第四章
翌日。
「ロンロンー」
リリィがリビングの床で猫と戯れている。
いや、それは正確な表現ではない。
正しくは猫の造形物と戯れている。
「すっかり仲良しだな」
「ええ、おじ様」
近くに立ったアスカに背を向けながら、リリィは返事をした。
昨日のお詫びに、市場で売られていた玩具を買ってもらったのだ。
リリィが初めて自分から欲しいといったものだった。
特別な加工を施した粘土に、なって欲しい姿のイメージを込めた魔石を入れると
その通りになってくれるという商品で、値段が張るにもかかわらず大変な人気だった。
本来なら定期的に魔石の交換をしに行かなければならないが、魔力持ちが家にいるので
その必要がない。ただの良いとこどりの商品になっている。
「本当に気に入ったみたいだな」
「ええ、おじ様」
視線は猫から離さずに、適当な返事を続ける。
(関心をすっかり奪われてしまったな)
苦い気持ちはあるが、喜んでもらえて素直にうれしかった。
それに、と目の前の猫に目を向ける。
全体は淡い茶色と白、顔と耳は泥でもかぶったようにそこだけ黒く、
手足と尾の先は濃い茶色をしている。綺麗なアーモンドアイは澄んだ小川のような
水色をしていて、顔の中の完璧な位置に収まっていた。
つまりめっちゃ美猫なのである。
こっそり護衛の機能も付けたせいか、知性まで感じる。
滑らかな毛並みに顔をうずめたくなるほど愛らしい姿である。
「あっ、そうだ。リリィに客人だぞ」
あやうく本来の目的を忘れるところだった。
「私に?」
やっとこちらを見たリリィに笑いかけながら頷く。
「きっと喜ぶぞ」
のそのそと起き上がって、髪やらワンピースやらを直し始める。
一応、そういう心があったことに密かに安心した。
というのも、庭で遊ばせれば草と土だらけになり、かといって室内で遊ばせても
走り回って髪や服をぐちゃぐちゃにしてしまうのだ。
スワッチやレディに聞く感じだと、家の中を汚すのに抵抗はあるようだが
自分が汚れてたりするのには無頓着らしい。外出着だとまた違うが。
すっかり綺麗にしたリリィを伴って客間に入る。
「かっこいい部屋だね。なんかちゃんとしてるって感じ」
こげ茶色のソファーと精緻な細工が施された机、それに合わせた絵画に便箋。
薄いチョコレート色をしたカーテンが縁取る窓からは、庭を一望することができる。
来るものを柔らかく受け止めるのに、背筋が伸びる不思議な空間だった。
「まだ入ったことなかったっけ?」
自分が作ったのではないことを隠しつつ、リリィに尋ねた。
「うん。入ったことあるのは、自分の部屋とリビングとダイニングと、あとトレーニングルームとテラスかな」
指折り数えながら歩いていた彼女の視線がある一点で止まる。
確かめるように何度か瞬きをしてわずかに口を開いた。
「おじさん?」
視線の先にいるのは、路地で出会った商人だった。
スカイと何やら話し込んでいる。
「おじさんっ!」
振り返った商人が、顔をほころばせた。
「ちびか!」
目がなくなるくらいクシャクシャに笑って、こちらに駆け寄ってきた。
リリィも満面の笑みで走り寄ってハグをする。
「綺麗になったな。どこのお嬢様かと思ったわい」
「えへへ」
「よく顔を見せて」
苦労の滲む両手で顔を挟み込み、優しく上に挙げた。
「幸せそうで良かった」
しみじみと呟くその姿は、ある意味アスカよりも親らしく映った。
「あんな優しげな顔をして、彼結構やり手ですよ」
アスカのそばに立ったスカイが小声で言った。
「そうなのか」
「ええ、さきほど少しだけ商売の話をしましたが学ぶことが多くありました」
この男はどこまでも真面目だな。
癖のない黒髪と美しい横顔を眺めながら思う。
「そんな男を従える主様って何者なんだろうな」
「主様?」
ぽつりと漏らした言葉にスカイが反応する。
「この話は初めてだったか」
そういえば言っていなかったような気もする。
訝しげな様子のスカイにリリィと初めて会った時の会話を説明した。
「なるほど、少し気になりますね」
「気になるとは?」
今度はこちらが首をかしげる番だった。
「リリィの存在を知っているものは少なければ少ないほど都合がいいです。
私が今まで把握していない人物というのは警戒すべきかと」
「頼まれてくれるか」
「もちろんです」
右端だけ上げる独特の笑い方をして力強く頷いた。
三日も経たずに結果を報告してくれることだろう。
