第一章
その日は、妻の命日だった。
だからだろうか、生涯で一番の気まぐれを起こしたのは。
ガヤガヤとうるさい大通りを抜けて、私は人気のない路地へ入っていった。
路地であっても、鮮やかな壁の色は少しもあせていない。
派手でいて調和のとれたそれは、世界最大の国であり獣人が治めるベア王国の豊かさを
表しているようだった。
一年は十二の名称で呼ばれ、一つの季節は初め、中、終わりに分かれる。
そして一日は四つの時に、一つの時は三サーア(三時間)で構成されるこの国は
大陸で最も栄えている国でもある。
私を見た人たちの態度は、二つに一つだ。
媚びを売るか、逃げるか。
今日は前者だった。どちらにしろ煩わしいので適当に相手をする。
奴らには私がどのように見えているのだろうか。
まあ、おおよそ歩くナイフか札束だろう。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろからヒタヒタと足音が聞こえてきた。
普通なら気が付かないような大きさだが、私の耳が聞き逃すことはない。
「またスカイに怒られるかもな」
眼を三角にして怒る奴の顔が目に浮かぶ。
「ハハハ、…さて何の用かな?」
そう振り返ったとき私は二重に驚かされた。
一つは、私の後を歩いていた相手が六歳ほどの人間の少女だったからだ。
擦り切れ、くたびれた白いワンピースに、サイズの合わない木のサンダルを履いていた。
純粋な人間は、ここ数百年間で数えるほどしか見たことがなかった。
もう一つは、少女がこの世界で忌み嫌われる黄緑と紫のオッドアイだったからだ。
「奴隷がこんなところにいてもいいのか?」
茶色の首輪をつけてはいるが、法で定められている逃亡防止の足環がついていない。
これは一体どういうことだ。
奴隷でない選択肢はあり得ないというのに。
「おじさん、私たちの言葉がしゃべれるの?」
私を見ても怯えない人間には、初めて出会った。
「今の会話でわかるようなことをいちいち聞くような阿呆は嫌いだ」
「だってここに来てから通じたためしがなかったから」
嬉しくて、と少女がほほ笑む。
まだ笑えるということは捕まって間もないんだろうか。
今までに見た奴らは微笑むことなどしなかった。
「おじさん、もしかして人間なの?」
「どこからどう見てもそう見えるだろう」
実際今の姿は、眼帯をした赤茶色の髪を持つ長身の男性にしか見えないはずだ。
「やっぱり違うかも」
首を振って自分の意見を否定する。
この少女に、もう少し付き合う気になった。
今日の用事は既に済んでいる。
ま、そうでなくても、時間は腐るほどある。
私の気の向くままに行動したい。
「どうしてそう思う」
「私たちの言葉を話せる人には会ったことがないけど、人間だったら首輪をしていないといけないし…」
そこで言葉を途切れさせた。
「いけないし?」
待ちきれなくて続きを催促する。
ゆっくり話されるのは嫌いだ。イライラする。
「奴隷として使われなくなる条件を一つも満たしてない」
人間が奴隷として登録されないための条件を知っているとは思わなかった。
数少ない、そして忌み嫌われる対象の人間を逃すためにあるわけではないというのに。
「条件とは?」
「一つ、年をとりすぎている。一つ、お金持ちであるなどの社会に良い効果をもたらすことができる。一つ、奴隷として使えないほどの身体的問題がある」
「私は当てはまらないから、身分を獲得した人間でもないと」
頷いて少女が肯定する。
なかなか面白い子だ。そして賢い。
「お前は足枷をしていないのに、私が首輪をしていないことが
人間ではない証になると言うのか?」
どれ知恵比べといこうじゃないか。
目をパチクリさせている相手の返答は待たずに話を続ける。
「それに私は結構年をとっている」
反論しようとした少女を手で制する。
「見た目というのは奴隷の大切な価値だ。主が見栄を張るために私に魔法をかけたかもしれないだろう。それにこんな人気のない路地を通るのに、大金を持ってくるアホや
仕立てのいい服を着てくる馬鹿はいない」
頬を膨らませているのを見ると、さらにいじめたくなる。
性格が悪いとわかっていながら、顔を近づけとどめを刺す。
「さらに言うと、この眼帯の下はな…」
そこまで言ったところで、路地の入口から商人が走ってくるのが見えた。
手足を必死に動かして、目を大きく開けて走ってくる。
恐らくまだ私には気が付いていないのだろう。
「今日は面白いことが続くな」
あいつでも少し遊んでやることにするか。
信じられないほど長い時間をかけて、商人はやっとこちらに到着した。
どうやら右足が悪いらしい。
「全くお前はどこに行ってたんだ。これから大事な競りだというのに」
「ちゃんと声をかけたつもりでした。それに、こんなに道が複雑だとは思わなくて」
私の時と打って変わって大人びた様子で受け答えをする。
公用語が話せるのか。
先ほどの見立ては正しかったようだ。
「あまり勝手な行動をとると、ワシだって庇いきれん。主様に怒られるぞ」
サッと彼女の顔に脅えが走る。
主様というのが怖い存在なんだろうか。
私以外に彼女の感情を動かす奴がいるのがなんだか気に食わなかった。
「おい、そこの猿」
少女が驚いたように振り向いた。
この世界では種族名で呼ぶことは、かなりの冒涜に値する。
当然相手(私から見ればただの赤いチョッキを着たサル)は怒りの眼を向ける。
その深緑の目と紅の目が合った。
相手がハッとした表情になる。
