第十六章
「大切にしている言葉?」
自室にいたスワッチは、リリィからの問いかけを繰り返した。
「そう。宿題で聞いてきてってメリ先生が」
人の良さそうな女教師を頭に浮かべ、スワッチはあの先生なら言いそうだと思う。
「いいけど、師匠には聞いてきた?」
「まだ聞いてないけど、どうして?」
欠片も意味がわからないというように目を瞬くリリィに、スワッチはこっそりと息を吐いた。
(師匠が知ったら絶対拗ねる、ごねる、面倒だ)
リリィとアスカの関係は、脆い。
今のところ親子のような関係にはなっているが、強い絆と言われれば違うだろう。
子供は、愛をかけられたらかけられた分だけその人を好きになる。アスカはリリィを愛している。それは本当だ。
ただ問題なのは、目に見えるか、心で感じられるかどうかだ。
そういう奴は世に山のようにいる。
己は子供を愛していて、だから当然それが伝わっているだろうと。
目に見えないものを信じる子供でも、愛情に対しては厳しい。いくら子供のために働こうが世の中をよくしようが、そばにいてくれない人には1片の価値もないのだ。
そこをアスカは理解できていない。
(だから口酸っぱく言うのに)
「ま、いっか」
自分より先に聞いた相手がいることを知り反省すればいい。中途半端な愛情や執着は己の身に返ってくることを学べばいい。
「何かを守ろうとする気持ちが誰かを傷つけてはいけない」
「何かを守ろうとする気持ちが、誰かを傷つけてはいけない……」
なぜだか、リリィはどこかで聞いたことがあるような気がした。
「クロヒョウの一族はね、元々執着心というか、うーん。そうね、独占欲が強いんだよね。昔から」
「独占欲」
「そ、自分のエリアとか、自分のモノ、大事にしてるものを全力で守りに行くっていう気持ちが強いんだ」
他者とは一線を超えたその気質は、大陸中でも有名である。
「それがマイナスに出ないように、みんな仕事を選んで生きてきたんだ」
家系が物作りで有名なのも、人並み外れた執着心が僅かな妥協も許さないからである。スワッチは将軍職を選んだことにより、保護対象である国に執着しやすい。持って生まれた気質と、鍛え上げた武の力が、彼を国境の守護者と呼ばせる所以だった。アスカと国に
その心を二部することによって、スワッチは
強すぎる執着心をコントロールすることに成功している。
「僕は幼い時、それが理解できなかった」
笑っているのに泣いているように見えて、リリィは困惑した。話の行き先は分からないけれど、それがきっと大切な話だということだけは不思議とわかった。
モノトーンな部屋にこどものおもちゃやぬいぐるみ。ちぐはぐな部屋なのに、なぜだかそれがしっくりくる。そんな感覚に似ていた。
「師匠と出会って、愛を知って、余計にね」
急に、スワッチとの距離が遠くなって、近くなった。実際にはリリィは床に、スワッチは椅子に座っていることは変わらないのだけれど。
リリィには商人に引き取られる前の記憶が無い。薄いとかではなく、ごっそりと抜け落ちているのだ。商人のおじさんは優しくて、もちろん大好きだけれど、家庭というものや家族というものの暖かさを教えてくれたのはアスカだった。それまでなかった、愛したい愛されたい。離れたくない、離したくないという気持ちが芽生えたのだ。
「私にも、わかる気がする」
「!」
スワッチは金色の目を光らせて、今度こそ本当の笑顔を見せた。
「学園に入った時に、学園長に教えてもらったのがさっきの言葉」
守る相手が自分でも、自分の大切な人でも構わないが、その為に誰かを傷つけてはいけない。学園長は基準を作ることで、スワッチが己の心を整頓しやすいようにした。
「へぇー」
「傷つけないっていうのは、反撃しないとかじゃなくて、自分のためだけを考えて振る舞わないでねってことらしい」
それならば、リリィにも理解できた。