スカイの有能さには頭が下がるし、常に驚かされる。
「ところで、そろそろ時間では?」
「…そうだな」
行きたくはないがやむを得ない。
仲良く見つめあっている二人に水を差すのは悪いが、一声かけたほうが良いだろう。
「それじゃあ、私は少し用事があるので失礼します。詳しい契約についてはスカイに、何か必要なものなどあればレディに聞いてください」
二人が一歩踏み出して礼をした。
それを見た商人はリリィから離れ、床に顔が付きそうなほど深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。アスカ様」
「いえ、こちらこそ。リリィ行ってくるな」
屈んで目線を合わせるようにして言うと、ようやくこちらを向いた。
「いってらっしゃい」
小さめの花が咲いたような笑顔で言う。
控えめな、けれど確かに笑っているこの表情を見ると大概のことはどうでもよくなってくる気がする。
「主、顔が」
そっと頬に触れてみると、だらしないほど緩み切っていた。
キュッと引き締めて部屋を後にする。
今日の外出が少しでも早く終わることを願いながら。
上着を羽織り、門に手をかける。
「!」
顔に向かって何かが飛んできたような気がして思わず目をつぶる。
少したってそおっと瞼を開ければ、それがただの木の葉だと気が付く。
「はー」
自分のふがいなさにうんざりする気持ちをため息に変えて吐き出した。
せっかく整えた赤茶色の髪をかき上げ、腰に手を当てて心を落ち着ける。
屋敷を出るときは、やはり少し緊張してしまう。
忌々しい過去の記憶にとらわれてしまっているのだ。
目を閉じれば、喧噪や怒号が聞こえてくるような気がする。
「さぁ、行くか」
言葉に出すと、気持ちが楽になる気がした。
四人で通った道を、今度は一人で歩いていく。
今日が建国祭前夜ということもあってか、普段以上の賑わいと掛け声が聞こえてくる。
市場の唯一開けているスペースでは、赤いドレスを着た象の半人の少女が豊かな美声を響かせ、歌声を聞くために大きな人だかりができていた。
歌っているのは国歌。国と神と王族を賞賛し、国土を愛しましょうみたいな内容だ。
「ありがとうございました」
そう言ってお辞儀をする姿は年相応の少女に見えた。
リリィを思い出し、自然と口角が上がる。
花売りを呼び止め、青いバラを五本購入した。
「素敵な歌声だった」
そう言いながら手渡すと、耳をパタパタさせながらはにかんだ。
「ありがとうございます」
しげしげと薔薇を眺め、香りをかいだ。
自分に注目が移る前に退散しよう。
体の向きを変えようと足を引いたとき、「あの」と呼び止められた。
「何?」
「あなたにとって素敵な建国祭になりますように」
少女のその言葉は、古い記憶を揺り動かした。
花を髪に挿して、黄色のワンピースを着て、太陽が照らす花畑で彼女が笑いながら
言った言葉だ。飛ばないように帽子を押さえながら、照れることも恥ずかしがることもなく言った彼女は言葉にできないほど美しかった。
「?」
何か悪いことでも言ったかと、不安そうにする彼女の視線で現実の世界に帰る。
「ああ、ありがとう。君にとっても素敵な建国祭でありますように」
少女に背を向けて王宮への道を急いだ。
石畳の道からレンガの道へ入れば、そこはもう首都ハノイである。
ベア王国の唯一神である「シグリット」
下界に降りた姿は虎に似ているといわれ、それをかたどった石像や装飾が溢れている。
特に目を張るのは王宮の入り口に飾られている水晶でできたものだ。
全体は半透明、右の瞳には紅の、左の瞳には白の水晶がはめられており、
背中に生えた翼で今にも羽ばたき飛んで行きそうだ。
大人が三人肩車しても届かないほどの高さと美しい姿で見るものを圧倒する。
王宮が攻められず、王家を悪く言うものがいないのはこの像のおかげだといわれるほど
威厳に満ちて神秘的な姿だ。
かくいう私も、この紅と白の双眸で見つめられているような気がして、王宮に入るときは
毎度背筋が伸びる。
白と金を基調とした煌びやかな外装に反し、内装は落ち着いたクリーム色と緑を用いて
上品に仕上がっていた。柱には可愛らしい小動物やツタ植物が技術を惜しまず彫られ、
調度品も華美ではないが一目で高級であると分かるものが使われている。
「国守様」
扉を通るたびに脇に立つ守衛が頭を下げる。
それに軽く答えながら王宮の奥へと進んでいく。