「これは、まさか、いや、こんなところで…」
心底驚いただけという態度は久々に見た。
こういう表情のやつもいじめたくなる。
長生きをすると、暇つぶしのチャンスを逃さなくなるようだ。
「これは失礼を致しました。商人様」
そう言ってうやうやしく頭を下げてみせる。
「いえ、とんでもございません。こちらこそ大変なご無礼をお許しください」
地面に頭がつきそうなほどペコペコされる。
そんな商人と私を少女が交互にみてくる。
頭を下げ続けられても楽しいことは一つもない。
「その少女は奴隷か?」
話題をそらすことにした。
「左様にございます」
「ではなぜ足枷をつけていない?」
法で定められているはずだが、と言及する。
「それは、その…」
「金がかかるからか?」
逃亡防止の足枷には特殊な魔法がかけられていて、対象区域外に出ることや
主人の意に反することを防止する効果がある。
違反するとショックが与えられるようにもするため、様々な術が付与される。
つまり手間がかかっている分、値段もはるという代物だ。
「いえ、決してそのような理由ではございません」
「じゃあどのような理由だ」
こういう回りくどい話し方は嫌いだ。
自分はいいが、相手がやるとイラっとする。
声にいら立ちが混じったのを感じたのだろう。
すこし迷うようなそぶりを見せた後、顔を寄せるように要求した。
そんなことをせずとも聞こえるが大人しくしたがってやる。
「彼女は魔力を持っているのです」
「それで痛みが生じるからつけさせていないと」
「はい。おっしゃる通りで」
優れた魔力を持つ者の中には、他人の魔力を受け入れることができないものがいる。
いやしかし、魔力を持った人間がこの年まで生きてこられたのか。
ただでさえ、昔起きた反乱のせいで人間は嫌われているのに、魔力を持った人間が?
普通なら生まれた時点で、同じ種族の人間に巻き込まれることを恐れて殺されていても
不思議ではないくらいだ。
「少女を、私に引き渡しなさい」
なるべく冷静な声を出すよう努めた。
「っ、それだけはなにとぞご勘弁を」
足元に縋り付いて懇願してくる。
「種族は違えど、面倒見てきた娘です。どうか殺さないでくだせぇ」
意外にもこの少女のことを大切にしているようで、私は少し驚いた。
「魔力を持った人間が無事に大人になれるとでも思っているのか。
いつか隠しきれなくなる。その時はお前も処分されるぞ」
「そんなことは覚悟のうえで、主様にも内緒にしてきました」
だから、と泣きながら縋り付く。
「その覚悟は立派だが、お前の力では守り切れない」
肩に手を当てて、ひっぺがす。
おかげで服がべしゃべしゃになった。
「だから私に育てさせてくれないか」
きちんと目を合わせて伝える。
「へ?」
「私に、引き取らせてほしい」
いいか?と彼女に尋ねると、僅かだが確かに頷いた。
「よし、ではそうしよう」
呆気に取られている商人を置いて彼女のもとへ向かう。
「あっ、首輪をお外しします」
「いや必要ない」
鍵を取り出そうとするのを止めて、少女の首に不釣り合いな分厚い首輪に手をかける。
そしてそのまま破壊した。
彼女が目を見開くのを横目に見ながら、首輪の残骸を道に投げ捨てる。
「これでよし、私が勝手に首輪を壊した。そしてそれをお前は知らなかった」
目配せしてみても、いまいち意図が伝わった感じがしない。
「その主様とやらにはこう言っておけ」
一言一句間違えるんじゃないぞ、と念を押す。
「獣人に譲るように言われてどうしようもなかった。タダで譲るのは惜しいと
食い下がったらこのお金をくれた」
言いながら巾着を相手に投げてわたす。
慌ててキャッチするのを見ながら話を続ける。
「その後のことと相手の名前は知らないと」
やっと相手に理解した顔が浮かぶ。
「この子に会いたかったら、私の屋敷に来るといい。ついでに何か買ってやる」
「ありがとうございます。ありがとうございます!おおなんと感謝申し上げたらよいか」
大げさなほど喜ぶ商人に思わず笑みがこぼれる。
「こちらこそ。この世界でお前ほど立派な奴はいないよ」
商人のための巾着も手渡し、そう言った。
「あ、一つ言い忘れた」
ちょいちょいと耳を貸すように要求する。さっきのお返しだ。
「この話をほかの誰かにしたり、私の名前を出したりしたら、お前を八つ裂きにしてやる」
お前のことは信頼しているがな、と体を離した後明るくつづける。
「さ、行こうか」
立ったままの少女の手を引き、屋敷への帰路をたどった。
「私はお前を何と呼べばよい?」
共に暮らすなら名前があった方が何かと便利だ。
「?」
不思議そうな顔をしてこちらを見てくる。
「名前だ、名前」
「私に決める権利があるのでしょうか」
驚いて立ち止まる。
さっきまでガンガンため口だったくせに。
「その態度は何だ」
「申し訳ございません」
「別に怒ってるわけじゃない。理由を問うてるのだ」
すこし考えるようなそぶりを見せた後、
「ご主人様ですから」と答えた。
「主人だと?」
買われたと本気で思ってるのだろうか。
それともさっきの商人の態度を見て、まずいと思ったのだろうか。
どちらでもよいことだが、その態度だけは気に食わない。
しゃがんで目線を合わせる。
「私はお前を娘として育てようと思っている」
「!」
もともと大きな瞳をさらに開いて、そのまま固まってしまう。
何か変なことを言っただろうか。
「娘、ですか?」
やっと喉から絞り出したようにそう言った。
「ああ」
もしかして、家族がいるのだろうか。