そして相変らずスワッチは、私のことをなんでも知ってるんだなと思う。リリィもスワッチのことをよくわかっているつもりだったけど、将軍だと知ってからよく分からなくなってしまった。
「こんな感じでいいかな」
「うん。ありがとうスワッチ」
これで授業解放の時に、発表できるネタが増えた。それに、みんなのことも前より良くわかった気がする。先生はこういうことも考えていたのだろうか。だとしたらすごいな。
先生は背丈だけじゃなくて、中身もかっこいい。
「次は師匠に聞いてあげなよ」
「わかった。そうする」
「なるべく早めにね」
「うん……」
用件は終わったはずなのに、なんだかリリィは出ていくのが惜しかった。スワッチの部屋に初めて入ったことには今気がついたから、そういう感情じゃないはずだ。もう自分の部屋みたいに感じるし、天秤が彫られた扉はいつも見ていた。
「どうかした?」
「どうかした訳じゃないんだけど」
「うん」
「なんかね」
「うん」
「スワッチが」
「僕が?」
「どうかしたんじゃないのかなって」
思えば、今日のスワッチはどこかおかしい。
変とかそういうのではなくて、こう様子が違うのだ。
「僕がどうかしたってこと?」
「うん。違ったりしたらごめんなさい」
ちょこんと頭を下げるリリィを見て、スワッチは内心舌を巻いた。成長具合からして6、7歳だと思っていたが、時々大人も驚くような鋭さを見せる。
でも、それが何かを言い当てたり、誤魔化されたことに気がつくほどの賢さはまだない。
「特にどうかした自覚は無いんだけどなぁ。
ちょっと話したくなっただけ」
「そっか」
それは悪いことでは無い。
むしろこの年であるほうがおそろしい。
幼い時から感が良すぎる子供は、大多数の子供から嫌われ、受け入れられない。大人の世界だけで育った子供は生きていく基礎的な力が身につかず、ろくな大人になれない。
取り繕うのは上手くても、心から信頼したり、笑ったりすることは少なくなる。
ありがとスワッチ。
そう言って出ていくリリィを笑顔で見送りったスワッチは、扉がしまったのを確認してから表情を変えた。
のほほんポヤポヤのスワッチから、冷徹で穏やかなフランマになる。
小麦色の肌も、焦げ茶色の髪の毛もそのままなのに、ただ黄金の瞳が持つ意味が変わる。
「落ちたな」
心の中の不安を幼子に悟られるほど見せるなんて。1度鍛え直した方がいいかもしれない。
空間魔術に収納していた報告書を手に取り、
スワッチは軽く眉をひそめた。
はっきりとは言えない。
だが無視もできない大小の事実。
一言で表すならばきな臭い。
学校開放の日に近いことも気にかかる。
アスカを狙った人物なのか、それともリリィを狙った計画なのか。その考えは、強引に結びつけようとしているようにも、関係があるようにも思えた。
リリィの育て親である、商人が死んだ。
連絡を受けたアスカが宮殿に駆けつけると、
少し困った顔をした国王シャルルがいた。
半人の姿をした彼は、金色の髪がよく映える
真っ白なシャツを着ている。
「陛下」
「すみません。本来ならこのようなことでお呼び立てするべきでは無いのですが、ご令嬢に関わることでしたので」
ご令嬢。
やはりベア王国の王をしているだけあって、
彼は理解が早い。ニヤつきそうになる頬を引きしめ、アスカは真剣な声を出した。
「商人が殺害されたというのは本当ですか」
裁判の後会ってから、まだそんなに日が空いていない。一体彼の身に何があったというのか。アスカは首をひねらずにはいられなかった。
「残念なことに、事実です」
執事のリックが隣の部屋から資料を持ってくると、静かに紅茶を淹れる。立ち上る湯気によって香りが伝わるのに、彼のトレードマークである丸眼鏡は曇らない。この国の誰よりも長生きなアスカでさえ、その秘密は分からなかった。
しばらくの間、カップを傾ける音と資料をめくる音だけが広がる。
