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36. 別れと約束

 出国の準備は着々と進んでいく。

 ラモンさんとサディーさんは、イェスタルア国内の各店舗を当面の間信頼して任せられる人材を充分に確保し、ナルレーヌ王国へ持ち込む荷物をまとめていた。

 もういい加減言わなくては。あれから何度かお会いする機会があったのに、結局言い出せないまま今日まで来てしまった。


(たぶん、今日があのお方との最後の逢瀬になる……)


 先ほどまた使者が来て、アヴァン殿下がお呼びだと伝えてくれた。私は鏡の前で自分の顔を見つめ、心の中で呟いた。


(落ち着いて、冷静に。もう殿下の前で泣いたりしてはダメ。これまで殿下が与えてくださった素敵な時間に、きちんと感謝の気持ちを伝えなくては)


 その誓いとは裏腹に、今にも泣き出しそうな情けない顔をした自分がそこにはいた。その顔から目をそむけ、引き出しからそっと取り出した三日月のイヤリングを耳に飾る。




「リア。来たか」

「……はい、アヴァン殿下」

「待っていた。……こちらへ来い」


 殿下の私室を訪れた私の顔を見るなり優しく微笑むと、アヴァン殿下は言葉少なに、私をそばに呼び寄せた。

 この方は、いつも言葉少なだった。きつく見えるほど凜とした見た目の印象とは真逆に、物静かで穏やかなその低い声は、私に安らぎをもたらした。

 私のことを知ろうとし、ありのままの私をその大きな器で受け止めてくださった。

 深く煌めく紫色の瞳は、いつも真摯に私だけを見つめてくださっていた。

 私がそばへ歩み寄るのを、穏やかな眼差しで包み込むように見つめている殿下。目の前に立つと、満足そうに私の頬に手を添え、指先で撫でる。温かな手。長い指。甘く妖艶な香り。……この方の何もかもを、私は愛したのだ。いつの間にか。


「……お伝えするのが、遅くなってしまいました。……本日はアヴァン殿下に、お別れを言いに来たのです」

「……何の話だ? リア」


 慈しむように私の頬を滑っていた殿下の指の動きが、ピタリと止まる。声が、喉が、胸が震える。


「……こんなに直前まで、黙っていてごめんなさい、殿下。何度も、言おうとしたのですが……どうしても、言い出せなくて。……私、ナルレーヌへ戻ります」

「…………理由は」


 しばしの沈黙の後、あくまで穏やかな声が頭上から静かに響く。私はお腹に力を入れて息を吸うと、涙が零れる前に一息に言った。


「……ナルレーヌ王国に、お店を出店することになったのです。そのお手伝いに行くことになりました。私の出身国ですので、お役に立てることもたくさんありますし。店のオーナーたちに、頼っていただいていて……」

「お前は、それでいいのか?」

「……っ」


 いいのか、と問われれば、ただ素直にええ、いいですとは答えられない。だって私の心はこんなにも、アヴァン殿下との別れを悲しんでいる。

 だけど、私の母国でラモンさんたちの仕事を手伝いたいという気持ちも本当だし、何よりこのままここにいても、殿下との別れはいずれやって来るのだから。


「……わ、私は、……私には、この大切な時にお店の皆と離れてここに残る選択肢は、ありません。ナルレーヌでの商売なら、私はきっと大きく役に立つはずですし、オーナーたちも私を頼りにしてくれています。今皆と離れることはできません。向こうでの商売が軌道に乗るまで、一緒に頑張りたいのです。……だから……」

「……そうか。……分かった」

「……」


 アヴァン殿下の声は、ずっと静かで穏やかなままだった。動揺することも、激昂することも、私を責め立てることもない。まるでいつもの会話のように、でもいつもよりはずっと小さな声で、殿下は私の言葉を受け入れた。

 自分から告げたことなのに、その返事を聞いた私は、胸に刺すような痛みを覚える。俯いたまま唇をギュッと噛んだ。涙が零れ落ちないように必死だった。


「それで?」

「……え?」


 殿下の言葉に、私の体がピクリと反応する。


「帰国はいつ頃になる予定なのだ? ……まぁ、まだ分からないか。行ってみなくてはな」

「……で、殿下……?」


 言葉の真意が分からず、私はおそるおそる殿下のお顔を見上げる。

 き、帰国、って……? イェスタルア王国へ、私がもう一度帰ってくるっていう意味……?

 ……まさか、殿下……。

 それを、待っていてくださると……?

 私の問いかけを読み取ったように、アヴァン殿下は優しい瞳で私を見つめたまま言った。


「もちろん帰ってくるのだろう? 俺のもとへ。向こうでの商売が軌道に乗るのを見届けたら。……俺はそれを待つぞ、リア。お前が俺のもとへ帰ってくるのを。……分かったか」

「……っ!」


 殿下のその言葉を聞いた途端、涙が溢れ出し、私の頬を流れ落ちた。切なさと喜びが胸を満たし、何を考える間もなく私は何度も頷いていた。


「はい……はい……っ! 必ず、戻って、まいります……っ、あ……、あなた様のもとへ……!」


 その瞬間。

 強い力で引き寄せられた私の体は、殿下の両腕の中にすっぽりと収まり、苦しいほどにきつく抱きしめられた。確かなものを求めて、私は涙に濡れた顔を上げる。目の前にあったのは、切なく揺れる殿下の美しい瞳。情熱的に押し付けられた唇の熱に、私も懸命に応えた。

 何度も角度を変え、深い口づけを交わす。ようやく唇が離れた時、掠れた声で殿下が囁いた。


「……愛している、リア。いいか、今回だけだ。やり遂げたいというお前の意志と自由を奪いたくないから、今回はお前の選択を受け入れる。……だが、戻ってきたらもう二度と、俺はお前を離さない。覚悟しておいてくれ」

「……はい……っ。はい、殿下……っ。か、必ず……っ」


 もう一度、深く塞がれた唇。甘い束縛のようなその言葉の意味は、それがもうどんなものでも構わなかった。殿下が私を求め、私の帰国を待っていてくださる。それだけで充分だった。

 戻ってきたら、私を愛妾にしようとなさっているのだろうか。この、平民の私を……? それともいつの日か、殿下が私に飽きてしまったら、今度こそ本当にさよならなのだろうか。


(でも、それでもいい。殿下が私を求めてくださっていて、私も心の底からこの方をお慕いしている。たとえどんな結末を迎えることになったとしても、許される限りこの方のおそばにいたい……。だから、どうか待っていてください、殿下……)


 やがて別れが来た後は、孤独に苦しみながら一人で生きていくことになったとしても。

 それでも私は、この方との出会いに生涯心から感謝するのだろう。


 私は殿下の腕の中で、束の間の別れを惜しんだ。

 その甘い香りを、記憶の中に刻み込むように。






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