻も下がっている。
「特に路地に入ったら絶対にダメだ。いくら治安がいいとはいえ、子供や、人間は
用心するに越したことはない。それに不法なゲートが開いたままかもしれないから危険だ」
「不法なゲート?」
「もう着くから説明は今度で」
言葉の通り校門と学園を取り囲む森が視界に入ってきた。
「行ってこい」
「はい、行ってきます」
なんだか今日はスノーさんと親しくなれたような気がする。
その喜びを笑顔と勇気に変えて、リリィは校門をくぐった。
途端に外とは違う空気を感じる。
森に住まう精霊のおかげか、はたまた生徒たちの穢れなき心のおかげか、澄み渡った空気が
肺の中へ流れ込む。聞きたくもない囁き声もセットで届く。
「ねえあの子じゃない」
「ほんとだ、なんでこんなとこにいるんだろ」
「ここは私たちの場所なのに」
前方を歩く女子三人が内緒話でもするかのようにひそひそと呟く。
虎猫、豹、ジャガーの半人三人組だ。
鞄の持ち手をぎゅっとつかんで、俯き加減で歩いていけば大丈夫。
そう唱えながら校舎までの道を進む。
一年生から九年生まで集うこの学園は、一年生が最上階である五階を使用する。
階段を上っていくと「うわっ」とか「きゃっ」とか聞こえてきて、
例え自分に向けられたものでなくても、心臓が縮んだ。
目的地である教室につくと、既にクラスの半数以上が到着している。
(…帰りたい)
なるべく音を立てないように扉を引くと、一斉にこちらに注目が集まった。
静まり返った教室にリリィが歩く音だけ、やたらと響いてく。
一番敵意を感じる視線はオセロットの半人男子だ。
額に切り傷のような茶色がかった古傷があるのが特徴で、意地悪そうな顔つきをしている。
髪と同じ黄土色の瞳が昨日と同じくリリィを睨んでいた。
「おい」
聞こえなかったことにしてリリィは授業の用意をした。
とは言っても昨日はちゃんとした授業ではなかったためどうしたらいいかはよくわかっていない。ただ鞄を降ろして真っすぐ前を見ただけだ。
「聞こえてんのか、この…」
何かをいいかけようとしたとき、廊下を走ってくる足音がした。そう思っていたら、
音をつけるならばドガーンが適当だろうか、とりあえず物凄い勢いで教室の扉が開いた。
「きゃー、あなたが転校生ね。はじめましてよろしくね」
姿を認識する前に、彼女はリリィの手を握って振り回していた。
凄まじい力と速さにただただ目を回す。
「こらこらそんなに乱暴にしたらいけないよ」
「あの人に構おうとしないでください」
王子みたいな声と、それを咎める声がして、ようやくリリィの手を振り回していた力がやむ。
視界の焦点があわず、目の前にいるのが誰なのか、どんな子なのかわからなかった。
「うぅ」
「どしたん?体調悪い?」
頭を押さえるリリィに当の張本人が不思議そうに尋ねる。
「君がやったんでしょ」
「そうですよ、全く」
また二人分の声が聞こえる。
何度か瞬きを繰り返し、息を吐きだすと焦点が合ってきた。
心配そうにのぞき込んでる子と目が合う。
「あ、よかったわー。おはよう」
「おはよう…ございます?」
「んもー、なんで敬語なん?」
不満そうに彼女が言うと、また王子みたいな声が聞こえた。
「名乗ってないからじゃない?」
「それも確かにそうね」
声のした方を見ると、男の子ふたりが立っている。
にこりと片方の子に笑いかけられ、なんだかドキドキした。
「私、ライノよ。よろしくね」
ライノと名乗った子は、小柄なサイの半人の女の子だった。
灰色がかった黒い瞳が驚くほど綺麗だ。睫毛は長く、唇は厚い。
立ち上がった耳を守るように肩ほどまでの、銀色の髪が伸びている。
元気で賢そうだなというのが第一印象だった。
「僕はマッカラン、隣の子はブレイムだよ」
「気安く話しかけてはいけませんよ。なんてったって私は代々王族に使える家柄の身で