獅子をかたどったドアノックにはめられたペリドットに触れ、魔力を込める。
指に光が移ったのを確認し、翼の形をした家紋を滑らかに描く。
一歩下がって見守ると、光が吸い込まれていきゆっくりと扉が開いた。
「アスカ様、ようこそお越しくださいました」
「リック殿」
私に向かって頭を下げたのは、城中の使用人を束ねる執事頭リックだった。
ヤギの獣人で、髭を綺麗になでつけ、黒スーツに身を包んだ彼は、王が最も信頼する人物である。丸眼鏡をはずした姿を見た者がいないことでなぜか有名だ。
小柄だが、今日も恐ろしいくらいに服装に乱れがなく、姿勢がいい。
「陛下がお待ちです」
こちらを見つめる瞳には、玄関の像とは違う背筋を正させる何かがあった。
「分かった」
一応身だしなみを確認し、部屋の奥に進む。
今まで通った中でも最も立派な造りをしている扉を開くと、暖かな光が部屋へと
差し込んできた。
「アスカ様」
寝台の上で微笑んでいる顔立ちの整った青年はベア王国の王シャルル。
今年で790歳になる、ライオンの獣人だ。
王族の中でも力の強いものは、獣人、半人、人間、そして完全なる獣の姿に変わることができる。獣人の姿でいるのは意外と疲れるので多くの人が半人の姿で過ごしている。
癖のある金髪は首にかかる前に切りそろえられ、新芽を思わせる若緑の瞳、それを縁取る
長い睫毛、スラっと通った鼻筋、賢そうな口元。どこをとっても完璧な顔のつくりだ。
病弱であることを除けば、統治者としての能力も申し分ない。
「体調はいかがですか」
あまりに細い首と体を見ながら丸椅子に座った。
「いい感じですよ」
近くにより、目線が同じになったことでより一層体調がすぐれないことがわかる。
窓枠と合わせた白い格子のはまった窓から届く、暖かな日の光を浴びているのに血色がよくない。身につけている袖にフリルの付いた白いシャツよりも白く見えた。
「前の視察が良くなかったのでしょうか」
三日ほど王宮を離れた前回の視察が負担になったのかもしれない。
何気なく言った一言に、柔らかい毛に包まれた耳がピクリと反応した。
「あれは王としての最低限の務めですから」
なぜか諭すように口にする。生真面目な王のことだから、これ以上公務を減らすわけには
いかないとでも思っているのだろう。
「それで、今日も無理をする気で?」
「それはっ」
勢いよくこちらを見たかと思うと、しょんぼりと項垂れた。
「…ダメですか?」
上目遣いでこちらを見つめる。
「…」
「今日だけですから、そしたら後夜祭に参加するだけにしますから」
ね?というように眉を下げ、うるんだ瞳で見つめてくる。
私がこの表情に弱いのを知っているのだろうか。
彼がまだ少年だったころから、何か頼むときはこの表情だった。
「お願いだ」
膝の上の手に手を重ねて、若緑の瞳で見つめられれば、もう降参するしかない。
「分かりましたよ」
「本当ですか!」
「ただし約束は守ってもらいますし、無茶もさせませんからね」
喜ぶ王に人差し指を当てて警告する。安静にすべきなのは事実だからだ。
「感謝します」
「そうと決まれば少し回復魔法をかけておきましょう。今の状態では獣人の姿になるのも
前夜祭を耐えきるのもおつらいでしょうから」
「わかりました」
素直に目を閉じた王の体に触れ、不調の原因を探る。
懸念していた心臓の調子は悪くなさそうだった。
魔力の滞っているところを流し、体温を上げ、最後に身体強化をかける。
「終わりました。どうですか、何かほかに気になるところは?」
目を開き、確かめるように首や手を動かしてからこちらを向いた。
「大丈夫です。相変わらずお見事ですね」
そう言って微笑む顔に赤みがさしているのを確認してから本題に移る。
「本日の予定ですが…」
「お話し中失礼いたします。陛下、将軍がお見えになりました」
部屋の隅にある小ぶりなドアからリックが姿を現した。
「お通しして」
襟と裾を直した後、寝台から出て立ち上がる。アスカも続けて隣に立った。
「かしこまりました」
一礼したあと、くるりと向きを変え丸い金のドアノブに手をかけた。
厚みのある背後の扉が開き、紺の軍服に身を包んだクロヒョウの獣人が現れる。
「フランマ・コスティニアヌス・アウグルが陛下に拝謁いたします」
白い手袋をはめた手を左胸に当て敬礼した。
胸ポケットについた金色のチェーンがしゃらりと音を立てる。
