婚約者としての日々
あの日から、私は打合せ外でも殿下の執務室に入り浸るようになった。彼の執務室には私のためにくつろげるソファーが用意された。片肘で横に長い、カウチソファーだ。私はそこに腰掛け、執務に励む殿下を横目に王家所蔵の歴史書を読んでいる。一応名目は『婚約者間交流と勉学』だ。たまに採寸や試着で呼ばれることもある。ここにいると便利だ。
はじめは令嬢らしく振る舞っていたが、どんどん鍍金が剥がれてきた。もう人払いはされていないが、殿下の「ここに出入りする者は信頼していい」という言葉を丸呑みすることにしている。今はまだ、肘掛けに寄りかかる程度だ。まだギリギリ足はあげてない。
ここはすごい。喉が渇いたな、と視線を上げればすかさずお茶が出てくるし、口寂しいな、と視線を動かせば軽い食べ物が振る舞われる。ピックやスプーンディッシュで用意される、一口で食べられて手も汚さないものだ。
大変良い。良すぎてまずい。そのうちカウチソファーにごろ寝しながら本読み始めそう。本当にまずいね。
まあこの危機感はそう長く保たないだろうな……と自覚しながら、私は歴史書のページを捲った。
元々本を読むのは好きだが、このお勉強はとても楽しい。貴族子女であれば歴代様のお名前と功績を知っていて当然だ。だってお茶会でぜったい話題になるもん。どなたの劇や本が好きかで会話に入るの、鉄板なんだもん。そんな元から知っている方々の裏話が今読んでいる本には記載されているのだ。王家所蔵だからだろうな。気になる点は質問を飛ばせば殿下から明瞭簡潔な返事が返ってくる。めっちゃ面白い。
来客が告げられる。やって来たのはバスティアンだった。彼は殿下と2、3連絡事項を話し合い、こちらを振り返った。
「……なんて格好をしているのよ」
「とても寛いでいる……テーマはそう、『気怠げな貴婦人』」
「気怠げとだらしないは違うのよ。気怠げというならほら腰を捻って上半身をこちらに向けて、一度足を揃えて右足を前に。もっとよ。肘掛けには触れる程度で」
ポーズの監修を受けた。言われるがままに体勢を整える。
「オ……ッこれめちゃめちゃしんどい。腹筋と足つりそう」
「それが気怠げよ」
「まじか……気怠げめっちゃ筋力いるじゃん……」
戯れる私達を見て、殿下は口元を押さえ肩を震わせている。
「――以前も思ったけれど、あなたがそんなに屈託なく笑うなんて珍しいわね、フェリクス」
「カナンといると、日々新鮮だよ」
「仲が良くて何よりだわ。では、またね」
彼は颯爽と去っていった。扉が閉まるなり体勢を崩しソファーに沈み込む。気怠げめっちゃしんどいわ。
殿下はそんな私に、くつくつと笑い声を漏らした。
「……殿下がそうやって笑うの珍しいの?」
「ふふっそうだね、こうして声に出して笑うことはあまりないよ」
「笑い上戸かと思ってた」
「そうか、あなたにはそう思われていたのだね」
殿下は嬉しそうに微笑み言葉を続ける。
「私が不機嫌に接すると、恐怖心を与えてしまうだろう。だから日々穏やかに振る舞うよう心がけているが、その分感情的になることがあまりない」
なるほどなあ。確かに、権力も財力も武力も極まった人が不機嫌だと怖いよなあ。
「殿下は大変だね」
「あなたも人前で正しく振る舞おうと努力しているだろう? 多かれ少なかれ、皆がしている努力だよ」
「正しくなあ……流石にまずいからなあ…………でも私、実は令嬢顔3パターンしかないんだよね」
「3パターン?」
殿下はキョトンとした顔で聞き返してきた。
「そー。基本の曖昧な笑顔と、恥ずかしげな笑顔と、憂いげな顔。これあったら大体ごまかせるんだよ」
「真顔はいいの?」
「真顔かあー。私なんか真顔へんになる」
私は真顔をしてみせた。殿下はそれをじっくりと見た後、ひとつ頷く。
「見覚えがある。北の聖域を訪ねる途中で、そういう顔をした狐をみたよ」
「まじかー」
狐かあー。こんな顔したキツネいるのかあー。いや世界は広いね。
「そうだ、頭の花飾り、私1個買えないかな?」
「あなたのために用意するものだけど、どうかしたの?」
「私のよりもずっと小振りなのを、マリーちゃんに贈りたいんだよね」
「ああ、そう使うことにしたのか」
頭の良い人たちはこれだけで伝わるらしい。すごいね。マリーちゃんが言うには、新しいドレスのデザインに寄せるのはやり過ぎなのだそうだ。むしろ色やデザインが被らないよう気を配るべきなんだって。情報自体に価値があるらしいので、お茶会で上手く使ってくれているだろう。
ただ、比類なき親愛の証に、私からマリーアンヌに髪飾りを贈ることは大きなアドバンテージになるらしい。今までにない髪飾りだから尚更だそうだ。後の問題は、私がお支払いできるか否かである。
「王太子妃の予算から支払うよう取り計らおう。婚姻が成立してからの支払いだが、それくらいは待たせられる。丁度良い大きさのものを手配しておくよ」
「…………殿下すごいね」
皆まで言うな、である。察し力がつよい。いやあ、我が国は安泰だね。私の未来も安泰だ。間違いない。
「私頼むばっかだけど、ありがとう。よろしくね」
「あなたのためなら手間を惜しまないよ」
殿下はふんわりと微笑む。その笑顔に私は、深い安堵感を覚えた。
チベットスナギツネェ