それは、収穫の近い実りの季節にふさわしい穏やかな時間だった。集っている理由が、殺しでなければだが。
「遺体が見つかったですって?」
「不自然ですよね」
ベア王国では人が死ぬ時、その体は自然にかえる。細かい光のつぶとなって、空気の中に溶け込んでしまうのだ。その人の年齢や体質、また魔力量などによっても変動するが、消えてなくなることに変わりはない。
将軍が時を止める魔法を考案するまでは、殺人事件の捜査は状況と物証でしか判断できなかった。その魔法も自然に反するため4日間しか使用することが出来ない。
つまりこの国で死体が見つかるのは非常に稀で、国王の言った不自然な状態なのだ。
「つまり」
「見せしめか、あるいはほかの意図があると考えるべきですね」
「ほかの意図と言うと」
「誰かを貶めたり、とかでしょうか」
捜査のプロではありませんから。と小さく笑った国王シャルルは、そのまま軽く目を伏せた。しばし迷うように黙り込み、口の僅かに空いた隙間から漏らすように話した。
「政治のプロでもありませんが」
自嘲気味に呟かれたその言葉は、彼が背負い続けている荷物の重さを物語っている。
下ろす相手が、定まらないのだ。
クレヴァスかマッカランか。
2人の継承権を持つ者の間で、臣下たちが割れていた。
「悩まれているのですか」
「……はい」
年齢、政治力、経験を理由にクレヴァスを、
生まれ持った能力の高さ、血筋からマッカランを推す両者の意見は落としどころがない。
王になるものは1人なのだ。
そして決めるのも王なのだ。
「この情勢でなければ、私は迷いなく王子、
クレヴァスを選んだことでしょう。ですが」
白い頬にまつ毛の影が落ち、なにやら不吉な予感を抱かせた。アスカが思っていたよりも国王はこの事について頭を悩ませ、心を痛めていた。疲労が薄く膜を張り、その美貌を儚くかすませる程だった。
「……西の長への不満が噴出しています」
元々性格にやや難アリと懸念されていた王族だが、ここ最近の行動ぶりが目に余る。
建国祭の時に将軍に咎められた腹いせか、はたまた武闘祭で第1師団にコテンパンにされた腹いせかは分からないが、根拠の無い悪口や悪評を広めていた。その件に関しては本人が罰を望んでいないため不問とされていたが、
元々の好色家、包み隠さずいえば女好きが加速し、高圧的な態度に、散財癖、低い政治力など、あげたらキリがないほどに紛糾されている。西の長に就任する前から批判は出ていたが、それとは比べ物にならないほどだ。
カエルのように短い手足と突き出た腹に、その最悪の性格を添えれば、天下無双の嫌な奴になる。
「西は、神子たちがすまう大切な場所です。
したがって監督する長もまた大切です」
神子と呼ばれる全身白い毛の、芸に秀でたものたちが住まう神殿があるのは西。その保護や教育を行うのは、西を治める長なのだ。
「私は、できることなら王子に頼みたいのです。この国で最も信頼できる、賢い王子に」
王子クレヴァスは既に東の長の経験がある。
その観点から言っても妥当な判断だ。
「でもそれは…」
「そうです。この決断は王位継承者から外すことを意味するのです」
各地方の長は、王族でありながら継承権をなくす。過去に王子クレヴァスが東の長を務めたのも、他に継承者が現れ、その人と争うつもりがないことを示すためだった。継承者不在となったため再び王子となったが、本来ならありえない異例中の異例の出来事である。
「マッカランに不足があるわけではありません。あの子は聡く可愛い子です。少し幼いという点を除けば申し分ない後継者と言えるでしょう」
「学園卒業まで、なんとか稼げないものですかね」
「そんなことをしたら、決着が着くのはどちらかが死んだときになります」
臣下たちはそれほどに息巻いているのだ。
ライバルを消すくらいやり遂げてしまうだろう。
「まだ地方守備の要第3師団のルシフェルが健在なら、話は違ったかもしれません」