「本日の前夜祭について打ち合わせをしましょう」
さきほどまで体調が悪かったのを感じさせない晴れやかな表情で王が言った。
「はい」
三人で部屋の右奥へと進み、それぞれ肘掛椅子に腰かける。
将軍が腰に挿していた長剣を外し、木でつくられたサイドテーブルに二本そろえて置いた。
瑠璃色の鞘と、銀色の柄に彫られた複雑な文様が見事な品だ。
グリップの中心にはめられた深緑の宝石は代々将軍に受け継がれる。
短剣は身につけたまま、内ポケットから四つに折られた紙を取り出す。
「こちらが今日の警護配置と屋台の配置、出席者の方たちの座席になります」
アスカが受け取り、木目の美しいテーブルの上に広げる。
それぞれの参加者たちの名前や警戒レベルまで詳細に書き込まれている。
アスカが読んでいる間に、将軍が口を開いた。
「失礼ですが、お加減のほうはよろしいでしょうか?」
「ああ、問題ない」
王が安心させるように微笑む。
「かしこまりました。それではこの計画のままで進めさせていただきます」
そう言うと紙をたたんで、燃やしてしまう。
灰や焦げ跡が残ることもなく、この世から消え去った。
初代王とシグリットが交わしたといわれる約束の一つに加護と呼ばれる項目がある。
王は在位1000年と決められ、その間はあらゆる病気やケガから守られるというものだ。
代償として王位を退いた後、命を落とす。即位前に患った病や怪我に関しては治癒することもないが、それが原因で死ぬこともない。ただし、獣人の姿でいるときにしか発動しないというなかなかに面倒くさい取り決めである。
「よろしければお茶をどうぞ」
リックがトレーにコーヒーとスコーンを乗せて運んできた。
王とアスカの前には浅煎りのものを、将軍の前には深煎りのものを置き、
丸いスコーンとベリーでつくったジャムを隣に置いた。
従来は紅茶と合わせることの多かったスコーンだが、コーヒーが普及するにしたがって
よく見られる組み合わせとなった。
「ありがとう」
アスカがお礼を言って、スコーンを口に運んだ。
サクサクとした生地とほのかに香るバターの味がアスカは好きだった。
添えられているジャムもベリー本来の甘みがして美味しかった。
「美味しい」
「美味しいですね」
王と一緒に笑いあう。
「将軍も、よければどうぞ」
王が進めると、それまで背筋を伸ばして座っていた将軍もおずおずと手を伸ばした。
「いただきます」
そう言って口に入れ、僅かに目を開く。
「美味しいです」
照れたように、いつもよりも小さな声で言った。
ほかの三名が思わず笑みをこぼす。
その後も、穏やかな雰囲気で時間が過ぎていった。
「それではこれで失礼いたします」
コーヒーを飲みほした後、将軍が立ち上がった。
横をとおりすぎるときに、ふわりとスコーンの甘い香りとコーヒーの匂いがする。
サイドテーブルに置いてあった長剣を腰に挿しているときに、王が口を開いた。
「今日もよろしく頼みます」
金具を触る手を止め、こちらを振り返る。
「はい、お任せください」
首だけ倒す敬礼をし、部屋の正面の扉から退出した。
細かいスケジュールを確認した後、アスカも退席する。
リックに扉を開けてもらって廊下に出ると、将軍の後ろ姿が見えた。
がっしりとした肉体に隠れて相手が見えないが、誰かと話しているようだった。
軽く何度か首を振って断る動作を見せた後、廊下の奥へと進んでいく。
「アスカさん!」
会話の相手がこちらに手を振って歩み寄ってきた。
王が飾っておきたくなる美しさだとしたら、彼は征服されたくなる美しさだ。
クレヴァス・ラウール・ベア。王国の王位継承者だ。
陶器のような滑らかな白い肌に、芸術作品のように整った顔。
指の一本、髪の一本まで神がつくったような完璧なつくりだ。
普段は途中まで編み込んで垂らしている金髪を、今日は一つにくくっていた。
首元にリボンのついた灰色のブラウスと、体に沿った黒いズボンが嫌味なほど
よく似合っている。
長い足を存分に生かして、あっという間に近くに立った。
「お久しぶりです。アスカさん」
翠緑の瞳をほそめ、嬉しそうに微笑む。
「本当に」
王族や大臣の中で唯一信頼できる人物だ。
「その手に持っているのは何です?」
「これですか?」
白い布のかかった籠を持ち上げて、軽く揺すって見せる。
「陛下の調子が良くないと聞いたので、庭園で摘んだ花束とボンの実でつくった
飴をお渡ししようかと思って」