お前に娘と呼ばれる筋合いはないと怒っているのだろうか。
「不愉快だったか」
「あ、いや、そうではなくて」
両手を振って慌てた様子を見せる。
「じゃあ何なのだ」
私の出した声にびくりと震える。
さっさと言わんか。
ゆっくり話されるのは嫌いだ。
「自分に家族ができるなんて不思議だなと思っただけです」
なんだそんなことか。
「お前は今日から私の家族だ」
「家族」
口の中でその響きを確かめるようにつぶやく。
「そうだ」
「それなら私の名前はあなたが決めてください」
まだ敬語で話すか。
そこは気に食わなかったが、名前を私が決めるというのは新鮮で面白そうだ。
「自分で決めなくてもいいのか」
なるべく優しい声を出す。
「私たちは自分で自分の名を決める。
名前は自分の生きざまを決める、それくらい大切なものだ」
「人間は親が子供の名前を決めるのです。だから、娘にしてくださるというのなら
あなたにつけてほしい」
はにかみながら彼女が答えた。
名前。彼女にふさわしい名前。
改めて目の前にいる相手を見てみる。
茶色っぽいウェーブのかかった髪。黄緑と紫のオッドアイ。扇のような睫毛。
普通の子供よりも小柄な体。透き通りそうな白い肌。
「リリィ」
彼女の容姿とそうなってほしいという意味を込めた名前だ。
「リリィ。素敵な響き」
両手を頬に当ててうっとりしたような表情を浮かべる。
喜んでもらえたようだ。
「ありがとう。おじさん」
おじさん?この私が?
「お、おじさんだと!」
「さっき私に長いこと生きてるって言ってたでしょ」
こっちはいい名前を付けてやったというのにこいつは。
「せめておじ様にしてくれないか。おじさんだと老け込んだみたいだ」
「はい。おじ様♪」
やれやれ、彼女には手を焼くことになりそうだ。
屋敷に帰る途中、私は不安を感じる。
しかし、どこかそれを楽しみにしている自分がいた。
屋敷に帰った私を待っていたのはスカイによるお説教だった。
スカイは一応私の部下で、シマウマ族だ。
説教が長く、小言が多い。
だから基本的に右の耳から左の耳といった感じに聞くことにしている。
いつも帰りが遅いとか予定の時間に帰ってきたためしがないとか
自覚がないとか。そういった内容だった気がする。
「おまえは私の妻なのか?」
「そんなわけないでしょう。私がロゼ様にかなうはずがありません」
脳裏に妻の面影がうかぶ。
いつも穏やかに笑っている女性だった。
思い出し、心が安らぐとともに安心する。
よかった。まだ思い出せる。まだ、忘れてはいない。
「それよりも土産があるぞ」
たちまちスカイが露骨に嫌な顔をした。
「どうした?」
「アスカ様のお土産でいいものだった試しがありますか?」
「失礼だな。そんなことはないだろう」
「では例を挙げてみてください」
そう言われたので記憶を漁ってみる。
二人の間にしばしの静寂が訪れ、私が口を開くことでやぶれる。
「ないな」
「でしょう?」
勝ち誇ったようにスカイが言った。
私的には面白いのだが、スカイやスノーには評価されていなかった。
スワッチだけは喜んでくれるのだが。
「ま、今回は本当にいい物だ。いや人か?」
「また孤児を連れてきたんですか、あなたもいい加減に…」
「リリィ!」
このままでは話が進まないのでさっさと呼び出す。
そして待つこと数分。
「あの、リリィとは誰のことですか」
しびれを切らしたのかスカイが尋ねてくる。
「ちょっと待ってろ」
玄関の前に待たせていたはずだ。
いったいどこに行ったんだ。
いら立ちをこめて玄関の扉をスライドさせる。
とリリィはそこにいた。
「呼んだのになぜ来ない」
つい強い口調になってしまう。私の悪い癖だ。
「いつ呼んだの?」
「数分前だ」
「聞こえなかったけどな」
聞こえないはずないだろう。広間からここまでの距離だぞ。
もしかして。
さっと血の気が引いた。
「スカイ。スカイ!早く来いっ」
「なんですか、もー、人使いの粗い」
そう文句を言いながらこちらに来たスカイがぴたりと動きを止めた。
視線はリリィに注がれている。
リリィもまたスカイを見て固まっている。
なんだか恋愛劇みたいだな。
運命の二人が出会って、ビビっときちゃうあのシーン。
「はい。そこのお若い二人。見つめあってないで自己紹介して」
手をたたきながら言うと、スカイがこちらを向いた。
走ってこちらによって来る。
「あれって、あの、あれですよね」
意味も分からないことを尋ねてくる。
「うん、そのあれだ」
適当に肯定しておいてやる。きっと頭に浮かんでいるワードは一致しているだろう。
「あの、珍しいあれですよね」
リリィを指してもう一度尋ねる。
「だからそのあれだって」
少々苛立ってきたので雑に答える。
「えっ、ちょっ、はっ?」
「いい加減まともにしゃべらんか!」
スカイの珍しい表情を楽しみたいような気もするが、それでは話が進まない。
「人間を連れてくるなんて何を考えてるんです?」
素っ頓狂な声でスカイが叫んだ。
しゃべれるではないか。
「娘として育てようかなーと思って」
口をあんぐりと開けたまま、また停止する。
今までの付き合いで一番表情が変化しているかもしれない。
「…せめて、私たちに相談してからにしませんか?」
「もう連れてきちゃったもん♪」
はー、と大げさにため息をつく。
スカイはなんだかんだ言って許してくれる。
今回もそうだろう。その証拠にリリィのほうに近づいて行った。
「おい、人間の女」
「スカイちゃん。ちょっとそんな呼び方無いでしょう?