「うちの者がすみません」
アスカは国王に頭を下げた。
アスカの血族にあたる第3師団の団長ダガーが将軍によって任を解かれたため、現在は副団長が兼任している。第3師団は、4、5師団と共に首都を除く4つの国の守備を担当し、3つの師団を束ねる存在を担っている。
ダガーは性格に難はあったが、仕事の面だけ見れば高い評価をするものも多かった。貢物を許さず、不正に対してやや過剰なほどに厳しかった。獣人以外を見下す姿勢さえなければ理想的な団長と言っても差し支えなかっただろう。
「問題が重なりますね」
商人が死んでいたのは、よりにも寄って西の国。口にするのもはばかられるほど酷い死体だったという。
「将軍には相談されましたか?」
「いえ」
軽く首を振った国王は一口紅茶を飲むと、少し間を開けてから口を開いた。
「第3師団の問題は将軍も把握した上で処分されたでしょうからわざわざ尋ねる必要はありません。西の長の問題は、我々の管轄なので相談する必要はありません。商人の死に関しては、将軍の守備範囲でのことではありませんし、何より1人が死ぬ度に話をする必要はないでしょう」
将軍は第1師団と第2師団の長を既に兼任しており、王族の護衛と首都の警備を担っている
彼の助力は期待できず相談する必要なしと判断した王の考えは正しい。
だが。
(国王はここまで薄情、いや冷淡だったか?)
些細な違和感が、アスカの胸を刺す。
幼い時から見守ってきた王のことはよく理解しているつもりだった。一番の理解者であるという自負もある。元来、アスカは深く考えないたちである。別に考えが浅い訳では無いが、考えるよりも先に勘。いわば本能が察知するのだ。国内の誰よりも強い先祖の血がそうさせるのかもしれなかった。
「将軍も容疑者なのですか?」
また、という呆れを持って発した言葉に、国王は思いのほか反応する。
「いえ」
「その声音では、はいと言っているようなものですよ」
「国守様以外には、なかなか効くんですけど」
ふふふ、と笑った2人は、また神妙な顔つきになった。
「どうしてこう短期間で二度も容疑者になるんです?」
「分かりません。ただ言えるのは、今回はかなり悪意を持っただれかがいるということだけです」
もしかしたら前回も、同じ人物の仕業かも知れません。
そう呟いた声は、静かな怒りを孕んでいた。
「死体が消えないよう魔法がかけられていたからって、どうして将軍が犯人ということになるのです?あまりに荒唐無稽な、幼い推論です」
国王が誰かを深く信頼するのは、理論上は避けた方が良い。力の偏りを防ぎ、重臣たちを俯瞰してみることができなくなるためだ。
だが、アスカはその気性を潰さなかった。
そういう王がいても、いいと思ったから。
将軍も同じ意見だった。
「でもそれを唱える者がいる以上は、国王として無視することはできません」
「将軍が容疑者であることではなく、容疑者に仕立てあげようとしているものがいることな問題なのですね?」
「ええ」
どれほど稚拙な申し立てだとしても、国王はそれを無視することは出来ない。必然的に、将軍は行動を制限されることになる。
国王と将軍の二人を、その訴えひとつで拘束することが出来るのだ。これほど割と見通しの良い策略もないだろう。
「あまり聞きたくはないのですが……」
「私が王子とマッカランのどちらを推すかですか?」
ニヤリと笑うと、国王は勝負に負けた子供のような顔をした。
「確かに政治の面でいえば、私に聞くよりは将軍に聞く方が良かったでしょう」
ドロワの証拠をもって生まれてきた彼は、獅子の血を引く国王と、シグリットの血を引く
国守が掟を破っていないか監督する役目がある。行動や政治が正しいか判断する立場としては、最も妥当な人物と言えるだろう。
最も、今の彼は将軍として政治に関わっているので、歴代のドロワの中では異色である。