中を見ると瓶に入った赤色の飴と、月下美人を中心にした見事な花束が入っていた。
「月下美人が咲きましたか」
「ええ、今年一番に咲いたものを屋敷から持ってきました。夜のうちに術をかけておいたので、しばらくは楽しめるはずです」
ベア王国では王宮に王以外の王族が住むことは許されていない。
離れていても王を思う気持ちが嬉しかった。
「まだお話ししたいので、少し待っていていただけませんか」
係の者に身体チェックをうけ、細身の剣を預けながら、王子が言った。
「分かりました」
「ありがとうございます」
礼を言うと、結んだ髪を揺らしながら部屋へと入っていった。
王のそばで帯剣を許されるのは、リックと将軍、そしてアスカのみ。
万が一の事態に備え、居室の前の部屋には武器となるようなものは置かないことになっている。あるのはリックが扱う槍だけだ。王の居室も一年のうちに何度も変更され、変更された場所は限られたものしか知らない。
台座に置かれた花瓶を避けて壁にもたれる。
ズボンのポケットから砂時計を取り出し、逆さにした。
この砂時計はアスカがスカイからもらったものだ。
「主人のいう少しは少しじゃありません。この砂が全て落ちきるまでが普通です」
そう言って渡された白色の砂時計は正確に時を計ってくれる。
「まったく私を何だと思っているのやら」
待たせている自覚のない本人はそう思っている。
さらさらと落ちていく砂をぼんやりと眺めていると、王子が戻ってきた。
「お待たせしました」
「おおー」
砂時計の上部にはまだ砂が残っていた。
「…何です?」
怪訝そうにする王子に、なんでもないと返してアスカは談話室へと向かおうと壁から
背を離した。
「どちらに行かれるのですか」
不思議そうに王子が尋ねる。
「談話室」
端的に答えると王子は少し眉を寄せ、困ったような顔をした。
「疑われたくないので中庭で話しませんか?」
王位継承者がアスカと密室で話をしたとなると、よからぬ噂を立てるものがいるのだろう。
アスカは王子の立場に胸を痛め、そしてその思慮に感心した。
「そうしましょうか」
「ありがとうございます」
二人で広く長い廊下を歩いていく。
しばらくの間、靴が床を打つ音だけが王宮に響いた。
「今度娘の祭壇を立てるので来てくれませんか」
こちらも見ずに、いつもよりもワントーン高い声で言った。
思わず足を止め、王子の顔を見る。
軽く俯いた顔に長い睫毛が影を落としている。
「もう、そんな季節ですか」
胸に鈍い痛みが走り、まともに言葉を継げなかった。
「…ええ」
互いに絞り出すようにして言った発言だった。
建国祭が行われる月に、二人は大切な人を失った。
アスカは妻を、クレヴァスは娘を亡くした。
再び歩を進める二人の間に会話は生まれなかった。
黙々と歩いていると、すぐに陽のあたる中庭に到着した。
珍しい魚の泳ぐ池があり、薔薇の咲くアーチがあり、人々が休むテーブルがあった。
まるで迷路のように植えられた花々は上空から見ると獅子の形になっている。
なかでもアスカが好きだったのは、つる植物でつくられた籠だった。
そのなかに小動物を模した焼き物や、鉢が入っているのが可愛らしい。
中庭に面したベンチに座り、生い茂る緑を眺める。
この植物たちは、初代王とシグリットが交わした約束を守るために存在している。
ベア王国ができる前、大地を揺るがす戦乱が起きた。
なぜ起きたのか、誰がどれだけ死んだのかわからないほどに世界は混乱し、血にまみれた。
それを嘆いた初代王が三日三晩祈りを捧げ、その願いを聞き届けたシグリットが戦乱を収めた。その時代に取り決められた約束は、今もなお王家に強い影響を与えていた。
シグリットは代々ライオンが国を治めることを決め、王家の証として金髪と緑の瞳を与えた。緑の瞳には、荒廃した土地を植物で満たすようにという意味が込められている。
「ボンの実の飴、食べますか?」
不意に王子が口を開いた。
「いただきます」
持っていた籠から瓶を取り出し、蓋を回して中身を取り出す。
白くて細い指から一つ受け取り、口に入れた。
心地よい甘酸っぱさが広がる。
ボンの実は樹から採れる赤く丸い果実で、美肌効果や眼精疲労に効くとされている。
「庭園になったので作ってみました」
植物を好む王子は、郊外にある屋敷で膨大な数の草木を管理している。
新種の開発はもちろん、絶滅したとされる種類まで見事に育て上げていた。