マッカラン様は王族なんですから」
「やめなさい」
どうやらマッカランという子がライオンの半人で、ブレイムがヤギの半人らしい。
マッカランは驚くほどの美形だった。王子様みたいな声もこちらが主らしい。
バランスよく配置された顔のパーツはどれをとっても文句のつけようがない。
鼻筋はスッと通っているし、唇は薄く紅を塗ったかのような美しい色合いで柔らかな微笑をたたえている。なによりも金色の睫毛に縁取られた、エメラルドグリーンの瞳が魅力的
だった。とても同い年だとは信じがたいほど、神に愛された大人びた美貌である。
どんなに高級な宝石もかなわないような輝きをまとっている。
ブレイムは神経質そうな顔立ちで、眼鏡をかけている。常に背伸びをしているような
気を張っているような印象で切れ長の瞳は周囲を睨んでいるようにも見えた。
黒目黒髪なのがスカイと同じだとリリィは思った。
眉間にしわが寄っているのがいけないのかもしれない。ブレイムも人並み程度には整っていたが、隣に並ぶと差は歴然で、それはクラスの女子もそう思っているらしい。
背が頭一つ分小さいのも不利な要因だろう。
「ちげぇよ」
降りかかってきた声の方を向けば、あの意地悪そうな男の子だった。
「こいつは王族なんかじゃない。だって…」
「アーバン、私にぶち飛ばされたいの?」
ライノが冷ややかな声で言うと、アーバンは黙った。
代わりにリリィのほうを見る。
「みんなこいつと仲良くしない方がいいぜ。人間なんて何するかわかんねぇ。
大体このクラスになんで一人だけぶち込んだんだよ」
「アーバン?一人だけと言ったら私もそうよ」
「それを言うなら僕もだね」
「それは当然…」
言いかけたブレイムをマッカランが手で遮って止める。
アーバンのほうを見ると冷笑ともいえる笑顔を見せた。
「あまりこのクラスで、いや学園でそういう発言はしない方がいいよ。
なんなら君の話でもしようか?」
「…ちっ」
ふいとあちらを向いたことで会話は終了した。
「ねね、名前は?」
ここで初めて、自分は名乗っていなかったことに気が付きリリィは赤面した。
「リリィです」
「リリィ、いい名前ね!あなたにぴったりだわ」
そう言うと当然のように隣の席に座る。
昨日は前後と右の席が空いていたから、てっきり避けられてるんだと思っていたが、
ただの席順らしい。
「うわー、運命みたい!よろしくね!」
「う、うん」
前がブレイム、後ろがマッカラン、右がライノで左は(後で自己紹介して知るのだが)
ニーナというヤマアラシの半人女子だった。
「髪の毛自分でやったの?触ってもいい?」
いいと言う前に既に触っているのだが、そういう子なのだと思うことにする。
「凄いなー。可愛いなー。瞳の色と合わせてとってもキュート」
ドキリとした。
今は茶色にしてあるが、元の色は黄緑と紫のオッドアイなのである。
嘘をついているみたいで心苦しかった。
「そうかな?ライノちゃ…」
「ライノ」
髪をいじる手は止めずに訂正される。
「ライノの髪色もすごく素敵だと思うけど」
「ダメダメ。なんかおばあさんみたいじゃない?」
いじるのをやめ、つまんで掲げた髪の毛は陽の光を浴びて透き通るように輝いている。
どこからどうみても素敵だと思うのだが。
「そうだ、学校のどこが気に入った?」
リリィが口を開く前に、おしゃべりなライノが話し出す。
「どこって言われても」
「いろいろあるじゃない。森だって、小川だって、花壇だって、畑だって、図書室だって
学園室だって、芸能室だって、闘武場だって、調理室だって、教室だって、、、」
「ごめん、半分くらいよくわからないんだけど」
本当は調理室と教室しかわからなかった。
学園室というのは学園長の部屋とはまた違うのだろうか。
四人ときたときにスワッチと過ごしたところはなんという名前なのだろうか。
「噓でしょ!」