それにその顔を直せ。リリィが怯えてる」
唇をまくり上げそうになるのをこらえて、スカイは大人しく指示に従った。
軽く頭を振ったかと思えば、そこに立っていたのは
艶やかな黒髪と漆黒の瞳をもつ色白の美青年だった。
「これでよろしいですか?」
すこしすねたような呆れたような声音でスカイが尋ねる。
「うん。完璧完璧」
「全く。誰もがあなたみたいに自由に長時間変身できるわけじゃないんですからね」
そう言いながら足の位置を変え、リリィと向き合った。
「リリィと言ったか」
「はい」
「私はスカイだ。さっき見た通り、シマウマ族の生まれでアスカ様の部下をしている」
よろしく、とスカイが銀色の指輪がはまった右手を差し出す。
「よ、よろしくお願いします」
握手をする二人がほほえましくて、思わずニヤニヤしてしまう。
「それで、さっき僕を呼んだ理由は何です?」
すっかり忘れていた。
「そうそう。リリィを病院に連れて行こうと思って」
「病院?」
人間を見てくれる病院があるのか?とでも言いたげな表情だ。
「どこか悪いのですか?」
簡単なものなら私の力でもなんとかなると思いますが、と続ける。
「ちょっと耳が悪いんじゃないかと思って」
「…アスカ様」
「何?」
何か変なことを言っただろうか。
「リリィは人間なんですよね」
「うん」
どこからどう見てもそうだし、さっきその話もしたはずだ。
「人間の聴力で、あの広間から玄関まで、しかもあの分厚いドアを通して
声は聞こえません」
「…そうなの?」
たったこれだけの距離で?
「あなたという人は…」
額に手を当て呆れられた。
と思ったら、なんでもかんでも自分を基準にしすぎなんですよという内容の
お説教が始まる。
「よくもまあ一日にそんなに怒れるね~」
と感心していたら、
「一日に僕をこれだけ怒らせられるほうがすごいんですよ」
と返された。
返す言葉もない。
リリィは何も言わずに私たちのやり取りを見ている。
言わないだけであきれられてるのかもしれない。
まずいな、親としての威厳が損なわれる。
誰かこの子の説教止めてくれないかしら。
そんなことを考えていると、見知った二人の足音が聞こえてきた。
少し遅れてスカイも気がつく。
説教していた口を閉じ玄関のほうに目を向けた。
「リリィお嬢様、私の後ろに来てください」
「お嬢様?」
喜ぶというよりかは訝しむように尋ねる。
「呼称はいったん置いておいて、早くこちらに」
かすかに緊張している声を聞いてなにか察したのか、大人しくスカイの後ろに立った。
人間の姿になっても、背丈は変わらない。
小柄なリリィはすっかり隠れてしまった。
それとほぼ同時に玄関のドアが勢いよく開く。
「将軍、人間のにおいがするんですが、戦いですか?」
現れたのはスーツを着た二匹のヒョウ。
顔立ちはそっくりだが、種族が違う。
「いや、違う。だからスノー爪はしまえ」
片方のヒョウがお辞儀をしてすぐに指示に従った。
スノーはユキヒョウの一族だ。頬に昔負った大きな切り傷がある。
「じゃあ、なんで人間のにおいがプンプンするんです?」
人間、と忌々しげに言い、顔をゆがめる。
恐ろしげな牙がズラリと見え、リリィが息を飲む音が聞こえた。
スカイが私の答えを促すようにこちらを見る。
なんて答えたら納得してくれるだろうか。
「おやつじゃない?」
もう食べちゃったんだよ。
沈黙を破り、呑気な声で言ったのはクロヒョウのスワッチだ。
普段はユーモアのセンスが私と似ているのだが、今日は違うらしい。
「それも違うぞ」
そういわれたスワッチは、首を傾げてこちらを見、次にスカイを見た。
「あ、美青年形態だ」
唸るスノーを肘でつつき、一緒に変身する。
スノーは金髪で蒼色の瞳を持つ美丈夫に、スワッチはこげ茶色の髪と小麦色の肌をした
金色の瞳をもつ偉丈夫の姿になった。
「さて、人間のお嬢さん。そこで何をしてるのかな?」
スワッチが優しい声を出しながら、スカイのほうへ近づいていく。
シャツからのぞいた首元には幅の太いゴールドのチェーンネックレスがかかっている。
その声に誘われるように少しだけリリィが顔を出した。が、
「人間だと?」
