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第44話 カノン

 ガラス温室の中は、白銀台の邸内の作りもガラスの花々の配置もよく似ていた。こちらの方が少し広めな分、コスモスがより多く咲き乱れている。グランドピアノの位置も、椅子も、楽器置き場の位置も殆ど同じだ。楽器置き場にはやはり私が習った事のあるヴァイオリン、チェロ、フルートが置かれていた。


 『家は、長い間人が住まないでいると傷むし、定期的な楽器の調律も必要だし。沢山使ってね』と祖母は言っていた。瑠伽と月一は無理でも、三カ月に一回くらいの割合で来られたら良いな、と思っていたのに。とうとう一度も一緒に行く事は叶わなかったな……。こんな事なら、結婚はもう少し後にしていたら良かったのかな。


 ……いいえ、あのタイミングだったから契約結婚の提案が出来た訳だし。そうじゃなければ例え仮初にも瑠伽と結婚なんて出来なかっただろう。客観的に見たら、モラル的には疑問が残る生き方なのかもしれないけれど。


 ごちゃごちゃ考えるのは辞め辞め! 思考が永遠にループしてネガティブにしかならないし何の解決もしない。悲劇のヒロインに酔っても益々虚しく惨めになるだけ。せっかくガラス温室に来たのだし、ここは私一人だけの空間。ピアノでも弾いて気持ちを落ち着かせて試行を切り変えよう。弾きながら色々な思考が駆け巡って来ても、それを否定せずさりとて深入りもせず、ただ俯瞰する感じで流していけば良い。しばらくしたら冷静になって、思考の整理が捗るようになるだろう。そうしたら、自分が本当はどうしたいのか、その為には何をすべきかが見えてくるに違いない。


 ピアノの前に座る。初めて聞いた時からその旋律の虜になって、『基礎が出来るようになってからでないと!』とピアノも、フルートも、ヴァイオリンも、チェロもどの教師も、習い始めて一年未満の私に口を揃えてそう諭された。それでも、基礎練習と併用してその曲だけは無理言って教えて貰ったのだ。元々その曲自体がさほど難しいものではなかったのもあるだろうけれど。楽譜はなくても平気な曲。もう、何度も何度も繰り繰り返し練習して暗譜した。指が覚えているメロディー。


 『パッヘルベルのカノン』。正確には「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジークニ長調」の第一曲。今現在も様々にアレンジされて使用されている。それだけ優れたものなのだろう。聞けば誰もが耳に残り、己の生涯に想いを馳せる……


 初めてこの曲に出会ったのは、小2の頃だった。校内の合唱コンクールで、上級生の中の一クラスの選曲で素敵な歌だな、と気になったのが切っ掛けだ。元の曲を聞いてみようと動画を調べていた時、たまたまピアノのヴァイオリンで『パッヘルベルのカノン』を演奏されているものを見たのだ。何て綺麗な曲なのだろう……その時に感じた、魂の根幹が震えるような恍惚感を今でも鮮明に覚えている。


 気に入って何度も繰り返し聞く内に、いつしかピアノは私、ヴァイオリンは瑠伽、と想像するようになって行った。何となく、私のイメージの中で瑠伽はヴァイオリンが似合うと感じたからだ。

 

……下手だな、お兄様とお姉様ならもっと軽やかに綺麗に弾けるのに。これじゃ全然ダメだ。もっと上手になったら、一緒に演奏してくれるように瑠伽に頼もう。未だ全然ダメだ。もっと上手になったら、もっと……


 そう思っている内にどんどん月日は流れ、瑠伽はピアノも相当な腕前と言う運命の女(ファム。ファタール)に出会ってしまった。とうとう、一度も言い出せなかった。彼女と何の演奏をしたのかは敢えて聞いてはいない。勝手にのろけて話されたのを聞いた限りでは、G線上のアリア、ベートーベンのチェロソナタ、シューベルトのアヴェマリアあたりだったようだ。蓮や史桜、菜乃と瑠伽と私の五人で演奏した時、前述の楽器の中からピアノだけは絶対に選ばなかった。自意識過剰なのは自覚している、だが、どうしても小夜子嬢と私のピアノの技術の差を、瑠伽には直接聞かれるのが嫌だった。瑠伽は別に、何とも感じないのは分かってはいても。私なりの意地だったのかもしれない。


 今は気が済むまで、何度も、何度でも繰り返し弾く。あぁ……本当に好きだ。再び最初に戻る。ピアノの弾き始め、黄金のコード進行……ここでヴァイオリンが主題を追いかけるようにして入って来るのだ。そう、こんな風に。優しく包み込むように……あーぁ、駄目だな、ヴァイオリンの幻聴が聞こえる。とうとう、気が触れちゃったのかな。でも、いいかな、このまま弾いて行こう……て、


 「え?」


思わず息を呑んだ。それでも淀む事なく、鍵盤を指が流れて行く。ヴァイオリンが響いて来る方向を見やると、そこには居る筈がない人の笑顔があった。


 「続けて」


彼は囁くように言うと、ピアノの前に立ってヴァイオリンを弾き続ける。


 「瑠伽……」


どうやってここに? いや、どうしてこの場所が分かったの? 様々な疑問が渦を巻き始める。けれども、微笑みながらヴァイオリンを弾き続ける彼を見ている内に気付いた。

 

 ……これは、夢だ。強い願望が見せる都合の良い夢……


疲れてリビングのソファで寝てしまったに違いない。それなら、このまま目が醒めるまで続けよう。夢にまで見た瑠伽との演奏、心ゆくまで味わい尽くそう。

ここまで御覧頂きまして有難うございます。誤字脱字報告、感謝致します。

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