あまりにも植えるから、屋敷の外を眺められないと愚痴を言っていたくらいだった。
華やかな容姿と植物を好むことから、民衆は「花の王子」と呼んでいる。
彼を題材に多くの詩、歌、劇の台本が書かれた。
「祭壇は、いつ建てますか」
「今月中に建てる予定です」
そう言うと力なく微笑んだ。
死んだら何も残らないこの世界では、弔う際に祭壇を建てることになっている。
肖像画や大切にしていたものなどを飾って、その日は一日中故人について語り合うのだ。
「必ず行きましょう」
「そう言っていただけると助かります。祭壇を建てる日には、王族であることがたまらなく嫌になりますから」
王子にはもう一つ呼び名があった。
「王位を二度逃した男」
初代王にシグリットが与えたのは、容姿の特徴だけではなかった。
天候を操る力を授け、それを持つ者だけを王位継承者と認めるという取り決めをした。
王族に生まれた子供には二度の試練がある。
一度目は生まれたとき。
二度目は十三才を迎えた時だ。
生を授かったときに天候に変化があれば王族、十三歳の誕生日に水晶に手をかざして
反応があれば王位継承者として認められた。
王の子がまた王となることは認められてないのに加え、能力は王族全員に現れるわけではないために、たとえ在位期間が1000年だったとしても、王位継承者が現れるまでは長い道のりだった。
反応は弱いながらも、二度の試練に合格し晴れて王位継承者となったクレヴァス。
その誕生に国中が歓喜した。
ところがその三年後、別の王族がそれよりも強い反応を示す。
争いを避けるためにクレヴァスは地位を退き、国一番の美女と呼ばれた隣国の王族スワンと婚姻する。翌年には娘をもうけるほど仲睦まじい夫婦となった。
その数年後に起こった大戦により、王位継承者が命を落とすと、またもや王位継承者に任命され、現在の王シャルルが伝説とされていた七色の光を出すと、また候補から外れた。
最愛の娘ブルームを奪われ、心を壊してしまった妻を支えながら、権力に振り回された彼のことを民衆はまた歌にし、劇を書いた。モデル料で暮らしていけるといわれるほど。
隣にいる王子がアスカは哀れでならなかった。
「…また、遊びに行っても?」
「ええ、お待ちしております」
安心したように微笑む王子の顔を見て、家にはリリィがいたことを思い出す。
王子を信頼しないわけではないが、リリィを取り巻く環境が安全になるまでは秘密にしておいた方が良さそうだった。秘密というのはいとも簡単に漏れ出てしまう。
「いらっしゃるときは連絡してくだされば、屋敷を挙げてお出迎えしますよ」
すこし考えて、そう付け加える。
口の中で小さくなっていた飴をかみ砕くと、パリパリという子気味良い音がした。
「久しぶりに手合わせをお願いできませんか」
ベンチの横に立てかけていた細身の長剣を手に取り、王子が言った。
「将軍を誘ったんですけど、断られてしまって」
いたずらっ子のような顔をして立ち上がる。
手に持っている剣は珍しい銀製のもので、将軍が王子の二十五歳の誕生日に贈ったものだ。
柄頭に獅子、グリップからガードにかけては桜の花が彫られている。
鞘は樹齢百年を超える木でつくられ、湖の色を写したように澄んだ青色が塗られていた。
まさに彼が持つにふさわしい最高級品だ。
「手加減しませんよ」
手の中に自身の長剣を出現させ、アスカは言った。
クレヴァスの物に比べ、太く短く重いこの剣も将軍がつくったものだ。
王子の物とは対照的に黒く塗られた長剣は、何者も近づかせない厳かさがあった。
「手合わせは久しぶりですね」
少年の頃を思い出させる笑顔で言う彼の足取りは軽かった。
「私がまだ720歳の時ぶりですから…」
綺麗なラインをとった顎に手を添え考えるそぶりを見せる。
「実に百年ぶりですよ!」
アスカは思わず失笑した。あまりに大げさだったからだ。
「そんなに嬉しいですか?」
自分と対戦するだけでそんなに喜んでもらえると思わなかった。
心の中がホカホカと温かくなる。
「ええ」
大理石でできた滑らかな階段を降り、地下にある鍛錬場へと入る。
天然の岩石を切り出してつくられた空間は、入るといつもムッとした汗の臭いがする。
王のための鍛錬場と兵士の訓練用のここしかないため、二人が対戦するときはこちらを
利用していた。壁に取り付けられたガスランプが足元を柔らかく照らし、独特の雰囲気を生み出していた。最大で六万人の部隊が収納できる大きさのこの場所には先客がいた。
