魔王の復活と呪われし勇者
この世の中心である大国、ルヴィエラ聖王国の王太子帰国を祝う宮廷舞踏会。この世の荘厳さをかたちにしたような美しき大広間。きらびやかに着飾った人々の中央に、異形の怪物が現れた。
いや、最初に現れたのは異形ではなく、しかしそれは確かに怪物だった。聖王国の成り立ち、昔々で語り継がれる初代国王に封じられし魔王。それが封印を破りこの大広間に現れたのだ。そして異形の怪物が現れた。我が国の、王太子だったはずの怪物が。
「呪った、呪ったぞ忌々しき勇者めその末裔め!!」
魔王は地の底から湧き上がるような笑い声をあげながら勝ち誇ったかのように叫んだ。
「制約、制約制約制約がいるな、まだ!!」
魔王は楽しげに嘲り笑うように言葉を続ける。それはねちょりと音を立てそうな不快な湿度をもっていた。
「清らかな乙女の口付けにしよう。お前のその姿を見て口付けられる乙女がいるならば、お前たちが歌い上げる『真実の愛』が真にあるならば、まだ呪いは解けるだろうよニンゲン」
しんと静まり返った大広間にクツクツと魔王の笑い声が響く。
「我が力を取り戻す程にその呪いは強まりお前を蝕む。お前の身を、生命を、精神を――乙女を得るなど間に合うまい。ざまあみろだ忌々しき勇者めその末裔め、そこに這いつくばり世界が沈むのを見ているがいい」
そう言い残し魔王は闇に溶けて消えていった。
魔王が放つ重圧からピクリとも動かなかった体が自由を取り戻し、そして私は――――
いや、今ならはちゃめちゃにお得では?
と思った。
私は貴族子女とはいえ末端、王太子殿下の人となりを直接には存じ上げない。しかし、存分に聞き及んでいることはある。それはすべて殿下を誇り讃えるものだ。「あの御方がいれば安泰だ」と。
殿下の功績も華々しいものだ。それが本当にそうなのか、そういうことになっているのかまではわからないが、私も、国民も、皆彼ならばと信じている。
強く麗しく、慈悲深き我らが次期国王よ王太子殿下よ、と。
彼を失うことで起こる混乱と損害は計り知れない。魔王が復活してしまって、私たちは希望を失い、そして――その先は考えることさえ許容できなかった。
それが今なら。今なら、ちゅってするだけで取り返しがつくのだ。それだけで私たちは彼の方を取り戻し……そして私は、『殿下をお救いした清らかな乙女』という立場を得られる。
――いや、いってこいでは?
私は胸に手を当て目を閉じ、自分が『清らかな乙女』であるかを考えた。問題は何をもって清らかな乙女とするかだが、身体的なものであれば、私にはまだ婚約者もおらず、口付けどころかまともに異性の手にさえ触れたことがない。
間違いない、これは清らか……!(確信)
私はカッと目を開き、未だ静まり返る大広間を歩き始めた。
気を失い倒れ伏した人、それを抱きかかえ凍りついたかのように動きをとめた人、ひゅうという悲鳴の前兆を後ろにし王太子殿下の前まで歩み出る。殿下は、ぽっかりと空いた人々の中心で地に手を突き、ぴかぴかに磨き上げられた床に映る自身を見つめていた。
これはきもちわるい。
私は目の前にした殿下をまじまじと見つめた。
顎が、無理やり引き伸ばされたように鼻下から前に飛び出していた。それが動物的ならまだよかっただろうに、つられて引っ張られ歪んだ鼻が人間的なのがいっそう嫌悪感をつのらせた。美しい金髪は濁り、頭部の肥大化のせいかまばらになり枯れ草のようにがさがさと長く垂れている。
私はきもちわるいものから目が離せないたちだ。きもちわるいから目をそらせず、何がそんなにきもちわるいのか観察してしまう性分だ。
なるほどこれは怖気立つと私は頷いた。
背中はぼこぼこと大きく膨れ上がりきらびやかな衣装は無惨に引き裂かれていた。腕は曲がってはいけない方向にねじまがり、手には長く前に伸びた3本の指と、反対側に短く飛び出た1本の指が生えている。爪は黒くひび割れていた。
肥大化した上半身に反し、下半身は矮小化していた。ずんぐりとした太ももから下は枝のように細くなっているらしく、だぶついたズボンの中で泳いでいた。脱げた靴とズボンの裾の間には蹄のようなものが覗いている。それは手入れされず伸びるままにされた牛のものによく似ていた。
これ立ち上がれないんじゃないかな……
私は殿下の前に両ひざをつき、その顎に両手を添えた。
触れた肌が、絵本の挿絵にある怪物のように黒色をしていればまだよかった。それはぶつけたように、殴られたように、黒く青く黄色く赤くまだらに染まった肉の色をしていた。
上げられた目は左右にずれ、私の手より大きく丸く、少し飛び出しているようで、どこか魚類を連想させた。