信じられないものを見る目でリリィを見た。
「じゃあ、えっ実験室も、浴場も知らないの?」
「うん」
学校案内は途中で置いてかれ、昨日も説明はなかった。
後者は五階建てだが敷地は広大で、校内にもほかにいくつかの建物がある。
一人で歩くには少し骨が折れる広さだった。
「うっそー!ちょっとクラス長は何してたの?」
辺りを見回しながら叫んだライノにマッカランが冷静な指摘を入れる。
「君と同じで昨日は欠席してたよ」
「そういえばそうだった、ごめんよマッカラン」
「いいよ、副クラス長」
どうやら二人がクラスを束ねる役割らしい。
「でも私達がいないからって、案内しないなんて信じられない」
ライノは大げさにため息をつくと、じろりと周囲を見回した。
「はい、皆さん席についてくださーい」
よくとおる声で言いながら、鹿の半人女性が入ってきた。
手には出席簿を持ち、上はピンクのブラウスで下は白いロングスカートを着ている。
赤い丸ぶちメガネが垂れ眼を強調し、厳しさよりも、優しさを演出していていた。
「あら、あなたがリリィちゃんね。私、このクラスの担任のメリです」
よろしくね、とひらひら手を振りながら教壇の前に立った。
「はーい、じゃあ出欠席をとりますから座ってくださいね」
子供たちがぞろぞろと席についていくのを笑顔で眺めながら、メリが話し出す。
「今日ね、学園に来る途中で第一師団とすれ違ったのすっごくかっこよかった!」
恋する乙女のように胸の前で手を組んで、目を輝かせる。
「えーいいな」「ずるい」「見たかったー」という声の中でひと際大きい声がした。
「うっそー!」
驚いて目をやるとライノだった。
悔しそうに唇をかんで、肩を落としている。
「どうしたの?」
「ライノは将軍の大ファンなんだよ」
マッカランが後ろから教えてくれた。
振り返ると、窓から入ってきた風で耳を包む小麦色の毛が揺れて綺麗だと思った。
なぜ第一師団と将軍がつながるのか、そもそも2つが何を示すのかわからなかったが
とりあえず返事をしておいた。
「そうなんだ」
「見たかったなー」
閉じた歯の隙間からもらすように呻くと机に突っ伏した。
微笑みながらその様子を見て、メリが口を開く。
「はい、これで雑談終わり。出欠席をとりますね」
一人ずつ目を合わせ、名前を呼びながら丁寧に書き留めていく。
翡翠に似た色の万年筆がそのたびにゆらゆらと動いて、太陽光を反射させる。
「リリィ」
「はい」
自分の名前のところにも、あの万年筆が使われると思うと何だかうれしくなった。
「じゃあ…」
「はい先生」
ライノがピシッと手をあげて、発言の許可を求める。
「どうしたの?」
「1限の話術と2限の読術の代わりに、リリィに学校案内をしてもいいですか?」
立ち上がった拍子に、制服の赤いスカートがふわりと広がった。
自分のものと、なぜかデザインが少し異なっている。
(制服をつくるのに使った魔石が違うからかな)
学園長室での会話を思い出しながらリリィはそう思った。
クラスメイトを見てみても、みんなそれぞれ少し違っていた。
(うん、たぶんそういうことだ)
出した結論に満足していると、交渉が終わったようだ。
「私とマッカランで行ってきますね」
「私もついていきます」
ブレイムが間髪入れずに言った。
「じゃあ、3人で案内してきます」
ライノが若干ひいた表情を浮かべながらも、先生に報告する。
「はい、お願いします。皆さんも好きにしていいですよ」
キャーと歓声を上げた子供たちに先生がくぎを刺す。
「ただし、他学年やクラスに迷惑かけないようにね」
「「「はーい!」」」
蜘蛛の子を散らすように一斉にでていくクラスメイトにつづいて、ライノ、リリィ、マッカラン、ブレイムが扉から出ていく。
「さて、どこから案内しようかな」
くるりと回りながらライノが呟くと、マッカランが答えた。