「構え!」
小高くなっているところに立つ男の指示に従い、揃いの紺の練習着を着た部隊が動く。
剣の高さ、持ち上げる速度、構え方まで一糸乱れぬ正確さだった。
「第一形態!」
音を立てず、それでいて素早く正確に各自の配置につく。
当初の目的も忘れ、二人で訓練に見入る。
「交換!」
構えていた剣を鞘に納め、腰にさし、背中にかけていた黒い銃を構える。
ここでアスカの目がある一点で止まった。
一人だけ、ほんのわずかに遅れている人がいるのだ。
「発砲!」
ズガァンという集合音がした後、カチャンカチャンという空撃ちの音がする。
焦ったように弾倉を外し、中を確かめ始める。
アスカの視線を追うようにして、王子もまた彼を見た。
どれだけ確認したところで入っていない弾が現れるわけはないのだが。
まるで死刑宣告のように長靴を鳴らして指揮官が近づいていく。
「彼大丈夫でしょうか」
王子が耳打ちする。
「大丈夫だと思いますよ。だって彼の指揮官は…」
薄暗い場所を抜け、オレンジの光に照らされたのは、ベア王国の将軍フランマだ。
艶やかな黒い毛並みとすべてを見透かすといわれる金の瞳を持つ将軍は人格者として知られている。無言のまま近づくと静かに膝をついた。
「何があった」
低く穏やかな声で尋ねる。
先ほどまでの命令し慣れている、支配する者の声ではなかった。
「あの、その」
何度も瞬きを繰り返し、落ち着きなく周囲を見る。
「大丈夫だから。落ち着いて」
肩に手を置いてそう囁く。精悍な顔つきからは想像できないほどやさしい口調だった。
何度か深呼吸してから隊員が口を開く。
「装填したはずなのに、弾がでなくて」
震える手から銃を受け取り、将軍が中を覗く。
「っ、離れろ!」
そう叫び、銃を投げ捨てるのと同時に、銃が爆発した。
赤い火柱が天井まで届きランプを焦がす。
ガラスの溶ける嫌なにおいと、破片が跳ねる音があたりに広がる。
将軍が銃の周りにバリアを張ったおかげで被害は小さかった。
とっさに盾をつくって自身と王子を守ったアスカも無事だった。
警戒した動きで火炎に近づくと、将軍が半透明のバリアに手を触れた。
目を閉じ、落ち着いた呼吸を繰り返す。
すると強く高く燃え上がっていた炎が徐々に落ち着きを見せていく。
見えない力に操られるように、従順な様子で小さくなっていった。
「はぁ」
完全に炎が見えなくなると手を離し、バリアも消した。
簡易の盾を組み立て、防御の陣営を組んでいた隊員たちから拍手が送られる。
「皆怪我はないか」
銃の残骸を拾い集めながら将軍が尋ねる。
「はい、ありません」
リーダーらしき熊の獣人が答えた。
「よろしい」
頷くと隊員達のほうに向きなおった。
「真面目な奴ほど早く死ぬ。警護についていない限り、危険を感じたら
迅速に知らせ、そして逃げるように」
感激したように静まり返った。
「今日の訓練は中止とする。各自持ち場に戻るように」
「「「はい!」」」
武器を壁に作られた棚へと戻し、荷物をまとめた隊員達が、アスカと王子に一礼して
続々と八つある出入り口から帰っていく。
「素晴らしい部隊ですね」
こちらに歩いてきていた将軍に王子がそう声をかけた。
「恐縮です」
感情も抑揚もない声で将軍が返す。
「さすが、首都防衛の要・第一師団。弱みなんてないんじゃないですか」
楽しそうに言う王子とは対照的に、将軍はますます表情を曇らせた。
「弱みのない部隊などありません。ただ弱みを見せる部隊もまた無いだけです」
「そうなのか」
気分を害した様子もなくにこやかに答える。
すると将軍が少し考えるように首を傾け、王子の胸元を見た。
「強いて言うならば、神も奇跡も信じないことです」
それだけ言うと黙礼をして近くの出口から退室していった。
「嫌われてるのかな」
王子が振り返ってアスカをみた。
悲しむ様子でも怒った様子でもなく、不思議そうに。
「嫌っているのではないのでしょう」
自分でも嘘っぽいと思いつつ、アスカは答えた。
王子の首にはシグリットを冠した笛がかけられており、服の下に入れられた笛を見ながら
将軍はそう言ったのだ。王族が危険を知らせるために身につけている笛を吹くと第一師団が助けに来ることになっている。
「さあ対戦しましょう」
黒塗りの鞘から磨き上げられた刀身を抜く。
実際に使うのは八百年前に起きた大戦以来だった。