声に十分な怒りを込めて、スノーがそちらを向いた。
目が合ったリリィは慌てて後ろに戻る。
「なぜ、人間が、将軍の家にいるのですかっ」
一言ずつ区切るようにして私に向かって怒鳴る。
人間の姿になっても、頬には傷跡が残っていて、口を大きく開くとひきつれたようになる。
せっかくイケメンになったのだから相応しい行動をとればいいのに。残念だ。
「まあまあ落ち着け」
「落ち着けるわけがありません。説明してください」
今にもとびかかりそうな剣幕で顔を近づけてくる。
よく見ると気持ちが高ぶって尻尾が戻ってしまっている。
ここまで興奮しているのは数百年ぶりに見た。
「説明してやるからいったん座れ」
そう声をかけてはみるが、気持ちがなかなか静まらないのか、イライラしたように尻尾を地面にたたき続けている。
「お前が座らないと僕たちが説明受けられないでしょうがー」
スワッチが文句を言った。
「だって人間だぞ」
「人間だね」
優しく肯定してあげる。
顔にはほほえみまで浮かべている。
「ていうか、なんでお前は平然としてんの?」
その態度が気にいらなかったのか、スノーが食ってかかる。
「なんででしょうね?」
面白くてたまらないといった表情で首を傾げた。
しつこく繰り出されていく質問ものらりくらりとかわしていく。
「おい、あんまり刺激するなよ…」
ふと、スワッチが体の後ろでハンドサインを送っているのに気が付いた。
“彼女をこの場から離してください。説明はその後にお願いします”
そのためだったのか。
スカイのほうに目をやると、リリィを体の後ろに隠したまま
ゆっくりと近くの部屋へ近づいていくところだった。
少しずつ、確実に扉の近くへ移動していく。
あと少しでドアノブに手がかかる。
スカイも肩の力を抜きかけたその時だった。
ガシャンと何かが壊れるような音がした。
その場にいた全員が一斉にそちらを向く。
リリィがスノーを見るのに必死で、足元に置いてあった瓶に気が付かなかったのだ。
「てめぇ、どこ行きやがる」
スノーが腹の底から響くような、どすのきいた声を出し、近寄っていく。
「そのまま帰れるとでも思ってんのか」
「おい、いい加減にしろ」
「スノー落ち着け」
私とスカイが非難する声に反応し、スノーが落ち着こうと頬の傷を撫でた。
「一旦出てきます」
そう言って玄関のほうに向かっていく。
肩がわずかに震えているので完全に怒りが収まったわけではないのだろう。
それでも何とかコントロールしようとしている。
どうやら危機は脱したようだ。
だが事態は悪化した。
さっきのスノーの声にパニックになったリリィがスカイから離れて走り出してしまったのだ。
「リリィ待てっ!」
慌てて声をかけたが間に合わない。
つまずいたリリィがよりにもよってスノーのほうへ転ぶ。
何かをつかもうと伸ばした手が、尻尾をつかんだ。
「フギャァァァ!」
衝撃で元の姿に戻ったスノーが大きく鳴く。
そこからは全てがスローモーションのように動いた。
爪と牙をむき出しにしたスノーがリリィに襲い掛かる。
慌てて向かおうと地面をけったが、空気の震えを感じて急いで後ろにはねる。
その瞬間、リリィの両手から眩い光線が前方に向かって発射された。
ドカーンという音がして暴発を食らったスノーが壁にたたきつけられる。
そして、そのまま動かなくなった。
「あ、あ、私」
リリィが両手を自分の体に引き寄せて震える。
「全然、そんなつもりじゃ」
近寄っていった私に怯えた目を向ける。
「ただ怖いっておもっただけなの。本当にそれだけなの」
沈黙を不信とでも思ったのだろうか。
震える唇で必死に言葉を紡ごうとする。
「分かっているよ」
座ったままのリリィを抱きしめて、優しく答える。
ハグなんて自分からしたいと思ったことなかったのに。
今のリリィにはどうしようもなく、してあげたかった。
「私、私…」
「大丈夫だから」
落ち着きなさい、そう言って抱きしめる力を強めた。
温かな体温と心臓の鼓動が伝わって来て、こちらまでリラックスしてくる。
少しずつ、少しずつリリィの呼吸が整うのを感じた。
「スノーさんは悪くないのに、殺しちゃった」
は?