「今五階だから、上から順に案内して、それから本校舎以外にしようよ」
「いいね、そうしよう。それでもいいかなリリィ」
「あ、うん、いいよ」
慌てて頷くと、ライノがニヤリと笑った。
「そうと決まれば…しゅっぱーつ!!」
「おー」
力強く拳を突き上げるのに合わせて、リリィたちも突き上げる。
「行っくよー」
子供たちが集う学び舎に、楽しそうな笑い声が響いた。
そんな平和な時間が流れる学園とは異なり、首都の隠された屋敷では不穏な空気が流れていた。黒一色の広い部屋に、紫色のフード付きマントを身につけた人々が壁に沿って立つ。
暗くなった部屋の奥に金色の椅子が一つ置いてあるだけな、無駄なもののない部屋だ。
糸をぴんと張ったような緊張感が漂う屋敷内では、トカゲの獣人が頬に手を当てて
床に倒れこんでいた。指の隙間から痛々しい赤色が覗く。
「お前はどういう部下の管理をしているんだ」
暗闇のほうから地を震わせるような、それでいて静かな声がした。
「私が、いつ、どこであんな命令を下したと?」
「も、申し訳ございません」
大柄な男が身を震わせて謝る様子はどこか滑稽だ。
頭を額につけた拍子に、身につけている黒いズボンの裾から銀色の足輪が覗く。
「黙れ」
「ひっ」
心からの謝罪も主の怒りの前では何の意味もなさない。
「お前のせいで貴重なカメレオンの血を引く人材を4人も失った」
声色からひしひしと怒りや失望が伝わってくる。
床から顔をあげた男は焦ったように目をさまよわせた。
「もう一度、もう一度チャンスをください。そうしていただければ必ず…」
「黙れっ!」
さきほどよりも気迫のある声が、闇の中から届く。
空気を切り裂かんばかりの厳しい語調に壁際に並んで立つ者達まで震え上がった。
黒い仮面が表情を隠してはいるが、足が微かにふるえている。
「もう一度だと?どの口が言っているのだ」
闇の中でコツコツと主が円を描くように歩く音がする。
「それで、もう一度任せたらどのようにする気だ。今度は残り全員失うか、それとも我々に反逆でもしようという魂胆なのか?」
ガンッと手に持っているらしい剣を床にたたきつけ、部下を呼んだ。
「メース」
「はい、主様」
中央だけにつけられたライトが進み出た部下を照らした。
骨格、声色共に部下が女性であることを示している。
「マジョラムを連れていけ」
「はっ、仰せのままに」
キビキビとした動作で首を下げ、男を手でつかむと引っ張り上げた。
細身の体に似合わず、強い力だ。
「フェンネル」
「お呼びですか」
今度は中肉中背の男が進み出た。
「将軍の件はどうなった」
「今回も断られました」
そう答えた途端、部屋の温度かいくらか下がったように感じる。
「…ですが、まだ交渉の余地はあるかと」
急いで付け加えるように男が言うと、わずかに回復する。
「交渉を続けろ。あのように実力のある者は、味方にするか、殺すかの二択だ。
できれば取り込んで我が仲間としたい」
「仰せのままに」
頭を下げた男の口から、細く息が吐き出される。
と、連れていかれそうになった男が正気を取り戻したように暴れ始めた。
「主様―、どうか今回だけはお助けをー」
女の拘束を振り切ると、椅子の置かれた方へと倒れこみながら走り出す。
「行くわよ」
再び腕をつかもうとするが、めちゃくちゃに振り回している腕をつかむのに苦労している様子だった。
「どうか、どうか私めにもチャンスを」
手をこすり合わせながら、徐々に闇のほうへと這い進む。目からは涙がこぼれ、顔は鼻水でぐちゃぐちゃだったけれど、必死であることだけは伝わってくる。
「どんな役割でも、喜んで全力でいたしますからー」
(こいつ、馬鹿なの?)
女はそう思った。
今回主様は処罰を口にしなかった。
だからほとぼりが冷めるまで大人しくしておけばいいのに。
なんでわざわざ苛立たせるようなことを言って、死のうとするの?