淀んだ水底から虚くこちらを見つめ、帰れぬところまで引きずり込まれるような、不安を掻き立てる目だ。
唇とよべるものは残っていなかった。上顎と下顎は癒着したように繋がり、殿下が口を開けようとすると糸を引くように肉が伸びぶちぶちと音をたて引きちぎれた。引き伸ばされちぎれた肉の糸はまた繋がろうとうぞりと蠢く。
肉の糸の隙間からはみっしりと臼歯が覗いた。牙なら、まだ納得できたかもしれない。みっしりと生えた大きな臼歯はすり潰されるさまを想像させ、なおさらおぞましかった。
「失礼いたします、殿下」
殿下の下顎をそっと上に押し上げる。このままだとでっけえ口に顔を突っ込む感じになるので。私は顎の手触りに鶏肉を思い出した。生の鶏肉を。
私の手に促されるまま口を閉じた殿下と視線がからみ合う。殿下の目に真剣な顔をした私が映った。
――離宮、そう離宮なんていいと思う。
魔王と世界がどうなるかは私にはよくわからないが、この方さえ取り戻せばどうにかしてくれると私は無条件に、無責任に信じてしまっている。旅を終えた我が国の王太子殿下――――勇者なら。
この方の愛も、地位も望まない。
だから、離宮なんていいと思う。
私は基本やる気がない。周囲からの評価はおよそすべて同じだ。『やればできるこ』だ。
だから、一生に一度のこの大一番でやればできることをしよう。そしてこの先『やればできたこ』として生きていく。
けして誰も無視できぬ功績をもってこの豊かな国によりかかってぶらさがって生きていく。
豪遊も散財も興味はない。王家の離宮のすみで、3食とおやつと昼寝つきで王家の蔵書とか読んでだらっと生きていきたい。
確かに今の王太子殿下はめちゃめちゃきもちわるいけど、目を閉じてちゅっとして目を開けばあのご尊顔だ。いやぜんぜんいけるでしょ。
私の大切なものはすべてこの国にある。私は不安も争いもなくのんべんだらりと生きたいのだ。だから――
私は目を閉じて殿下に口付けた。
「ありがとう、この恩に必ず報いる」
目を開ければ麗しき王太子殿下がいた。
「よかった……」
私はへらりと笑って床に座り込んだ。いやほんと、『精神的に清らかな乙女』とか『必須条件:愛』とか言われなくてよかったね。
魔王出現から、10分強の出来事だった。
「聖剣よ!!」
殿下はぼろぼろに上半身にまとわり付く衣服を破り捨てながらぐっと立ち上がり、手を横に開き険しい声をあげる。飾り立てられていた聖剣が人の合間を縫って飛来し、殿下の手に握られた。その柄からギジィ……と音が立つ。そっと見上げた殿下の顔は、憤怒に燃えていた。
ヒエッ……ブチギレなんよ……いや座り込んでてよかったね、腰抜かすわこんなの……
殿下はカツカツと足音を響かせながら足早にバルコニーへ向かっていく。
「ミッチェル! その上着を寄越せ!!」
「へあっはっはい!!」
バルコニー前に立っていた騎士が弾けるように飛び上がり、あたふたと上着を脱いで殿下に手渡す。殿下は受け取った上着をばさりと羽織ってバルコニーから夜空に消えていった。
大広間はまだ静寂に包まれている。皆悲鳴を上げるタイミングも歓声を上げて殿下を見送るタイミングも逃して状況に取り残されてしまった。お……おぉう……? という誰かの困惑の声が大広間に反響する。
「み……っ」
国王陛下が王座から立ち上がり声を張り上げた。
「皆、静粛に!!」
しん……と静まり返った大広間に陛下の通りの良い声が響き渡る。ずっと静かなんだけど、いやわかるよ、陛下もこの状況になんて言ったらいいかわかんなくなっちゃうよね……
「不幸にも魔王が封印を破ったが、清らかな乙女の重恩により我が息子は元の姿を取り戻した! もはや魔王など恐るるに足らず! 真なる勇者として必ずや魔王を……あっ」
陛下の奮起を促す声の途中でバルコニーの向こうの空がこうと光った。
「……ウンっ! 安心せよ! すでに脅威は去った! 状況が落ち着き次第追って沙汰するので散会! 本日は散会とする!!」
展開が早すぎるのよ……誰もついていけてないのよ……
皆どこか呆然としたまま騎士に誘導されて大広間を去っていく。たまに王太子殿下ばんざーい……? という声が上げられた。疑問形だよね。
私も騎士の手を借り立ち上がる。誘導される際に「後日お迎えにあがりますので」と名前と宿泊先を聞かれた。
「アッはい、カナン・ド・モレと申します。モレ子爵家の。メルクール侯爵家のタウンハウスに滞在しています」
剥がれ落ちかけた令嬢の仮面をギリギリ押さえて騎士に答える。自分も一因なんだけど、いやほんと処理が追いつかないね……