陛下はその名を置いて来た
「ハンフリート陛下、ですよね?」
何度問いかけても無言の笑顔を返し続けるハンフリート陛下を、いつまでも塔の入り口に立たせているわけにもいかず、然りとて我が家には賓客室はおろか応接室すらないので、仕方なく厨房へとお通しする。
普段厨房はほとんど使用していないため、塔の中でも比較的整頓されているし、そのうえ一応卓と椅子が揃っているから座って話ができる。
私の中では最善手だったが、手狭すぎる厨房に足を踏み入れたハンフリート陛下はほんの少し目を見開いた。
私の呼び掛けには微動だにしなかった笑みもほんの少し強張ったを見て、またもや不敬の気配を感じたが、ここしかないのだから仕方がない。
お茶でもお出しした方がいいのか、いつから使っていないか分からないような炊事場で果たしてお茶の用意などできるのか、そもそもここに茶葉や茶器は装備されているのか。
お客様を持て成すことなど、塔でも他の場所でも初めてなので勝手が全く分からない。
さてどうしようかと考えて、とりあえず部屋の奥側の椅子を引いてみる。見るからに頑丈そうな作りのそれは当然自力で動かせるようなものではなく、少しばかり風の力で浮かせて後ろへ滑らせる。
「ハンフリート陛下、こんなところで申し訳ございませんが、お掛けになりませんか?」
音もなく座りやすい位置まで動いた椅子へ座って頂こうと促せば、なぜか笑みを深めるハンフリート陛下。
その何やらお気に召さないご様子の笑みに身の危険を感じて、距離を取ろうとしたところを長い腕に華麗に掬い上げられ、着席させられる。
私がハンフリート陛下のために引いた椅子に、私を座らせてどうしようというのだ。
つい胡乱な目で見上げると、危うい笑みを爽やかなものに変えたハンフリート陛下が、いい姿勢を保ったまま跪く。
「その名はあちらに置いて来ましたので、以後私のことはフリートとお呼びください」
「置いて来ましたって、いやいやいやいや」
何を言っているのか分からない。
あちら、と恐らく王宮があるであろう方向に揃えた指先を向けられているけれど、意味不明である。
名前って持ち運ぶものだっけ?そんなほいほい置き来たりできるものだっけ?とあまりのことに、とぼけた疑問が浮かんでは消えていく。
確かに家名ならば挿げ替えたり置いてきたりもできようが、ハンフリートという名は王族のみが継承できる由緒正しき個人名だ。
それを置いて来た、とは。
すなわち、王族からの離脱を意味する。
そしてそれが、国王陛下ともなれば。
王位の放棄をも、意味する。
なんということだ。
あまりのことに脱力して倒れそうになるが、椅子に掛けていたおかげで背もたれに体を預けるに留まる。
まさかこうなると分かっていて、私を座らせた?