57. イェスタルア王国王太子妃
こんな緊張感を味わうのは、生まれて初めてではないだろうか。
これまでの人生、本当に様々な出来事があったけれど、……まさか、こんな日がやって来るなんて。
何度深呼吸しても、なんだか空気が深く肺に入っていかない感覚。指先は冷たいし、さっきから小さな震えが止まらない。
「疲れたか? リア。……こっちへ。俺にもたれかかるといい。もうすぐ降りられるはずだ」
馬車の中で向かい合って座っていたアヴァン殿下が、自分の隣をポンと手のひらで叩いて私を呼ぶ。
「だ、大丈夫です、殿下。そんなに疲れては……」
「いいから来い」
「……はい」
優しいけれど拒絶を許さない、アヴァン殿下のきっぱりとした物言いに、私は素直に従い隣に座ると、その肩にもたれた。
「お前は何も心配しなくていい、リア。連中がもし何か言ってくれば、俺が話をするだけだ。お前はただ黙って、俺のそばにいろ」
「……はい、殿下」
私の不安と緊張を察してくれているのだろう。殿下のぶっきらぼうだけど優しいその言葉に、心がじんわりと温かくなる。
私たちは今ナルレーヌ王国の地に降り立ち、王都へと向かっていた。晩餐会の来賓として、両陛下と共に会へ出席するためだ。私がかの国で王太子妃となっていることなど、誰も知らない。イェスタルア王国王太子妃となった者の名はセレリア・バーネットではなく、リア・ミラージェスだからだ。その名が伝わっていたとしても、誰も私だと気付くはずがない。
その夜は、王宮にほど近い離宮の一室に用意された部屋で休むこととなった。
ようやくアヴァン殿下と二人きり。護衛はドアの外だ。イェスタルアの二人の寝室にも劣らぬ大きなベッドの上で殿下の逞しい腕に抱かれてホッと息をつく。お忙しい身で一体いつ鍛えていらっしゃるのだろう…。スラリとした見た目にも関わらず、殿下は意外と筋肉質だ。
「眠れそうか、リア」
「……そう、ですね……。体は疲れてはいるのですが……。なんだか、目が冴えてしまっています」
「そうか。……俺もこのままではとても眠れそうにない」
「そうですか?」
「まぁ、お前とは別の意味で、だ」
「……?」
「お前が欲しい、リア」
「……っ!? でっ、殿下……っ!」
突然の言葉に、一瞬にして体が火照る。な、なぜわざわざ言葉にして仰るのですか……っ!?
「神経が張り詰めているようだし、疲れてもいるだろうからな。念のため、許可をとっている。……いいか?」
「……っ」
いいか、って、言われても……、な、何て答えれば……?
殿下はなんだか面白そうな表情をしている。私の反応を楽しんでいるのかしら。緊張しているこっちが恥ずかしい。
私は観念して、真っ赤な顔のままで殿下を見つめると、掠れる声で答えた。
「……お望みのままに……」
「……可愛いやつだ」
私の頭の下からするりと腕を抜き、殿下はゆっくりと上に覆い被さると、その熱い唇を私の唇に押し当てた──。
その後殿下のおかげでぐっすりと眠り、一夜明けた翌日。
夕方前から身支度などの準備が始まった。
侍女たちがてきぱきと着せていくその衣装は、今日の日のためにサディーさんたちかつてのオーナーや同僚が、自ら手がけてくれた素晴らしく美しいものだった。アヴァン殿下の瞳の色と同じ深い紫色を基調としたもので、殿下の衣装とは細かな刺繍の柄がお揃いになっている。こちらももちろん、サディーさんたちの作ってくれたものだ。
結婚前に一度ナルレーヌ王国に渡り、護衛たちをぞろぞろと連れ、王太子妃となることを報告しに店舗まで行った。その時はラモンさんをはじめ、文字通り全員が腰を抜かした。そして気を取り直した後、サディーさんやイブティさん、ヤスミンさんはわんわんと声を上げて泣いたのだった。
「あ、あんた……、リアちゃん……、いや、あんたなんて、言ったら、もう、し、処刑される……」
「しませんよ……。されるはずないじゃないですか、サディーさん」
「よかった……よかったねぇ、あんた……。苦労してきた甲斐があったじゃないか……。あ、あたしゃほんとに……、うぅぅ……」
「うわぁぁぁん!! おめでとうリアさん!! おめでとう!!」
「ひぃぃぃん!わ、わすれないでね、あ、あだじだぢの……ごどっ……」
「……絶対に忘れません。忘れるはずがないじゃないですか。皆さんは私の……誰よりも大切な仲間ですもの。戦友ですもの……。感謝しています、心から……」
私も一緒になって涙を流しながら抱き合った。その様子を、ラモンさんも涙ぐみながら見守ってくれていた。
そんな彼らの店も、今では王家御用達の上流階級憧れのブランドだ。だけど高価な社交服ばかりではなく、平民たちが買えるような普通の服ももちろんたくさん売っている。でもまさか、店の規模がここまで大きくなる日が来るなんて。積極的にサディーさんたちの衣装を買い取っては公の場で身に付けてくれていた殿下や王妃陛下には、感謝してもしきれない。
「イヤリングは、あれを……」
「はい。心得てございますリア様」
気心の知れた侍女はにっこり微笑むと、三日月のイヤリングを持ってきてくれた。私の宝物。アヴァン殿下からの、初めての贈り物。今日のドレスには、他のどの宝石よりも似合うだろう。
「支度はできたかリア。……綺麗だ」
「あ、ありがとうございます、殿下……」
(殿下こそ、最高に素敵です……)
紫色を基調とした衣装は、やはり他の誰よりも似合っている。めまいがするほど格好良い。殿下はこうしていつも、私の身支度ができているかとか、私が勉強中も根を詰めすぎていないかとか、とにかく執務の合間にしょっちゅう様子を見に来てくれる。だから侍女たちの間では、殿下の私への溺愛がすさまじいと話題になっているらしい。
「では行くか。……そんなに緊張することはない。誰が何と言おうと、お前は俺の唯一の妻であり、イェスタルア王国王太子妃だ。堂々として、その美しさを見せつけてやればいい」
「……ふふ。……かしこまりました、殿下」
頼り甲斐のある優しい言葉に、ほんの少し気持ちが和らぐ。……さぁ、行かなくては。彼らの前に姿を現す時が来た。
(行ってくるわね、フランシス)