「最も合理的に考えれば、西の長にクレヴァス王子を指名し、王子にマッカランを指名するのが良いでしょう」
「やはりそうですか?」
「王子には私と将軍が鍛え上げた剣の腕と財力、人望、政をする力が備わっています。一刻を争う西の国に派遣するのに、これほど適した人はおりません」
それに王子には良心がある。
王子から追放されても怒らないだろうし、操られることも反逆することもないだろう。
「反対に、マッカランには時間があります。
下手にいえば時間しかありません。身を守る力もなければ、善悪がつくほど大人でもない。彼は王子として保護し、教育する必要があるでしょう。幸い、こちらにはどれだけ時間がかかってもいい」
国王が亡くなることがなければ差し迫った問題は起きない。
国王を絶対に死なせたりしない。
だから大丈夫なのだ。
「安心して。ご自身の判断に自信を持ってください。あなたの判断に、私は全力で従いますよ」
「ありがとうございます」
みな、と言わないところがアスカらしい。
少なくとも己は味方をする。
だから大丈夫だと。
一見楽観的にも思えるこの発言は、アスカの真心だった。嘘をつかない、自分の意思や立場を明確にする。そんな小さなことが国王の心の支えになるのだ。
「すみません。話がそれてしまいましたね」
今もなおアスカに頼ってしまう己を恥じるかのように笑ったシャルルは、話を元に戻した。
「商人が殺された理由に見当はついていないのですよね?」
「先ほど言ったようなみせしめや陰謀の可能性が高いとみていますが、確かなことは何も分かっていません」
「今回の件、第3師団の副団長には少し荷が重いかもしれませんね」
「かといって適当な人物も……」
アスカは国王をじっとみた。
「?」
さらにじっとみた。
「??」
もっともっとじっとみた。
「???」
アスカが見つめるほどに傾いていくシャルルの首は、今や肩につきそうなくらいだった。
「なんです?」
「私はどうでしょう?」
「アスカ様に、ですか?」
「これでも私は元将軍ですよ。能力に関しては不足ないでしょう!なにより暇人だし」
フランマ将軍の前、確かにアスカは将軍職を務めていた。暇人かはさておき、自由に動ける立場ではある。
「捜査の公平性としては大丈夫なのでしょうか」
「リリィと商人は、こう言っちゃあれですが血は繋がってない。私と商人は気は合うけど付き合った歴は短い。どちらも掟の範囲内ではないでしょうか」
私の捜査を拒める権限を持つ人など国王以外にいませんし。そう言ったアスカはおどけるように肩をすくめた。守護神ジグリットの血を引き、この国の誰よりも長命で、武力にも優れたアスカに歯向かおうとするものなど、
ほとんど存在しないのだ。
「では……、お願いしても?」
「嫌です」
なぜか即答するアスカに戸惑いの目を向けると、アスカはキョトッとした顔を返した。
(やはりこの方は何を考えているのか分からないな)
賛辞とも、批判ともとれることを思ったシャルルは大人しく降参することにする。
「何かお気に召しませんでしたか?」
「お願いではなく、命令してください」
「命令?」
「この国の国王シャルルとして、私にお命じください。捜査をせよと」
(まったくこのお方は……)
「わかった」
背筋を伸ばし、その薄緑の瞳をひたと向け、
シャルルは口をゆっくりと開く。
その振る舞いは堂に入り、その声は耳に心地よく響いた。
「国王として、国守アスカに命ずる。西の国で起きた殺人事件を明らかにせよ。誰の目にも不正なく、こと細かに明らかに」
「アスカ・シェン・ジグリット。拝命致しました」
不敵に浮かんだその笑みは、味方には頼もしく、敵には嫌らしく映ったことだろう。
「おじ様?」
リリィが扉に声をかけても、返事はなかった
「おじ様ー?いないのー?」
今日はいるって言ってたくせに。
嘘つき。
黒いワンピースの袖のフリルを揺らして、リリィは拗ねた。
(いや、拗ねてない)