困惑している私をよそに、うわーんと私の耳には耐えがたい音量で泣き始めた。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し謝る。
「リリィ」
しゃくりあげながら、全身の力を振り絞るかのように大声で泣き続ける。
「リリィ」
リリィ、と呼んでも目から大粒の涙を流すばかりで答えてくれない。
こういう場合はどうしたらよいのだろうか。
男なら頬をたたいて気づかせることもできるが、今のリリィにそれが適していないこと
くらいは私にもわかった。
「お嬢様」
事態を見守っていたスカイが優雅な足取りでこちらにやってくる。
それにもかまわないリリィに右手を差し出した。
パッと手の上に花が浮かび上がる。
目を真ん丸にしてリリィが泣き止んだ。
じっと食い入るように見つめる前で次々と手の上の物が変化していく。
美しい花から始まり、絵画、お菓子、おもちゃ、妖精と可愛らしいものばかりが
出現する。
生まれては消え、また生まれる数々にすっかり夢中になっている。
ユニコーンが自分の周りを飛んだときには笑みまで浮かべていた。
「助かった」
そっとスカイの近くに立って言う。
「お役に立てて何よりです」
言葉は固いが目元が優しくなっている。
まるで兄か父のようだ。
喜ばしいことなのになんだか心がモヤモヤした。
なんだ、この感情は。
スカイがついてくれれば更に安心して過ごせるはずだ。
そう思おうとしてもなかなか気持ちが晴れない。
心のどこかで、リリィは私のものだとさけぶ声がする。
「リリィ」
思わず呼びかけてしまった。
蝶から目を離し、こちらを向く。
「スノーは死んでない」
「ほんと?」
顔に花が咲くように笑い、それはもう嬉しそうに言う。
ああ、と肯定してやる。
「我々はあのくらいでは死なない」
スカイもうなずきながらそう言った。
「アスカ様の部下だからな、ほかの個体よりもさらに体が丈夫だ」
一般の人でも死なない程度の威力だったから安心しろ、と続ける。
その証拠にスノーがむくりと立ち上がった。
目は憎悪に燃えている。
「魔力を持った人間は生きていてはならない」
歯の隙間から息を吐きだすようにしながら呟いた。
壁の粉を体につけたまま、ダッと地面をけってこちらに向かってくる。
十分見切れる程のスピードだったが、ここまで速いのは初めて見た。
私たちにその爪と牙が届きそうになった時、スワッチが動いた。
がっしりとハグをする。
「大丈夫。大丈夫」
背中をさすりながらあやし始めた。
「もう誰も君に危害を加えないよ」
偉丈夫と獣人が抱き合ってるという不思議な光景が出来上がる。
こみあげてくる笑いをこらえて、落ち着くのを待つ。
ところがスワッチがチュッチュチュッチュと唇を鳴らし始めたので我慢が利かなくなった。
「ハハハハハ」
思いっきり笑い声をあげる。
こんなに愉快な気持ちにさせるなんて、ユーモアは私の負けかもしれない。
「ふふふ」
隣から可愛い笑い声が聞こえてきた。
見ると口に手を当てて笑いを我慢しようとしている。
その声にピクリとスノーが反応した。
「俺が怒ってるのはお前のせいだぞ」
よく響く低い声だった。
「ごめんなさい」
我に返ったようにリリィが笑顔を引っ込めた。
「謝ってすむとでも思ってるのか?」
そう言って一歩踏み出そうとしたスノーが、次の瞬間には地面にはいつくばっていた。
「!」
驚いたようにスワッチのほうを見る。
「そうやって衝動で動くから転ぶんだよ。スノーちゃん」
口角は上がっているが、目が笑っていない。
グッとしゃがみこんで、スノーの肩をつかむ。
「師匠がいるのに手を出そうとしたな。しかも止められたのに何度も」
スノーが瞬きをした。
「どれだけ人間が気に食わなくとも、師匠の話も聞かずに決定に逆らうな」
二度目はない、と凄みのある声で伝え、そのまま立ち上がらせる。
「スノーが落ち着いたみたいですし、説明していただいても?」
先ほどとは一転した明るい表情で尋ねてきた。
「ああ」
つい忘れてしまいそうになるが、スワッチにはこういう一面もあった。
「リリィ」
私の下にいたリリィが顔をあげた。
「部屋に行ってなさい」
「私に部屋があるの?」
「そうだ。素敵な部屋を用意してもらった」
屋敷に帰る前に頼んでおいたから、もう準備が整っているはずだ。
「レディ」
そう呼ぶと、奥の部屋から小柄な女性がでてきた。
「リリィ、こちらは家政婦のレディ。レディ、この子は娘になったリリィだ」
双方を紹介すると、二人が同時に頭を下げた。
レディが綺麗な栗色の瞳をゆっくり開いて笑いかける。
「初めまして。家政婦をさせていただいているレディです」
見ての通りリス族の出身ですとにっこり微笑んだ。
大きなしっぽとぴょこんと突き出た耳に瞳と同じ色の髪はリス族を象徴するものだ。
「私は魔力を持たないので変身ができません。だから慣れてくださると嬉しいです」
まるでそれ自体が恥だとでもいうように頭を下げる。
よくない癖だ。
この世界には半人、獣人の区別があり、顔や骨格は人間に近いが耳としっぽ(たまに手足)に
獣の特徴を残すものを半人、獣の特徴を強く残し、二足歩行している者を獣人と呼ぶ。
一般的に半人の方が数が多いが、性格を除いたあらゆる面で獣人のほうが秀でていた。
「レディの作るご飯はとてもおいしいんだぞ」
「本当?」
リリィが瞳を輝かせた。
美味しいものは、やはり好きなようだ。
「それに魔法なんかなくても驚くくらい綺麗にしてくれる」
「すごーい」
尊敬のまなざしを向けられたレディが照れたようにほほ笑む。
先ほどまでとは違う平和な空気が屋敷を満たす。
「んんっ」
空気の読めないスノーが咳ばらいをして先をせかした。
まったくこいつは昔からせっかちなんだから。
「レディ、リリィを連れて部屋に行っていてくれないか」
「かしこまりました。さっ、行きましょうか」
二人で手をつないでいると、まるで姉妹のように愛らしかった。
いつまでも眺めていられそうだ。
「あっ」
部屋に行きかけていたリリィが一旦手を離してこちらにかけて寄ってくる。
そのまま私の前を素通りして、スノーの前に立つ。
