29. 波風立てず、楽な方へ(※sideダニエル)
「いってらっしゃい、あなた。お気を付けてね」
「ああ、行ってくるよ、ロクサーヌ」
玄関先まで見送りに来てくれた妻に微笑みかけると、僕は王宮へ向かうためバーネットの屋敷を後にした。
馬車の中で深く息を吐く。ようやく家族から離れられた。一人の時間が一番好きだ。
(やれやれ。どうにか順風満帆な日々が戻ってきたな。ロクサーヌも母と上手いことやっていってくれている。母のお眼鏡にようやく適ったあいつとの縁談が破談になりそうになった時には、随分焦ったものだが)
自分と同じピンクブロンドのような華やかな容姿の美女であることが、僕の結婚相手としての最重要条件の一つだと言っていた母は、神秘的なパープルグレーの髪色を持ち整った顔立ちをしたロクサーヌのことを、それなりに気に入っていた。バーネット公爵家の跡継ぎを産む女性である以上、美貌は絶対に外せない条件だわ、と幼い頃から口酸っぱく聞かされていた。
そのロクサーヌの実家であるマリガン侯爵家から、突然婚姻の延期を申し出られた時、すでにフランシスの件で精神不安定だった母は怒り狂った。
屋敷の居心地は悪くなる一方で、僕は家に帰るのが日に日に嫌になっていった。学園を卒業以来、ジャレット王太子殿下のそば近くで仕えていたが、フランシスの死の一件以来配置換えされてしまい、王太子殿下の側近ではなくなった。成績優秀な僕が剣技だけが唯一苦手なことを知っているはずなのに、殿下は僕を騎士団に入れたのだ。おかげで見習い扱いで大した仕事ももらえない。書類仕事がメインの、いわゆる窓際族だ。それでも騎士団に所属しているというのはステータスであることには違いない。
(……まぁ、何でもいいんだけど。殿下もあの姉妹の兄である僕の顔なんか、見たくもないのだろう。あまりにも居心地が悪くなれば、辞めてしまってバーネット公爵領の仕事に専念すればいいんだ。今は騎士団の一員として勤めながら、父の領地での仕事を完璧に覚えていくしかない。それまでの繋ぎの仕事だ)
あの子は悪くないのだと分かっていながらも、正直迷惑だし鬱陶しかった。あの子があんなにも平凡な容姿に生まれてきたことで、母が躍起になって俺とフランシスを自分の理想通りに、完璧に育てようとしてきた。大体において期待に応えることができていたと思うが、あいつがいる時の居間のぴりついた雰囲気、嫌味でネチネチとした母の態度、社交の場で皆があの子を見る時の何とも言えない気まずい空気、すべてが億劫でならなかった。
家族といると、昔から息が詰まる。
ロクサーヌのことも、別に僕は特別な感情など一切持っていなかった。正直今でもそうだ。ただ上手くやっていく必要があることは痛感している。何か問題を起こしてあのロクサーヌと離縁などするようなことにでもなれば、母がまた発狂してしまう。フランシスが亡くなった時のように。あんな地獄のような日々はもう二度とごめんだ。
フランシスの死の真相は解明されぬまま、ジャレット殿下の言葉を皮切りに、誰もがセレリアを“呪われた公爵令嬢”と呼び、恐れるようになっていた。そして我がバーネット公爵家のドレスや社交服の販売をはじめとする様々な商売に陰りが見えはじめ、母はますます精神不安定になり、父も暗い顔をして溜息ばかりつくようになった。できるだけ屋敷にいたくなかった僕だが、騎士団の詰所も居心地が悪いし、もう毎日が憂鬱でならなかった。
僕には分かる。セレリアはフランシスを殺してなどいない。
あの子は目立たないし平凡だけど、賢くて、優しい心の持ち主だった。フランシスのことをとても可愛がっていたことも知っている。その上フランシスが死んだ時、彼女は屋敷にいなかったのだ。殺せるはずがない。呪いなどという非科学的なものも、僕は到底信じられない。むしろなぜ皆して呪いだ呪いだとくだらないことで騒げるのだろうか。いい大人たちが、教養ある人間たちが。理解に苦しむ。
(……まぁ、でももういい。そんなことはどうでも)
セレリアは屋敷を出、行方が知れなくなった。失踪当初こそ社交界では騒がれたようだし、僕も何人もの人から上辺だけ気遣うような声をかけられた。だがそんなものはほんの一時のこと。足の引っ張り合いの醜い貴族社会は、誰かの新たなスキャンダルが出るたびに皆してそっちに飛びついていく。セレリアとフランシスのことも、あっという間に皆から忘れ去られていった。
そうして徐々に家業の商売ももとの勢いを取り戻し、マリガン侯爵家の娘であるロクサーヌと僕も、無事に婚姻関係を結ぶことができた。
(これでよかったんだ。平穏が一番)
とにもかくにも、波風立てずに平穏に生きていければいい。それが一番楽なのだから。
セレリアが今どこでどうしているのか、全く気にならないといえば嘘になる。けれど、母の手前元々あの子とは仲良くしていたわけでもない。両親が気に入っていない子であることは子どもの頃から察していたから、僕も当たらず障らずで過ごしてきたのだ。だから特別な思い入れもない。
きっとどこかで新しい自分の生き方を見つけて、平穏に過ごしているさ。あの子にとっても、むしろバーネット公爵家の娘であることは辛いことだったはずだ。失踪以来噂にも聞かないぐらいだから、そうだな、どこかの庶民の男とでもくっついて、片田舎の平民街で静かに暮らしているんだろう。うん。
これでよかったんだ。