愛らしい唇はツンと突き出し、くりっとした瞳は不満そうに細められてはいるが、拗ねていないらしい。不機嫌そのものに寄せられた眉毛も、パタパタと動かされる腕も、別に拗ねているからではないらしい。
「お父さんになってくれるんじゃなかったのかな…」
あと一歩踏み出すだけの勇気をくれない。
リリィが安心してその胸に飛び込んで、無条件に甘えても良いのだと思えるその1歩を、アスカはくれなかった。
「自分の手元におけるようになったら、もうどうでもいいのかな」
商人のおじさんのところにいる時に、そういう人を沢山見てきた。
あれほど彼、彼女が欲しいと言っていたのに
ひと月が終わらないうちに返す人。それも元の姿ではない。そのまま死んじゃう子だって少なくなかった。生きてても死んでるのだ。稀に生き延びても、瞳が死んでいるのだ。
目の前にあった幸せが、笑顔が、もう二度と
自分の人生に現れないから。初めて人に必要とされたのに、その期待に応えられなかったから。リリィはそこまで深いことは考えられない。でも誰かに必要とされて、誰かに必要だと言われることがどれほど大切かはわかっている。言葉にできなくて、胸の中でうわぁとなってても、きちんとわかっているのだ。
だからこそ、今の状況がつらい。
鼻の先に、ずっと欲しいものがあるのに。
それが掴めない。
貰えない。
それがすごく悲しくて、不安だ。
スワッチにいつもと違うと言ったけど、違うのは私だ。こんな気持ちは、こんな考えは、今まで持ったこと無かった。
「あら、お嬢様。こんなところにいらしたのですね」
リス族特有の大きなしっぽを揺らして、レディさんが歩み寄ってきた。全体的に小さく作られている彼女の、唯一おおきなパーツ。栗色の瞳が、不思議そうにリリィを見つめた。
「旦那様は用事が出来たようで外に出られていますよ。あ、夕食までには戻るそうです」
しょげと下がった眉毛を見て、慌ててつけ加えた。効果はてきめんだったようで、ニコッと小さな笑みが浮かんだ。
「そうなんだ」
別に興味なかったけど。
そんな空気を一生懸命演出しながら、全身からピンクのオーラを漏らしている。
「夕食を少し遅くするので、それまでの間一緒に過ごしませんか?」
「うん!そうする!レディさんにちょうど聞きたいことがあったんだよね」
「聞きたいことですか?」
屋敷の1番奥に、レディの部屋はあった。
スカイは離れなのに、自分は母屋。
初めて屋敷に来た時変だと思った感覚は、実は今もまだ抜けていない。屋敷の廊下はどこまでも続くように見えて、少し心細かった。
もう慣れたし、屋敷が協力してくれるからどうってことは無いのだけれど。
「ねぇレディさん」
「なんですか?」
「ちょっと呼んでみただけ」
えへへ、と笑う顔は、屋敷に初めて来た時とは別人のようだった。お嬢様に自覚があるかは分からないけれど、本当に子供らしい、柔らかい顔をするようになった。あの頃は子供らしい笑みを浮かべてみせるだけで、感情が動いていなかった。
「呼んでみただけでしたか」
手を繋いで歩きながら、自分に妹がいたらこんな感じだったろうかと想像する。レディの母親は6つ子を腹に宿しながら、この世に一つだけしか命をかえせなかった。レディ以外は無事に産まれてくることが出来なかったのである。
「着きましたよ」
自室の扉を開くと、我が目には慣れた、リリィには見慣れぬ空間が広がる。
「…なんにもない」
「そうですか?」
ベッドと書き物机、クローゼットが1つに、小さな本棚が縦に2つ。シンプルだけど心地よい空間。自分の色に合わせ、栗色をテーマカラーにしているのがお気に入りだった。
密かにショックを受けていると、リリィは先ほど入ってきたばかりの扉へ向かっていく。
(そんなに興味なかったのかしら)
ノックアウト寸前のレディの耳に、リリィの声が届く。
「なんにもないわ、こんなのありえない」
(そんなに言う?)
