2 孤高
バイクを降り立ったのは、山田アサトだった。
「あれ、平、あんたがここにいるとは驚いたね。あんたのせいで親父も俺も逮捕されて…、やっと警察から出て来たんだぜ。そうか、平が俺の妹に嫌がらせをしていたんだな」
「兄ちゃん、相手が少し違う、あの男だよ。あの男が女の敵よ」
「え、だれだよ」
アサトが見たのは、カズキの姿だった。
「なんだ、相手はカズキなのかよ」
「こいつをやっちまってよ」
「え、こいつをか・・・・」
「なによ」
「ユウき、こいつは俺たちの仲間だぜ。だがよ、カズキ、なぜ平が一緒なんだ?」
「俺の濡れ衣を晴らすのに、協力してくれたのさ」
「へえ、そうか。平は俺が昔好きだった女でもあるしな。それなら俺はだれにも手を出さないよ」
アサトはカズキにそう言いながら、ユウキを見つめた。
「ユウキ、おめえなんか勘違いしてねえか。カズキは俺たちの仲間だ。俺は仲間のいうことは信じるんだぜ」
ユウキたちは追い詰められ、じりじり後ろへ下がった。そこにはチエがいた。
「平さん、あんたのせいでめちゃくちゃになったじゃないの。ただで済むと思うなよ」
チエは、当初の予想とは違った展開だったものの、ここまで追い込めればユウキたちが謝るものだと思っていた。しかし、ユウキたちは捨て台詞をチエにぶつけて帰ってしまった。
・・・・・・・
新小岩高校の三年の一学期の4月末日。まだ中間試験も遠いのに・・・。突然に英語テストが行われ、三年生たちは文句たらたらである。しかし、それを無視するかのように英語の教師が結果を発表している。
「試験を返す。名前を呼ばれたら取りに来て」
「おお、俺三十点取れたぞ」
「俺は十五点だあ」
教室のあちこちで悲鳴が聞こえてくる。それに追い打ちをかけるように教師の声が響く。
「テストは二百点満点なんだが・・・・・。三十五点以上出来た奴は一人しかいなかったぞ」
「え?」
「誰だよ」
そんな喧騒に包まれてチエは教師に名前を呼ばれた。
「平チエ。二百点満点だ。よくできたね」
クラスメートたちが一斉にチエを見つめた。
「満点だってよ」
「あの子が?」
「だれだっけ?」
「俺知らねえ」
「昨年はいなかった子だぜ」
「あの子ね」
チエは俯きながら自分の席へ戻った。注がれたものは多くが羨望と嫉妬、やっかみのこもった視線。その中には、敵意で研ぎ澄まさせた氷の刃が潜んでいる。
英語教師は続ける。
「約束通り平均点以下の者たちが補習なんだが・・・・。平チエを除くお前ら全員だ」
「えー?」
「どうして?」
「なんでだよ」
「静かに。・・・あのなあ、平均点は三十八点だった。お前らの点数は、名前なしで言っていくと十五、三十、十六、二十七、・・・結局さっきも言ったように三十五点以上がいないんだよ。そして、平が二百点満点を取っている。それで平均点が三十八点になって、ほかの誰もが平均点以上でなくなったわけだ。したがって、約束通りお前ら全員補習というわけだ。文句はねえな」
「おかしいよ、そんなの・・」
「いや約束したとおりだから文句は言わせねえぞ。お前らも平みたいに一生懸命勉強すればいいんだよ」
こうして、この日英語の補習が行われた。一人によって残りのクラスメイト全員が補習となった。この噂は全学年に伝わった。もちろん、チエはそんなことに興味を持つはずもなく、さっさと帰ってしまった。
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「平さん、話があるんだけど」
荒川土手でのいさかいがあってから、黄金週が明けたばかりのころ。チエを含めて、夏服の男女の生徒たちが連れ立って下校していく。その物陰にユウキたち三人が校門の前に待っていた。
