第34話 チューベローズ(瑠伽視点)
不快なほど甘ったるい香りが鼻をつく。自然の花の香りなら未だ良い。人工的な匂いがわざとらしくて不快なのだ。元々、香水の類は好みではない、それを好む人を否定するつもりはないが、こちらの人たちは香水を好んでつけている場合が多いので慣れていく事が必要だ。今、隣を歩くこの女は僕に主導権を渡すまいと、両腕を僕の右腕に巻き付けてきた。ゾワゾワと全身に不快感が走り鳥肌が立っているのは、この女がつけている香水の匂いの不快さと、生理的な嫌悪感が入り混じったものだろう。声をかけられた時から嫌な予感がしたのだ。豊満な肉体と、ストロベリーブロンドの波打つ長い髪と琥珀色の瞳を持つエキゾチックな顔立ちの美女だ。全く僕の好みではないが。尤も、好みであってもなくても、不貞行為を働くつもりは一切無い。
仕事がひと段落ついた先程、「仕事について重要な話があるから二人だけの時間が欲しい」と声をかけて来たこの女は、名前をアデライン・ローズ・スタインと言う。心の中で『ホルスタイン女』とあだ名をつけているのは内緒だ。ホルスタイン女の仕事の役職は第二秘書だ。因みに、第一秘書と第三秘書は男性で、この女は第三秘書と乱れた関係という噂だ。仕事以外での彼らの事は一切関心が無いから、迷惑さえかけなければどうぞご自由に、と思う。ただ、随分と乱れた職場だ。それとも僕が企業の上層部とやらを知らないだけで、これが「普通」なのだろうか。
「どちらまで行くつもりですか?」
僕はさり気無さを装いつつ、彼女の巻きついた腕から己の右腕を引き抜いた。そした一歩後ろに下がって距離を取る。こういう場面を、噂のパパラッチの餌食になるのは御免だ。国柄的に、報道の自由が最大に活かされているから、一度マスコミを通してしまうと揉み消すのは日本ほど容易ではないと兄から再三聞かされていた。日本も別に、簡単に揉み消せる訳ではないがそれだけぽっと出の俄かCEOは餌食になり易いのだ、という事だろう。
「どこって……嫌だわ、二人きりになれる場所って最初に申し上げたではないですか」
女は腕を引きはがされた上に距離を置かれ、意外そうな表情を浮かべた後、蠱惑的に微笑んだ。「虫唾が走る」、この表現ほどピタリと当てはまるものはないだろうという程に、総毛立った。僕は元来、性的に淡白な上にふしだら女には嫌気が差すタイプなのだ。兄から「第二秘書には喰われないように気をつけろ、あの女は男と寝て地位を勝ち取って来たんだ。自分の意のままに操れないと分かったら、姑息な手を使うタイプだ」と忠告されていた人物の一人だ。
「どういう意味でしょう? 仕事以外の話でしたら、ここで失礼致します」
おっと、女が詰め寄りそうなのを察知して、更に三歩ほど距離を取る。
「今朝、デスクに『チューベローズ』の花が飾られていたでしょう?」
あぁ、そう言えばそうだったか。甘くて酔いそうな香りだったから、誰が飾ったのか分からなかったが窓辺に移動させたのだった。
「花言葉はご存じ?」
意味有り気に目を細め、口角を上げる。こういった表情にそそられる男は少なくないだろうが、僕は逆に興醒めしてしまう。
成る程ね。以前、花言葉を沢山扱った短編集を書いた事がある。確か『チューベローズ』は……白く清純そうな見た目に対して香りは官能的な甘さを持ち、花言葉は「官能的」「危険な関係」「危険な快楽」だったな。やはりそういう目的か。
「あの花はあなたが飾ったのですね。そういう事なら、僕はやる事が山積みなのでここで失礼します」
「待って!」
「未だ何か?」
「奥様との夜の生活……満足されてないのでは?」
真緒理を侮辱するような下品な言葉にカッとなった。駄目だ、手をあげては。だが、甘く見られても困る。
「……何の権利があって、そんな憶測で僕達夫婦が侮辱されないといけないんだ? いい加減にしてくれっ!! 僕は暇じゃないんだ。くだらない事をしでかす時間があるなら、仕事に集中してく! 生憎、僕は妻以外に興味は無い!!」
僕が激昂するとは思わなかったのだろう、女は目を見開き、ポカンと口を開けて見つめている。間髪入れずにコートの右ポケットに入れていた「ボイスレコーダー」を取り出し、翳して見せた。
「僕をトラップに仕掛けようとしても無駄だ! 全て録音してあるからな。言っておくが、次は容赦しない、二度めは無いと思え!」
睨みつけながらそう言い放つと、くるりと踵を返してオフィスへと戻る。
『いつハニートップを仕掛けられるか分からないから、いつでも録音出来るようにボイスレコーダーを持ち歩け』
という兄のアドバイスが早速役に立った。あのままついて行ったら、乱交パーティー会場やら、或いはレイプ被害を装われたりするか……いずれにしても、その場にパパラッチが潜んでいるに違いない。
日本に帰国出来るのは一カ月以上も先だ。その前に、真緒理も交えた社交パーティーがあるが、それでも彼女に会えるまで二週間ほど先になってしまう。
……一時的に帰国しようか……
そのつもりで、スケジュールを組み直そう。
真緒理から、植木鉢が落とされた事件をメールで知らされた。同時に、邸の敷地内二か所に、子猫、鳩の死骸が投げ込れた事。どちらも警察に被害届を出した事も。
真緒理が心配だった。癪だが、久岡が守っているから大丈夫なのだろう。それでも、傍にいてやりたかった。小夜子との事がありながら、どの口が言うのだ? と自分でも思う。そう思うのだが……。
少し前に、小夜子の提案で二人で話をしたよ、と真緒理から聞いた。その内容までは知らされなかったが、拉致の件と考え合わせても、この植木鉢と死骸が投げ込まれた事件は極楽寺組が絡んでいると見て良いだろう。小夜子は、何も知らないのかもしれない。そうであって欲しい。だがそれでも「知らなかった」で通すには大人になり過ぎている。また、もし小夜子が知っていたしたら……そう思いたくはないが……僕は彼女に対して、とんでもない思い違いをしていたのではないか?!
いずれにしても、小夜子とはしっかりと話をしなければならないと思う。出来れば、真緒理も交えて。
小夜子からは何の連絡もない。こちから「変わりはないか」とメールをしてみても『元気でいる、早く会いたい』という内容しか書かれていなかった。彼女への不信感が、波紋のように胸の奥へと広がって行くのを止める事は出来なかった。
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