大体君のような4階級でしかない部下に何ができるというのよ。
この場に集まる部下は2階級か3階級。よっぽどあなたよりも優秀な人材がそろっているなかで醜態をさらして役目がもらえるとでも?
1階級の方々には会えないし、お前が取りまとめていた5階級の奴らは論外。
どう頑張っても意味ないのに。
「役目が欲しいと?」
どこか嘲るような楽しむような様子で主が言う。
「っはい!」
「メース」
「はい、主様」
主様が役目を与えるわけないわ。そう思いながら椅子の近くへと進み出た。
「あいつに役目を与えてやれ」
頭の上に稲妻がおちたような衝撃を受ける。
「…はい、仰せのままに」
「なに、簡単な役目だ。今度の計画の贄が足りないらしいからやらせてやれ」
そういうことか。
「はい、仰せのままに」
先ほどよりもにこやかな声で、そう言った。
「あ、え」
「行くわよ」
今度こそ連れていかれる男の最後の記憶は、自分を見つめる薄紅色の瞳だった。
「あ」
校門からでたところで、リリィが立ち止まる。
「リリィ、どうしたの?」
不思議そうに聞く、ライノに続いてマッカランが口を開いた。
「じゃあ僕たちはここで」
「あ、うん」
またねー、と手を振った後で、ライノがもう一度リリィに聞く。
「どうした?」
「お迎えが来てくれてる」
視線の先にはスノーの姿がある。
退屈そうにするわけでも、誰かと話すわけでもなく、ただ黙って空を眺めている。
この世界には太陽が五つ、月が二つある。
太陽の出る日が学校のある日で、月の出る日が休みだと今日先生に教わった。
国の研究者でもよくわからない規則性で出てくる太陽たちに合わせて、人々は生活をしていた。夜は必ず真っ暗になるが、昼の明るさはまちまちだった。
ただ、雨の降る日は決まっている。前日の朝に、王宮の鐘が五回なったら翌日は雨だ。
今日は二番目の太陽がでていると、これも先生が言っていた。
リリィに違いは分からなかったけれど、先生がそう言うならそうなんだろうと思った。
「ひょえー」
訳の分からないリアクションに目を点にしていると、やっぱりねとライノが呟いた。
「お金持ちだとは思ってたけど、お迎えが来るなんてね」
「普通じゃないの?」
何の嫌味もなく、疑問を口にしただけだ。
幸いライノは裏表のない性格で、いい子なのでそのくらいの発言で苛立ったりはしない。
「来ない来ない、少なくとも私は見たことなかった」
「へぇー、てか家たぶんお金持ちではないと思うけど」
たぶん、とついたのは他の家庭を知らないし、確信もないからだ。
(商店を営んでるとは言ってたけど、あんまり働いてるとこ見たことないからな)
たまにいないし、あとここ一月はみかけないけどいまいち何をしてるのか知らない。
「今からするのは自慢なんだけどね」
両肩に紐が付いている鞄をかけなおして、ライノが言った。
「うん」
「うちのお父さん結構すごい人でね、ベラトリックス商会っていうのを営んでるんだけど
それが北の国と東の国ではトップ、国内でも二位、三位を争うくらい儲かってるの」
「おー、すごい」
ぱちぱちと拍手をするリリィに呆れたように笑いかける。
「いや、だからその我が家でもないことってことよ」
「…なるほど」
神妙な顔つきで頷いていると、抱き着いてきて耳元で囁いた。
「ま、別にリリィが裕福でも貧乏でも何でもいいんだけどね」
「!」
不思議と心が温かくなった。
「じゃ、必ずまた会おう」
「うん」
ちぎれそうなくらいに手を振るライノに手を振り返し、スノーが立つ方へと向かう。
足音に気が付いたスノーが顔をあげ、リリィをじっと見かえす。
「帰るか」
「うん」
雑踏の中を大小異なる背中が進んでいく。
学園であったことをぽつりぽつりと話してみるが、反応が薄いため取りやめた。
学園の周りには露店は少ないが、その代わり商店が多かった。
リリィが見ただけでは何屋さんかわからない、カラフルな建物たちが並んでいる。
木で作られた看板があれば、岩を切り出して作られたような店もある。
店名が書いてあれば親切だが「愉快な家」とか「選ばれし者の店」とかいう訳の分からない店名もあるから一概には言えない。
「チビお前学園で家の話してないよな」
必死になって推察していたリリィの耳に、そんな言葉が飛び込んできた。
見るとスノーが立ち止まってこちらを見ている。
「え、してないけど」
「ならいい」
そう言うと、また前を向いて歩き始める。大股で歩くスノーに必死についていきながら、
自分の胸に苦い気持ちが広がっていくのを感じた。
縮まったかのように見えた二人の距離が再び開く音がする。
「ねぇ…」
「店に寄ってもいいか」
「うわぁ」
いきなり立ち止まったスノーの背中にしたたかに顔をぶつけ、リリィはうずくまった。
「店に寄ってもいいか」
「いいけど、聞こえてるけど、ちょっと待って」
痛い。痛すぎる。
リリィは呻いた。
何この人背中に金属でも入れてるの?