何をするつもりだろうか。
不思議に思いながら見ているとリリィが勢いよく頭を下げた。
「さっきはごめんなさい」
「…」
面食らったのかスノーは黙っている。
「スノー、その子が謝ってるよ」
スワッチが助け舟を出した。
「…」
「あの、許してもらえないかもしれないけど、本当に大変なことをしてしまったと
思ってます」
お怪我はありませんか、とリリィが尋ねても黙ったままだ。
見かねてスカイも口を開く。
「お嬢様が尋ねてるぞ」
「さっきも言ってたけどスカイのお嬢様ってなんかおもしろいよね」
スワッチがいじった。
「どういう意味だ?」
「いや、別に?」
明らかに何か思っていそうな表情で答えるもんだから、スカイが余計に気にしてしまう。
「人の発言に対して何か言っておいて別にとは何だ、別にとは!」
「きゃー、こわーい。師匠助けてー」
棒読みなセリフを言いながら、私の背に隠れる。
「簡単に頭を下げるな」
二人を黙らせようと口を開きかけた時、スノーがしゃべった。
「お前は人間なんだろう」
「!」
リリィがうつむきかけていた顔を上げる。
「獣人相手に視界を確保しないなんてアホのやることだ」
またひっかかれそうになったらどうやって身を守る気だ、と毒づく。
「じゃあ」
「許してやる」
小さな声だったがしっかりと言い切った。
「ありがとう」
その名にふさわしい美しい笑みを浮かべてスノーを見つめる。
「いいからさっさと行け」
そういわれたリリィはレディと手をつないで部屋に入っていった。
パタンとドアが閉じた音がすると早速スノーが自分の部屋に向かって歩き始めた。
そのあとをスカイ、スワッチが続いていく。
「師匠、何してるんですか?」
説明してもらわないと、とスワッチが私の背を押して部屋に押し込んだ。
スノーの部屋はほかの部屋よりも防音がしっかりしているので、わざわざ魔法をかける
必要がない。なお、なぜそういう作りなのかは本人の名誉のために伏せておく。
「まず、なにから聞きましょうか」
それぞれが席に座った後、スワッチが尋ねる。
「どこで拾ってなぜ娘として育てようと思ったのか」
スカイが不機嫌そうな顔をしてこちらを見る。
さっきまではあんなに温かい目で見ていたのに。
「用事が終わって、路地を通っていた時に…」
「ストップ」
スカイが手を挙げて止めた。
「何?」
「また人気のない道を通ったんですか?」
冷たい声でピシャリと指摘される。
しまった。
そう思ったときにはもう遅く、スカイのお説教が始まってしまう。
うっかり喋ってしまった自分を呪う。
しかし今日は本当にラッキーなことにスワッチがいた。
しー、といいながら、スカイの唇に人差し指をあてる。
「静かにして。まだ話が始まってもいないでしょ」
そんなスワッチのフォローに助けられながらようやく話し終えた。
「つまり、ただ珍しいから買って、せっかくだから娘にしようと思ったってことですか?」
スカイが額に手を当て、理解に苦しむというように言葉を絞り出した。
「うーん、自分でもよくわかんないんだよね」
「「はぁ?」」
スカイとスノーの声が重なる。
「アスカ様、そんなあいまいな状態で人を娘にするとかいうもんじゃないですよ。」
「しっかりとした愛情が芽生えたわけでもないのに、人間を連れてきたんですか。将軍!」
二人に一斉に非難され、それもそうだと思った。
スノーは人間を連れてきたことに怒っているが、スカイは娘にしたことに怒っている。
やはりリリィに愛情が芽生えているんじゃないのだろうか。
そんなことを思っている間にも二人のマシンガン非難は止まらない。
「とにかく俺は反対です。人間と一緒に住むなんてハゲちまいますよ」
スノーが頭を抱えてうつむいた。
「私も反対します。さっきみたいなトラブルを処理してまで娘にするメリットが見当たりません」
スカイまで反対意見だった。
「さっき二人ともあんなに優しかったじゃない」
急にどうしたというんだろうか。
「きちんと謝ってきたから返しただけで、将軍の娘になるなんて聞いていません!」
そういえばスノーには伝える前だった。
「私は、魔力を持った人間とは聞いていませんでした」
「じゃあ、泣きやませたのはどうして?」
「うるさかったからです」
腕を組んでそっぽを向きながら答える。
本当だろうか。笑うリリィを見つめている瞳は優しかった。
「それにアスカ様も娘にしたいと思った理由がないでしょう?」
「でもうちの子にするって言っちゃった」
「同情して家族になっていてはお互いに不幸になります」
同情ではない、はずだ。
ただ彼女と家族になりたいと思った。ただそれだけだ。
「さらに言えば彼女は、ここにいる誰よりも先に死にます。
残されてつらい思いをするのはアスカ様ですよ」
「んー、確かにそうだね」
スカイはいつも私の痛いところを的確についてくる。
でもたとえそうだとしても、私は…
「彼女と家族になりたい。それが私の今の考えだ」
この判断を後で後悔するかもしれない。
だが後でする後悔よりも、今この気持ちを無視するほうが嫌だった。
「つらい思いなら昔十分なほどしたさ」
そう言って微笑んだ顔があまりにも悲しそうで、スカイは息をのんだ。
こういう表情を今までにも一度だけ見たことがあった。
主人をこんな顔にする出来事がまた起こるのは防がなければいけない。
「それならなおのこと…」
「僕はいいと思う」
今まで黙っていたスワッチが口を開いた。
「師匠が自分の幸せのために決めたことなら、僕は賛成したい」
穏やかで落ち着いた声に皆が聞き入った。
「ただし、二つほど条件があります」
すらっとした指を二本伸ばしてスワッチがつづける。
「一つ、彼女にルールを設けてください。私たちの社会で生きていけるように」
「人前で魔力を使わないとかか?」
少し皮肉のこもった口調でスノーが言った。
「そういう感じ」
優しい口調で肯定して頭を撫でた。
そのあと少し間を空ける。
何か言いにくいことでもいう気なのだろうか。
「もう一つは?」
待ちきれなくて尋ねた。
待たされるのは、やはり苦手だ。
スワッチがゆっくりとまばたきをし、続きを口にした。
「あの娘よりも私達を大切にしてください」
ん?