チエは黙ってユウキたちをにらみつけた。その後ろから、英語教科の教師たちが声をかけて帰宅していく。
「平さん、満点おめでとうな」
「気を付けて帰れよ」
ユウキたちは教師たちがチエに親し気に声をかけて帰っていく姿を見て、再びチエをにらみ返す。
「やっぱりね。平さん、あんたの秘密を見つけちゃった」
「なんのこと?」
「あんた、教師を抱き込んでいるんだろ」
「そんなことしていないわ」
「あんたのクラスの奴らから聞いたぜ。 皆が15点とか30点しか取れないテストで200点満点をもらったってな」
「そうね」
「そんなわけねえだろ。英語教師に媚を売って・・・」
ユウキがチエのスカートを引っ張り上げながら続ける。
「色仕掛けで点数稼いでいるに決まっているさ」
チエは顔を赤らめながらそれに抵抗した。
「そんなことしてないわ」
「まあいいさ。中間テストで、ほかの教科のテスト結果を見ればわかることさ」
・・・・・・・・・・・・・・・
「ここ、中間テストに出るからな」
「中間テストの範囲は、五ページから二十五ページまでの範囲な」
教師たちが、この時期になると試験範囲を言いながら授業を進めていく。だが、それは個々の生徒たちにとって荷が重いらしい。
「えー、こんなに広いの?」
「覚えらんねえよ」
「ノート見てもわからねえし」
ここでは中間テストが5月下旬から6月初日にかけて行われる。それを前にしても、チエは淡々と準備をしているだけだった。
「彼女、ノートをろくにとっていないよ」
「簡単にメモしか取らないのね」
チエにとっては錦糸高校ですでに一通り終えているところばかりなので、ノートは取っているものの、頭の整理のためだけのメモにすぎなかった。それが周囲には何か特別の雰囲気を感じさせた。
そして、試験の結果は・・・・。ほとんどの生徒たちが十点十五点程度なのに、チエは一人すべての教科で満点を取っていた。
「彼女、怪物?」
チエは相変わらず無口だったが、平チエの名前はクラス中に知れ渡った。
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「へえ、教師に媚を打っているんじゃなくて、あんたの実力がすごいんだ・・・。錦糸高校の名前は伊達じゃないんだね」
チエの髪、そしてユウキの髪が風に揺れている。湿気を帯びた風が校門の生徒たちを吹き抜けていく。ユウキの話すことはぼそぼそと低く、切れ途切れになっている。綾井レイコ、五十嵐ユミもユウキが何を言い出すか、耳をそばだてていた。
「その錦糸高校をなんで辞めたのか、兄貴も最近まで知らなかったらしいよ。なにしろ校長に退学処分を出してもらったはずが、親父と兄貴が逮捕されてダメになった。そのはずが、あんたはこの高校に居たってね。それまで事情は分からなかったらしいけど・・・」
この言い方は、何か秘密を握っているぞと言いたげな調子を含んでいる。
「あんた、前の学校で不純異性交友で追い出されてこの学校に来たんだってね」
「なんのこと?」
「あんた、覚悟しなよ。荒川の土手で私にあんな恥かかせやがって」
急に脅しをかけてきたユウキの言葉とまなざしは不気味だった。チエの心の底には、好きだった相手ユウトへの罪の意識、ユウトを裏切るようなウソと心の疼きがあった。それに加えてユウキの脅迫はチエの心を破り、再び繊細なチエの孤独を深めていた。
チエの横を通り過ぎるクラスメートがチエに声をかけてきた。
「平さん、さよなら、またね」
「またね」
チエも声を返す。その横でユウキがもう一度チエをにらみつけた。
「へえ、そうやって声を掛け合わす相手がいるってえのかい。じゃあ、この噂で、あんたが孤立するようにしてやるよ。」
チエは真実をユウキに言おうとも考えた。それは新たな弱み、新たなくすぶりをもたらすだけのことだった。