ぶつけたところが熱をもって、ジンジンと痛みを訴えている。
当の本人は痛くもかゆくもないらしく、平気な顔して通りを見回していた。
大体君が急に止まるから、ぶつけてるのに何で「大丈夫?」の一言もないのさ。
「もういいんじゃないのか」
「あー、はい分かりました。行けばいいんでしょ行けば」
痛みから目をそらし、無理やりに立ち上がる。
ぶすっとした顔のままついていくと路地を何度か曲がり、何店かの店の中を通り抜け
「完璧で唯一の店」という看板の前で立ちどまった。
商人のおじさんと住んでたところでは、もっとこう直接的な名前がついてたんだけどな。
外装は紺色で、窓が二つ付いてるだけの質素なつくりだ。
周りのお店と違って、背伸びしている感じはなく来るなら来いといってるみたいだった。
「すぐに終わるし、店内に入ってきてもいいが、何か触ったり話しかけたりしないでくれ」
腹を立てたままだったリリィはその言葉を無視し、店内からでてくる客とは入れ替わりに
店内へと入った。
「うわぁ」
思わず声をあげずにはいられなかった。
外装に似合わず、内装はとても美しい出来栄えだった。
カウンター以外は全て樹でできた棚がびっしりと埋まり、その棚の中に小瓶に入った
色とりどりの粉が色順に並べられ、ランプの光を受けて星のように輝いていた。
店の左奥にあるカウンターの隣にも部屋があるらしく、落ち着いたクリーム色の壁で遮られている。
二つの部屋をつなぐ扉も棚と同じ樹でできているのか統一感のある色合いだった。
「今日主人は?」
スノーがカウンターにいた黒い羊の半人に声をかける。
「奥の部屋にいらっしゃいます」
接客慣れした笑顔でそう答えると、首から下げた鍵を使って扉を開いた。
「ご案内いたします」
「ありがとう」
パタンと扉の閉じる音がすると、リリィはそろりそろりと棚のほうへと近づいていった。
色ごとに三列ほど割り当てられ、一列十個の小瓶がおいてある。
「これはおじ様、これはスワッチ、こっちはスノーさんで、こっちはスカイ」
知っている人の瞳の色を探すのは結構楽しかった。
「あれはライノ、あっちはマッカラン、あれはブレイムかしら」
こうしてみると、同じ黒でも人によって違うのだと分かる。
また一歩近づくと、細かい粉でできているから光を受けて輝けるのだと分かる。
さらに一歩近づくと、小さな文字でラベリングされているのだと分かる。
新たな発見は常にリリィを楽しませてくれた。
「こっちに来て」
「?」
誰かに呼ばれたような気がして振り向くと、そこには誰もいなかった。
「誰かいるの?」
狭い店内に自分の声だけが反響する。
気のせいか、と棚に目をやりかけ、ふと気になってもう一度見てみた。
「あんな花あったっけ」
カウンターに置いてある花瓶に紫色の花が挿してあった。
入ってきたときの記憶だと、あれは黄色だったはず。
引き寄せられるようにカウンターに近づいていくと、疑念は深まった。
違う。この花じゃない。
花弁の数も違う。さっきのは六枚ほどしかなかったのに今は十枚以上ある。
中心近くも黒みがかってなどいなかった。
透明な半円状のカバーがかけてあったとしても、見間違えることなんかないはずだ。
そっとカバーに手をかけて、ゆっくりと外していく。
外したカバーを隣に置いて、花を観察してみると突然記憶の波が襲ってきた。
