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Fight29:殺し屋

 最上階の扉を開けると、そこにはこれまでとは違う光景が待っていた。といっても内装は殆ど同じ、コンクリート張りの殺風景な内装だ。しかし壁一面に大きなスクリーンがあり、そこには倒れたオチルバトの姿が映っていた。


 そして今までの階では番人が1人待ち構えていただけだが、この最上階では2人(・・)の人間がマーカスを待っていた。


「マーカスッ!!」


「……! リディア、無事か!?」


 フロアの奥の方に一段高くなったスペースがあり、その段上にリディアがいた。船でグラシアンに見せられた時と同じ状態で、両手両足を大きく広げられた形で四肢を鎖に繋がれて立たされていた。ゲームの時の露出度の高い戦闘衣装のままなのが余計に被虐感を醸し出していた。


 マーカスの姿を見たリディアは泣きそうに顔を歪めながら身体をもがかせるが、その四肢を拘束する鎖は外れる気配もなく無情に音を鳴らすだけだ。マーカスとしては今すぐにでも彼女の元に駆けつけてその拘束を解放したい所であったが、生憎それを阻むように立ち塞がる存在がいた。



「まずは見事と言っておこう。だが残念ながらお前の奮闘はグラシアン様や他の会員達を喜ばせるだけだ」



「……!」


 乾いた拍手の音を立てながら2人の間に割り込むのは……ナンバー『4』の参加選手、ロシア人のオレグ・チャイコフスキーだ。こいつが『最後の番人』という訳だ。


「グラシアン、()、だと? 貴様はまさか……」


 他の選手のように報酬や『特権』に釣られて番人を引き受けただけなら、そんな敬称は付けないはずだ。果たしてオレグはあっさりと肯定した。


「いかにも。私はグラシアン様専属の殺し屋(・・・・・・)だ。何故その私が参加選手の一人と偽って出場していたか分かるか?」


「……グラシアンは最初から誰にも『優勝賞金』を払う気などないという事か」


 マーカスは低く唸った。それしか考えられない。オレグは再び首肯した。


「その通り。グラシアン様も会員達も闇格闘家の殺人ショーさえ楽しめればそれで良いのだ。普段のゲームでの会員達の賭けも、誰が最終的に私の元まで……即ち『決勝』まで行きつけるかを賭けるもので、『優勝』は最初から私に決まっているのだ」


「……!!」


 オレグが優勝(・・)して彼に『優勝賞金』が支払われるなら、グラシアンの持ち出しは実質ゼロだ。約束を反故にして支払わない訳ではなく、優勝した選手(・・・・・・)にきちんと支払われるので誰にも文句は言えないという訳だ。 


 マーカスは目の前が真っ暗になるような衝撃を味わった。グラシアンが賞金をきちんと支払うという大前提が崩れ去った今、ニーナの手術費を工面できる当てが無くなったという事だ。



(……っ。まだだ……!)


 ニーナの手術までにはまだ時間がある。その間に何か他の手立てを探すしかない。今はとにかくこの場を切り抜けてリディアを無事に救出する事に専念すべきだ。


「お前もこの女の兄……ヘンリーのように、私が手ずから(・・・・)始末してやろう。そしてすぐにこの女にも後を追わせてやる。安心して死ぬがいい」


「……!?」


 オレグの言葉にマーカスは目を瞠る。リディアが怒りに歯軋りをして拘束された四肢をもがかせる。だが無情にも拘束が解ける事はない。オレグの目がリディアを向く。


「俺が憎いか? だがお前には何も出来ん。『賞品』のお前に許されているのは、この満身創痍で立っているのもやっとの男に兄の仇も、そして自分の命も委ねてただ見ていることだけだ。さあ……それではそろそろ始めようか」


 リディアを嘲笑したオレグが再びマーカスに向き直ると、その体に纏う雰囲気が明らかに変化した。同時に強烈な殺気が叩きつけられる。マーカスは反射的に臨戦態勢を取った。



 オレグがその殺気とは裏腹にまるで柳のように身体を揺らしながらゆっくりと近づいてくる。不気味な動きだが迎撃しない訳にはいかない。


「ふっ!」


 彼は極力躱されにくいローキックを牽制で繰り出す。だがオレグはそれこそ柳のような柔軟さでマーカスの蹴りをいなしてしまう。彼は怯まず今度はジャブを連打する。オレグは身体を左右に揺らすような不思議な動きでジャブの連打すらも躱した。


「ち……!」


 マーカスは舌打ちして強めのストレートを繰り出す。だがまるでそれを待っていたようにオレグが、今までの緩慢とさえ言える動きから急にスイッチが切り替わったような素早い挙動で踏み込んできた。


「……!?」


 パンチを躱されたマーカスは驚いて慌てて後ろに下がろうとするが、その前にオレグの突き出した拳がマーカスの胸の辺りに吸い込まれた。


「がはっ!」


 見た目からは想像もつかない強打にマーカスは血反吐を吐いて吹き飛ばされる。



「マーカス!? マーカス、立って!! マーカス!!」


 鎖に繋がれたまま戦いを見守っているリディアが悲鳴を上げる。胸骨を砕かれたかと思う程の衝撃でしばらく息ができないマーカス。だがオレグは容赦なく追撃してくる。


 こちらの急所を狙ったような追撃を辛うじて横転しながら躱すと強引に立ち上がった。


「ふぅ……! ふぅ……! はぁ……!」


「ふ……もう限界だな。しかし例えお前が万全の状態だったとしても、システマ(・・・・)を極めた私にお前ごときが勝てるはずもない。これ以上余計な抵抗をせねば楽に死ねるぞ?」