何がそんなにリリィの気に触ったのだろう。
子供が喜ぶようなものはそりゃ無いけど、素敵だと思ってたのに。改めて自室を見渡し、こっそりとため息を吐いた。優しく机を撫でると、手に馴染んだ滑らかな感触が伝わってくる。
「レディさん、ちょっと来て」
「はい」
少し不格好な笑みをつくって、リリィのもとへかけていく。隣に立つと、リリィの顔が少しだけ近くなったような気がしてレディは驚いた。また背が伸びたようだ。
「これはずっとそうなの?」
視線を辿ると、レディの部屋の扉だった。
特に何の変哲もない、普通の扉。
「そうですけど……」
「なんで模様がないの?」
「模様?」
「みんなの扉にはあるじゃない。雪とか天秤とか翼とか、道具の絵とか彫ってあるでしょう?」
「ああ」
屋敷の扉には全て、使う人に合わせたモチーフがある。レディの部屋にはそれがないと、さっきから言っていたのか。
「あんなに沢山あったら覚えるのが大変じゃないですか」
屋敷に入ったばかりの頃、スノーさんが彫ってくれようとしたのをレディが自ら断ったのだ。スノーさんの彫る絵は素敵だったけど、一つ一つの印象が頭に残りすぎて部屋を覚えるのが大変だったのだ。
「今はもう覚えましたけど、今更やってもらうのも申し訳なくて」
それにこの扉になにかを彫るには、少し愛着が湧きすぎたのもある。
「誰がやったの?いつも素敵だと思ってたけど、誰がやってくれたかまでは考えたことなかった」
お嬢様は誰がやったかよりも、何のためにやった、どうやってやったかとかを気にする方だ。小さな頭の中は、常に疑問でいっぱい。
幼い時に父親を質問攻めにした自分のようだった。
「スノーさんですよ」
「スノーさん?」
「詳しくは知りませんが、屋敷を一度立て直した時にやったと言っていたような」
「ほぇー」
あの見た目でこんな緻密なものが作れるとは驚きだ。翼の毛の1本1本、天秤の質感、今にも香りがしそうな薔薇。がっしりした腕からあんな綺麗なものが生まれるだなんて。
サラッと2回も容姿に突っ込んだリリィは、かねてからの疑問を思い出した。
「扉といえば」
「?」
「薔薇の扉は誰の部屋なの?」
屋敷に来てから一度も出入りのない部屋。
出現する場所はランダムだけれど、消えてなくなる日はなかった。
(もしかして、聞いたらいけなかった?)
尋ねた途端に色をなくしたレディの顔を見てリリィは後悔した。ついでに勝手にその部屋について妄想した時間も悔いた。
リリィの想像よりも、きっとはるかに大切で
繊細な秘密を抱えた部屋だったのだろう。
ちらりと上を見ると、レディが迷うように唇をかんでいるのが見えた。
「ごめんなさい。聞かなかったことにしてください」
「あ、すみません」
取り繕うように笑って見せたレディは、必死に頭を動かした。
どう答えたら、誰も傷つかないのだろう。
当事者以外が正しく伝えるのは、当事者以上に難しい。ただこのまま有耶無耶にもできない。お嬢様はきっと、尋ねた自分を責めるだろう。この謎の沈黙の理由を己のせいにしてまた心を少しとざすだろう。1片も、彼女のせいではないというのに。
私が上手く話せたらいいだけなのに。
「私の」
思ったよりも声がかすれて、1度咳払いした。
「私の口からはお伝えできませんが、勝手に入ってはならない、とても重要な部屋だということだけはお伝えしておきます」
「秘密なの?」
「秘密というよりかは、そうですね。うーん、まだ話せないと言った感じでしょうか。
旦那様から聞くのが1番いいというだけです」
「おじ様は教えてくれるかな」
どうだろう。
近しい人にほど、傷は見せたくないものだ。
子供は人の気持ちに共感しやすい。
ましてやリリィにも関わることを話すだろうか。
でも親しい人の気遣いは、かえってその人を傷つけることもある。己は頼るにあたらない人だと、悲しい気持ちになることもある。
「教えては、くださらないかもしれないですね」
ですが、とレディは続けた。