実はリリィには、商人のおじさんに引き取られる前の記憶があまりない。
自分がどこから連れてこられたのか、家族はいるのかといったことは知らずに生きてきた。
(なにこれ)
両手で頭を押さえても波が引くことはない。
「これ見てー」
「まぁ、綺麗ね」
「あっちの方で咲いてたの。これで花輪を作ってあげる」
「嬉しいわ」
顔もわからないぼんやりとした映像が頭の中を流れていく。
分かるのは幼い声が私で、ほかの誰かと一緒にいることだけだ。
流れ込んでくる情報に負けて、リリィは膝をついた。
「抱っこして」
「もう甘えん坊なんだから」
「えへへ」
「私の可愛い…」
ガチャ。
扉から出てきたスノーは一瞬で事態を把握すると、手早く半透明のカバーをはめ
リリィをそれらから遠ざけた。
「どうかされましたか」
後から続いてきた店員が不審な動きをするスノーに尋ねた。
スノーは花の前に立つようにしながら、首を振る。
「何でもありません。
やっぱり注文した商品を早めに受け取りたいので準備してもらってもいいですか?」
「かしこまりました」
再び隣の部屋へと入っていく店員を見送り、胸をなでおろす。
危なかった。
「チビ、チビしっかりしろ」
頬を軽くたたくと、電源が切れたように倒れこんだ。
「おっと」
片手で背中を支えながら、スノーは考える。
さて、どうしたものか。
店内に置いとく訳にもいかないが、外に放置するわけにもいかない。
ならば…
「チビ、ちょっと借りるぞ」
リリィが首元につけている白いリボンを解き、ブローチを手に入れる。
なるべく静かに扉を開いて、ジャケットを脱ぎ、その上にリリィを置く。
近くにあった棒きれで、周囲に魔法陣を書くと中央にブローチをのせた。
手をかざしうろ覚えの呪文を唱える。
「慈悲ぶかき我らの祖先よ、神々よ。彼のものを危難から守り給え」
ところどころ違っただろうし、そのうえ省略形なので怪しいところだったが
魔術が成功したように、魔法陣が光ってリリィを包み込んだ。
次に店内へと戻るとカウンターの方へと近づき、透明のカバーに手をかけ瞳を閉じた。
魔力を吸い上げるようなイメージを繰り返し繰り返し脳内で再生する。
(いいかな)
薄目を開ければ、元の黄色い花に戻っていた。
どっと疲労が押し寄せる。
「はー」
ため息をつくと、不安定な気持ちを尻尾が示してしまい、慌てて手で押さえた。
ちらりと窓に目をやると、先ほどと同じような恰好でリリィが眠っている。
あの花、ルドベキアが反応したということはやはりそうなのか。
「お待たせいたしました」
「ああ、ありがとうございます」
渡された紙袋を受け取り、頭を下げる。
「いつもご利用ありがとうございます。またのご来店をお待ちしておりますね」
常にこの店にいるこの店員は、慣れた様子でそう言うと扉を開いた。
顔には眩しいほどの営業スマイルが張り付いている。
「お世話になりました」
普段よりも短い滞在を怪しむ様子がなかったのが幸いだ。
店の外に出て、周囲に人がいないのを確認してから魔術を解いた。
ブローチの力を借りて、下校時の記憶も消し去る。
この子はやはり生きていたらいけないのかもしれない。
そんな考えが腹の底から湧き上がってくる。
あまりに危険だ。
師匠だけでなく、この国も。
リリィは、この国に災厄をもたらす忌み子の生まれ変わりだ。