一瞬冗談だと思って表情を伺ってみたが、まじめそのものだった。
「条件を呑んでくださいますね?」
「わかった。そうしよう」
力強くうなずいてみせる。
三人とは長い付き合いだ。
たった一人を除いて、生涯で一番長く一緒にいる、大切な仲間を
大切にすることなど別段難しいことではない。
しかしなんでそんなことを言ったのだろうか。
その時の私は、彼女が彼らを超える存在になるなんて思いもしていなかった。
解散した後、スカイは離れに、スノーは自室に戻っていった。
養女の部屋に行く師匠の後をついて歩きながら、スワッチはぼんやりと考え事をしていた。
師匠が望むならなんでも従う覚悟だが、今回の件はどうにも不安がぬぐえなかった。
大切にしすぎている。
それが自分の見立てだった。
スノーが暴れていた時、師匠は冷静ではなかった。
他の人にどう映っていたかは分からないが少なくとも自分はそう感じた。
それにあの態度。
スノーのことを気にかけるそぶりも、彼女を叱る様子もない。
彼女は…、師匠の大切な人になるには弱すぎる。
リリィが弱点になることを、スワッチは一番恐れていた。
私たちならいい。
十分戦う力を持っている。
だが彼女は、今のままでは確実にやられてしまう。
そのときに師匠まで失いたくはない。
「どうかしたか?」
前を歩いていた師匠が振り向いて尋ねる。
慌てて顔を上げ、笑顔をつくる。
この胸のうちを知られるわけにはいかない。
「ふふ、仲良くできるかなって心配になっちゃッて」
えへへへと付け足せば、笑って返してくれる。
「大丈夫じゃないか?子どもの扱いには慣れてるだろう」
「そうですね、仲良くしてもらえるように頑張ります」
今悩んでいてもしょうがない。
彼女が弱いのなら、鍛えればいい。
愛が傾きそうになったら引っ張ればいい。
そうすれば今までと同じように楽しく仲良く暮らせるだろう。
スワッチはそう思うことにした。
「リリィ、入るぞ」
ユニコーンが彫られた扉をノックして声をかける。
ドタドタという音がして、息を切らせたリリィが扉を開けた。
「あっ、お、じ様。す、てきな、お部屋を」
「息が整ってからしゃべりなさい」
聞き取れはするが、私が悪いことしているみたいで気分が悪い。
大人しく深呼吸を繰り返すリリィを見ていたら、スワッチが隣に立った。
「おじ様ってなんです?」
「…」
「お父さんでも、父上でもなくて。おじ様?」
明らかに頬のあたりに空気をためて、笑いを我慢しながら聞いてくる。
私より若いからって、馬鹿にしてるんだろうか。
私だってこの呼び名に納得しているわけではない。妥協してこうなったのだ。
よし、こいつにはもっと屈辱的な呼び方をつけてもらおう。
「リリィ」
「なあに、おじ様?」
きっとリリィに悪意はなかったのだろう。
だがスワッチにとどめを刺す結果になった。
ブハッとためていた息を放出する。
「あーはっはっはっはっは」
口を大きく開いて、のけぞるようにして笑う。
「あーダメだ。面白すぎる。お腹痛―い」
「リリィ、あいつをなんて呼ぼうか」
笑い続けるスワッチを見ながら、リリィに囁く。
できれば私よりも屈辱的な名前をつけてくれることを願う。
「まだお名前も知らないのに?」
「私には名前を聞いてくれなかったくせに」
自分でも驚くほどすねた口調になる。
実際拗ねてもいた。
「スカイさんがアスカ様って、呼んでたから知ってるよ?」
違う。そういう問題じゃない。
「さっき怒らせちゃった人はスノーさん。素敵な女性はレディさん。
じゃああの人はなんていう名前なの?」
きれいな瞳で問いかけてくる。
「…いい加減笑いを引っ込めろ」
スワッチに向かってぶっきらぼうに言い放つ。
なんだかものすごくむしゃくしゃする。
ぶすっとしている私の表情を見て、まずいと思ったのか
ゲラゲラと笑っていたスワッチが涙を拭きながら近づいてくる。
「こんにちはお嬢さん」
「こんにちは」
ぺこりとかわいらしく頭を下げる。
「僕はスワッチっていって、アスカ様の部下をやらせてもらってます。
クロヒョウの一族出身です★」
そういうとバチっとウィンクとポーズをきめた。
いや、それはないだろう。
そう思いながらリリィを見た。
「うわー、かっこいい!」
なぜそうなる?
まずい。このまま放っておくと仲良くなってしまう。
慌ててリリィを引き離し、後ろから抱きしめた。
ん?なぜ仲良くなったらいけないんだ?
スワッチが気に入るのはいいことだ。リリィの力になる。
じゃあなんでそんな風に思ったんだ。
「そんなに怖い顔してどうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
そう、何でもないはずだ。
自分に何度も言い聞かせながら夜はふけていった。