第45話 硝子の花薗①
あぁ……パラダイスだ。溶け合うハーモニー。カノンを瑠伽との演奏する、瑠伽がヴァイオリンで、私がピアノで……秘かな夢が今、叶った。
夢の中で夢が叶う。夢占いによれば、これは典型的な「願望夢」で、現実では夢とは真逆の事が起こる事が大半。予知夢となる事はごく稀だという。だからこの夢から醒めたら、契約破棄の申し出がある、という事だろう。でも三年は継続する事にしてしまったから、お互いに弁護士を立てて。家庭裁判所に行く事になるのかもしれない。
「真緒理、集中して……」
瑠伽の囁き声で、再び音に耳を傾ける。夢だ……魂が渇望していた最愛の人とのメロディーに陶酔していく。どうか夢よ……このまま醒めないで欲しい。せめて今だけ、今だけはこのひと時に酔いしれよう。
薄紅色、深紅、白、黄色の硝子のコスモスが咲き乱れる中、私たちは演奏している。硝子越しに注ぐ光が花々に煌めきを与えて眩しいくらいに輝いている。初めて瑠伽と出会った時を彷彿とさせるような……
あの日、私は裏庭で物想いに耽っていた。その頃の両親は、幼稚園に上がった頃の私には、未だ僅かに期待を寄せていようだった。けれども、兄や姉と同じように絵を習わせても、ピアノを始めとした楽器や体操を習わせても、才能の欠片も兆しも見えず。両親はがっかりしたのだろう。二人が顔を突き合わせて深刻に話ているのを偶然聞いてしまった。
『真緒理の奴、何をやらせてもダメだな。顔も普通だし。あの子には失望したよ』
『誠一も華織も、あの子と同じ年齢の頃にはコンクールで入賞とか普通だったのに。やっぱり、次女なんかいらなかったわね。産まなければ良かったわ』
『とんだ失敗作だったな。出来損ないめ』
『長男長女だけで良かったわね』
……私は出来損ないの失敗作、可愛くないし馬鹿だし、生まれて来たらいけない子だったんだ……
脳天を斧でかち割られ、胸には太くて長い氷柱を突き刺されたような衝撃を受けた。それまでも、何となく両親には話しかけにくい気はしていたが、そこまで忌み嫌われていたとは……。当時は明確に自分の気持ちを表現出来る術を持たなかったが、何となく寂しかったり不安に感じたりした時に行くお気に入りの場所があった。そこで大好きなシャボン玉を吹いていると気が紛れて落ち着くのだ。あの儚げなオーロラの球体が大好きだった。空気に溶けるようにして弾けて消えて行く様子が、妖精のように見えて。その場所は裏庭だった。そこは祖父母がたまに訪れるくらいで、殆ど人が来ないのだ。
空は透き通るように青く、コスモスが見事に咲き誇り見頃を迎えていた。陽射しは優しく地上に降り注ぎ、コスモスはそれに鮮やかな笑みでこたえている。爽やかに吹き抜ける風とコスモスたちはワルツを踊り、秋の蝶とおしゃべりを楽しんでいる。
大空に向かってシャボン玉を吹いた。出来るだけ細く、長く吹く。大きなシャボン玉を作りたくて。もう少し大きく、もう少し……シャボン玉はパチンと弾け散った。顔に微かに飛沫が飛ぶ。期待通りに行かない……父様も母様も、こんな気持ちなのだろうか? 次は、出来るだけ息が続く限り吹いてみる。連続して程良い大きさのシャボン玉が出てくるように。ほら、綺麗だ。シャボン玉たちの行方を見守る。光りに当たって、キラキラキラキラ……まるで光の妖精の住み家みたいだ。私もあの中に入って、そのまま消えてしまえたら良いのに。
「……コスモスのようせい?」
その時、背後から突然男の子の声が響いた。天使の声、ボーイソプラノ。声の主を振り返り、息を呑んだ。
「……おはなのようせいの、おうじさま?」
身の丈以上の高さのコスモスに囲まれた少年が驚いたように私を見ていた。歳の頃は少し年上か? 明るい褐色の髪は、陽光が当たって金粉を巻き散らしたように輝いている。深海のように深い青い瞳は宝石みたいにキラキラしていて、まるでボッティチェリが描く天使のように愛くるしい顔立ちをしていた。クリーム色の肌に薔薇色の整った唇。18世紀の西欧貴族が着そうな紺色の衣装を見ても、花の妖精の王子様にしか見えなかった。
「ぼくはようせいでもおうじさまでもないよ、ふつうのにんげんのこどもだよ」
「わたしも、ふつうの……おんなのこだよ。ううん、ふつう……じゃなくね、てできそこないのしっぱいさく……なんだって……」
どうして初対面の男の子にそんな事を言ってしまったのか。言いながら涙まで溢れてしまった。本能的に、『この人なら大丈夫』と潜在意識が感じ取ったのだろうか。
彼は私の目の前まで小走りで近づくと、両手を伸ばした。そして右手を私の左肩に、左手を私の右肩に置いた。私より少し背が高い、やっぱり年上のお兄ちゃんだ。
「どうしてそんなかなしいこというの? だれかがいったの?」
心配そうに見つめる彼の瞳が、とても綺麗な青色で見惚れてしまう。悲しい気持ちも涙も吹き飛んでしまう程だ。
「あのね、とうさまとかあさまがいってたの。うまれてこないほうがよかったんだって。にいさまとねえさまはすごくきれいだしなんでもできるの。でもね、わたしはなにもできないし、おかおもきれいじゃないの」
「そんなことないよ! きみのおとうさんとおかあさんのほうがおかしいよ。たのんでもいないのに、かってにうんだんだから。おとうさんとおかあさんのせいだよ! きみはわるくない! おとうさんとおかあさんは、きみをかわいがる『ぎむ』があるんだ!」
何故かとても怒ったように話す彼を、夢見心地で見つめていた。これが、瑠伽との初めての出会いだった。この時もう既に、私の初恋は確定したように思う。
ずっと後になって知ったが、瑠伽もまた、両親との関係で悲しい思いをしてきた人だった。
硝子の花薗でとりわけコスモスに力を入れて貰ったのは、コスモスの群れが私にとっての初恋での大切な思い出のアイテムの一つだからだ。勿論、シャボン玉も、青空も、陽の光も。先日作成したレジン玉は、結局売り物にはせず、自分の物にした。
曲は余韻を残して終わりを告げた。微笑み合う私と瑠伽。
……もう、夢の時間も終わりなのか。目が覚めたら、シャボン玉が弾けるようにして消えてしまう《《泡沫》》のひと時……
「真緒理。長い間、待たせてごめん」
瑠伽はヴァイオリンを静かにおろすと、ゆっくりと私に近付いて来た。どうやら未だ、夢の続きを見る事が出来るらしい。
「何を言っても、言い訳と偽善にしかならないような気がして、あれ以来連絡出来なかったんだ。……話を、聞いてくれるかい?」
切実な面持ちで私を見つめる彼。これから別れを切り出されるのだろうか。夢ならこのまま酔わせて欲しいのに、いきなりシビアな展開になるのだろうか。それなら早く目覚めれば良いのに。それでも、彼にそう問われたら、頷く以外何も出来ない。
ここまで御覧頂きまして有難うございます。誤字脱字報告、感謝致します。