 オレグがそんな彼を嘲笑する。システマというのは名前だけは聞いたことがあった。確かロシアの軍隊格闘術か何かだったはずだ。


「かつては兵士として、そして今は殺し屋として戦場に身を置いてきた私からすればキックなど……いや、『表』の格闘技など児戯に等しい」


「……!」


 オレグが再び迫ってきた。緩急を織り交ぜた独特の動きに翻弄されて、奴の実態を捉えにくくなっていた。マーカスはとにかく命中を重視して今度はミドルキックを仕掛ける。


 だが奴は体ごと後ろに逸らせるようなスウェーで蹴りを躱し、逆にその脚を取ってこちらの軸足に蹴りを放ってきた。


「ぬがっ!」


 マーカスは呻いて痛みと共に体勢を崩す。そこにオレグが踏み込んできて、今までの受け身が嘘のように苛烈な連撃を仕掛けてくる。痛みに怯んでいたマーカスはこれまでの連戦のダメージや疲労もあって奴の連撃への対処が遅れた。


「――っ! ……ッ!!」


 身体中、急所という急所を強打されたマーカスは、意識を半ば喪失して再び吹き飛んだ。当然今度は起き上がってくる事はない。これは……『KO』だ。





「う、嘘……そんな……嘘でしょ? マーカス、しっかりして! マーカス!!」


 白目をむいて倒れたまま動かないマーカスの姿に、リディアは信じられない思いと共に胸が潰れそうな衝撃を味わった。必死に彼に呼びかけるが反応はない。彼の元へ駆けつけたくとも、四肢を拘束する鎖がそれを阻む。 


「無駄だ、奴は完全に沈んだ。私の勝ちだ。尤もこの結果は最初から分かりきっていたがな」


「……っ」


 淡々と告げるオレグを視線で射殺さんばかりに睨むリディア。それしか出来る事がなかった。勿論奴は露ほども意に介さない。


「さて……勝者には『特権』があるのだったな。すぐにあの男の後を追わせてやろう」


「……ッ! こ、来ないで!」


 オレグが薄笑いを浮かべて歩み寄ってくるのを見てリディアは青ざめる。だが四肢を鎖で拘束された彼女には逃げる事も抵抗する事も許されていない。ただ『賞品』として勝者に与えられるのみだ。


(兄さん。マーカス……)


 リディアは諦念と共にがっくりと項垂れる。自らの運命を享受した彼女に、オレグの魔の手が伸び……



「……彼女に、触る、な」



「……!?」


 リディアだけでなくオレグも目を瞠った。2人が思わず視線を向けた先、そこにはマーカスが自分の足で立ち上がっていた。だがどこか茫洋とした目つきをしており身体もフラフラと揺れていた。


「マ、マーカス……?」


「ふ、ふふ……何かと思えば。ただの悪あがきか。そんなに止めを刺して欲しければ望みどおりにしてあげよう!」


 オレグが身を翻すと、言葉通りマーカスにとどめを刺すために一直線に向かっていく。


「マーカス、逃げて! マーカス!!」


 リディアが叫ぶも反応はない。殆ど無意識で立っているような状態のようだ。オレグは容赦なく迫っていく。リディアは最悪の光景を想像して顔を背けた。だが……


「ごぁっ!!?」


「……!」


 聞こえてきた殴打音とオレグ(・・・)の苦鳴に顔を戻した。そして信じられない光景に再び目を瞠る。オレグが鼻を押さえていた。その手の間からボタボタと血が零れ落ちる。



「ぬ、が、が……この、死に損ないが……!」


 オレグは怒りに燃えて再びマーカスに襲いかかる。そこから先の光景はリディアの目を疑うものであった。オレグの攻撃は何度もマーカスの急所にヒットするものの、彼は怯む事無く機械的(・・・)に反撃を繰り出す。


 意識は殆どないはずなのに、その攻撃の速さや鋭さは意識があった時とは比べ物にならず、あのオレグに回避やカウンターの余地を与えず次々とヒットさせていく。


 リディアはこのマーカスの状態に聞き覚えがあった。彼が『表』にいられなくなった切っ掛け……試合中での殺人(・・)の時、このようにトランス状態になって気づいたら対戦相手が死んでいたらしい。今、彼はソレ(・・)と同じ状態になっているものと思われた。


「ば、馬鹿な……! こんな、事が! この、私が、貴様ごときにぃぃぃっ!!」


 マーカスと同じくらい満身創痍になったオレグが、しかしそれでも怒り狂って最後の攻撃を仕掛ける。その狙いはマーカスの頸部だ。彼の首を折るつもりだ。確かにトランス状態であっても首を折られたら流石に生きてはいられない。


 だがマーカスは如何なる生存本能が働いたか、上体を逸らせるようなスウェーでオレグの攻撃を躱した。そしてその反動すら利用したカウンターの一撃がオレグの胸骨辺りにヒットする。


「かっ……は……!」


 その威力は凄まじいものがあったらしく、オレグはしばらく固まったかと思うと口から血を吐き出してそのまま崩れ落ちた。完全に白目をむいて痙攣している。放っておけば命に関わるようなダメージだ。マーカスがかつて殺してしまった対戦相手のように。



(兄さん……!)


 兄を殺した下手人に相応しい末路にリディアは、自らは手を下せなかったものの、せめて兄の冥福を祈った。 

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