「秘密にするのも、旦那様なりの愛です」
あの方は、とんでもなく不器用だ。
1度リリィを傷つけているのに、頑なに己のことや彼女に関わることを話そうとしない。良くないことは秘密にして、ただ愛情をかければいいと思っている。スワッチが手を焼くのも当然だ。
「なんでも話せる関係は素敵ですが、話さないという選択肢もまた、同じくらい素敵なのです」
「秘密にされても嬉しくないよ」
「旦那様は分かりやすそうで分かりにくいですが、全ての中心にお嬢様を置いて考えていることは確かです」
不貞腐れた表情のリリィは、うーんと首を捻った。腕も組んで表情もそれらしいが、ふくふくしたほっぺが見るものの結論を可愛いに変えてしまう。
レディの仕事は屋敷の整備と彼女のほっぺを守ること。ずっと健やかで笑顔でいられるようにしてやって欲しいと、アスカから頼まれている。
(それなのに……)
私は彼らを裏切った。
父親の命ひとつで、長年使えた主を、恩人を裏切った。猫の人形ロンロンに細工をしてリリィの身を危険にさらし、結果的にスノーさんを怪我させた。
「君への罰は、今まで通り暮らすこと」
スカイさんに問い詰められた日、旦那様はそう仰った。
「何物にも気取られることなく、変わらない毎日をつくることが君への罰でありお願いだ」
旦那様はいつもと同じ親しげな笑みのまま、そう仰った。
それは一見優しくて、残酷な罰だ。
けれどやはり優しい罰でもあった。
自分が傷つけた人に傷つけていない振りをし、素知らぬ顔をして日常を過ごすのは筆舌に尽くし難い辛さだ。何も疑わないその瞳で見つめられると体の奥で鋭い痛みが走り、泣き出してしまいそうなくらいだった。
(あぁいっそ謝れてしまえばいいのに)
膝を折り額をつけたら、どれほど心が軽くなることだろう。あの日からずっと抱えている秘密を下ろせるのなら、なんべんだって謝ることが出来る。これを見越しているのだとしたら、旦那様は恐ろしいお方だ。
そしてこんな時になってもまだ己の心の痛みを何とかしたいと思ってしまう自分が死にたくなるくらいに嫌いで。
「レディさん」
「なんでしょうか」
「大切にしている言葉はありますか」
咄嗟に返事ができなかったのは、まるで心中を見透かされているようだったから。
お前の本分を思い出せと、言われているように感じたから。
「先生に聞いてきてって、宿題出されちゃったの。尊敬する人の大切な言葉はなんですかって」
「……尊敬する人?」
聞こえていたのに確認するなんて、私はずるい大人だ。
「うん。レディさんはなんでもできるし、いつもリリィのご飯作ってくれたり、お話聞いてくれたりするでしょ。あとお掃除が上手だし、物知りだし、動きが綺麗だし、笑顔がとっても可愛いから」
照れながら話すお嬢様は、年相応の喋り方だった。普段大人みたいに話すから、その一生懸命さが可愛らしい。
でもその愛を、可愛らしさを享受する資格は私には無い。その事実にひどく胸が痛んで、言葉が出ない。
「レディさん?」
何かいけない事をしたのかと、こんな私にさえお嬢様は気をつかう。
「あぁ、えっと…大切にしている言葉でしたね。…私の、私の大切にしている言葉は…」
瞬きを繰り返しても、視界が滲んだ。
言葉が震えるのを、止めることが出来ない。
だって、私の大切にしてきた言葉は。
「家族を大切にする人は……世界で最も偉大である」
「家族を大切にする人は、世界で最も偉大…」
「すみませんっ」
「わぁっ」
一言断って、レディはリリィに抱きついた。
その小さくて、まだ薄い身体にしがみつくようにして、子供のように泣いた。
偉大なんかじゃない。
偉大なんかじゃなかった。
血族を守るために、私はもうひとつの家族を傷つけた。それらの行為のどこにも、偉大な要素などなかった。
「ごめんなさい」
言葉にはならないそれを繰り返し、繰り返しレディは口の中で呟いた。
一生話すことの許されない謝罪は、静かな屋敷の中に嗚咽とともに溶けていく。