木刀やほかの鉄剣にはない、手のひらに吸い付くような体との一体感がこの剣にはある。
「今日という今日は勝たせてもらいますよ」
王子も鞘から銀色に輝く剣を抜く。
ぼんやりとオレンジ色に染まる、二人の男の影が鍛錬場に映し出された。
銃の残骸を魔導解析班に渡して、将軍は部屋を出た。
廊下に長靴のなる音が響く。
誰の仕業だろうか。
吹きざらしの窓から差し込む暖かな日差しに目を細めながら考える。
検討はついているが証拠がない限り手出しができない。
だがいつまでもやられているわけにもいかない。
死者が出なかったからよいというわけではない。
団長を率い、国防を担う将軍として見過ごすわけにはいかない。
そう決意していると、ふと僅かな気流の変化を感じてそちらに目を向けた。
王子クレヴァスだ。
鍛錬場帰りなのか、結んだ髪が乱れ、頬がバラ色に染まっていた。
しっとりと汗ばんだ顔を柔らかく白いタオルで押さえている。
じっと見つめていると王子もこちらに気が付いた。
「将軍」
爽やかな笑顔でこちらに微笑みかける。
女性なら黄色い歓声を上げるか、失神するかするだろう。
王子のほうに体を向け、首のみを倒す敬礼をした。
「王子様」
「将軍、剣術の磨き方を教えてください。このままでは生涯で一度も勝てずに終わってしまいそうです」
悔しそうに唇をかむ。
幼い子のようで、それでいてどこか煽情的だった。
「十分お強いですよ」
世辞ではなく、事実だった。
将軍や国守には敵わなくとも、国内で十の指には入る腕前だ。
王族の指南をしてきたなかで最も筋が良かった。
「昔みたいに教えてはくれませんか」
「私がお教えするのは子供の王族のみです」
「821歳は子供ではありませんか」
すねたように上目遣いで言った。
「はい」
王族は成人した後、2000年ちかい寿命の中で姿が変わらない。
大人になったときの姿で生き続けるのだ。
目の前にいる王子も18歳で成人を迎えてからずっと同じ見た目で生きている。
けれど大人であることに変わりはないのだ。
「1302歳の将軍から見れば子供に見えませんか?」
「見えません」
端的に答える。
腰ほどの背丈だった少年が今では胸の高さまで背を伸ばしていた。
「3042歳の国守様から見てもだめですかね」
「私たちが普通と違うだけですので、子供には見えないかと」
そう答えると王子は弓なりの眉を下げた。
「そうですか」
肩を落としている姿は親しみやすい王子そのものに見える。
「以前のようにはできませんか」
何か含むところがある発言だった。
思わず過剰に反応してしまう。
上がりかけた肩を抑え、王子の表情を窺う。
「私のことを恨んでいますか。あの時のことを」
俯いたまま発せられた言葉は古い記憶を揺さぶった。
そう、古く忌まわしい、けれど忘れられない記憶を。
もうもうと上がる土煙、逃げ惑う人々の絶望の表情、遠くから近くから聞こえる断末魔。
そして…
慌てて耳に残る声をかき消し、記憶を頭の奥底に沈める。
粗くなりかけた呼吸を整え、王子の真意を探る。
「どういうおつもりで」
抑えきれなかった怒りが声から滲む。
何度かつばを飲み込み、また口を開く。
「どういうおつもりですか。お教えできないのは規則だからです。鍛錬場のことでしたら少し動揺していたので不適切な発言をしてしまったのかもしれません」
激情を何とかなだめようと口を動かした。
「それに関してはお詫び致します」
だから二度とその出来事を持ち出してくるな。
言葉にこそしなかったがそういう気持ちでいた。
「違います」
王子が少し困ったような表情をして顔を上げた。
服の胸のあたりをつかみ、目線を合わせてくる。
「その件は関係ありません。どうしても気になるんです」
あの時の将軍の表情が。
続けて言われた言葉にこれ以上冷静さを保てる自信がなかった。
「失礼いたします」
礼もそこそこにして、自分の執務室へと戻る。
「待ってください」
伸ばされた腕をかわし、廊下の奥を目指す。
「教えてください。あの時私が勇気を持てていたならば…」
背後から聞こえてくる声から逃げるように足早に廊下を進んでいく。
あとはただ常日頃から人気のない廊下に王子がただ一人残されるのみ。
しかし二人とも、その会話を盗み聞きしているものがいることに気が付かなかったのであった。王子が去ったあと、陰から出たその人物はニヤリと不敵に笑い、そしてまた闇の中へと消えた。