1 嘘
復活祭の春風。それは、どんなものにも新たな生まれ変わりを予感させる。チエには、この春風がチエの背中を押し、新しい場所への一歩一歩を強めてくれるように思えた。
その春風に押されながら、チエは新小岩北口から蔵前橋通りへ。もうすぐ新小岩高校が見えてくる。今日は彼女にとって、志門トウヤの口利きで三年生編入を許された高校への初めての登校日。チエは、保護者代わりの林マサヨと林康煕の夫婦と志門トウヤが校長室まで付き添ってくれたことが、何よりありがたかった。それで無事に第一日が終わるはずだった。が・・・・。
始業式の日の放課後、チエは見知らぬ女子生徒に呼び止められた。彼女は山田ユウキ。午後の新体操クラブの活動に備えて、すでにレオタードのスタイルになっている。一緒にいたのは、同じ新体操クラブの綾井レイコ、五十嵐ユミだった。
「あんた、カズキにふられたようね」
「え、なんのこと?」
チエにとって、何のことだか急にはわからなかったが、それが始業式直後のカズキとの会話に関連しているらしいことだけは、察しがついた。
「隠さなくたっていいんだぜ」
ユウキの横にいたレイコがユウキの言葉に続けた。
「やめちゃいな、そんな恋。」
ユミも相槌を打つ。
「私たちも同じなのよ。彼にふられたのよ」
どうやら、チエもカズキに振られた女子生徒に見えたらしい。
「仲間にしてあげるわよ」
「あいつにし仕返ししてやろうよ」
仕返しなどという発想がチエを驚かせた。思い通りにならないときにそんなことをするのだろうか。仮にも惚れた男に…
「え?」
次々に繰り出されるカズキに対する誹謗と中傷、そして報復の企て・・・・。チエにとってこれほどの悪を考えつく女たちは、同じ生徒に見えなかった。
「ふられたの、悔しいでしょ」
「そんなこと、わたししない。ふられたというより、お話したら彼に彼女がいたっていうことを知っただけだから…」
「へえ」
「なんだよ。何いい格好しいなの?」
「ふられた者同士なのに裏切るんか?」
ユウキたちはチエをにらみ、踵を返して去っていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この日の三年生の始業式の後のこと、チエは教室に戻る途中でカズキを見つけた。
「小久保君、おひさしぶりね」
「え、あれ、平チエ!。俺たちの高校に?」
「そう」
「転校? 編入なの? それによくも俺に声を掛けられるなあ」
「黒木先輩は行ってしまったわ。私は彼を忘れたわ。」
チエはうそを言った。ユウトを裏切る嘘。とたんに青い髪の姿がふと離れていく姿が見えたような気がした。
「私はあなたたちに拉致されたけど、黒木先輩とあなたたちとのやり取りだったんでしょ。いろいろあったけど、結局黒木先輩も私も退学になっちゃって・・・。二人とも別々の学校へ行って別れ別れになったのよ」
嘘が心をうずかせる。チエはそれを感じながら、頑張ってユウトへの思いを断ち切るようにそう言った。
「ふーん、そうなんだ。黒木さんは俺たちとも縁を切ったし、高校も退学になったことは知っている」
「それなら私とあなたたちとの間に対立なんてないわけね」
「ふーん」
カズキは複雑な表情をしている。チエはそれを無視して言葉をつづけた。
「あの、私、この学校のこと、ほとんど知らないんだけど、教えてくれないかな」
「え、俺にかよ? うーん、いいよ、と言いたいんだけど、俺にも都合があってね。彼女との付き合いの関係でね、そんなことができにくいんだよ」
チエは断られてしまった。
・・・・・・・・・・・
「小久保は彼女がいるくせに、平に手を出したんだぜ」
一学期早々、このカズキのまわりで根拠のないうわさが立つようになった。女は好奇心で、男はやっかみで、それぞれうわさ話に興じている。廊下で、教室の片隅で。
カズキはもともと女子生徒たちに評判となるほどハンサムな男だった。それゆえ、噂ややっかみの対象にもなりやすい。
「私見たんだ、小久保が平に言い寄っているのを」
「節操のない男ね」
「あの男、女の敵だよ」
カズキはうわさをするクラスメートたちをつかまえては、大声で反論している。
「俺はそんなこと、してないぜ」
「へえ」
「なんだよ、その言い方は」
「だって、平さん、お前を避けているぜ」
「それは・・・・」
噂は広がるばかりだった。カズキは戸惑いつつ、チエに問いただした。
「平さん、始業式は話しかけておいて、今はなぜ俺を避けるんだ?」
「だって、お話したら彼女さんに悪いでしょ」
「それはそうだけど、わざわざ避けるほどのことではないんだけど」
「でも、小久保君、あなたは私に『彼女との付き合いの関係でね、そんなことができにくいんだよ』といったのよ。私、疑われたくないもの」
チエがカズキを避けることが、かえって事態を悪くしていく。こうしてさらにうわさが広がり、カズキはどこへ行っても口をきいてもらえない状態に追い込まれた。カズキの同学年での相談相手は、皮肉なことにチエだけだった。
カズキはもう一度チエを校舎裏に呼び出した。日が伸びつつある初夏の夕刻は、まだ明るかった。
「平さん、もう、俺を避けるほどのことをしてほしくないんだ」
「どうしたの? なんでそんなことを頼んでくるわけ?」
「俺がお前に手を出したって。彼女がいるのに手を出したって。だから、平さんが俺を避けるようになったって。そううわさが流れてるんだ」
噂を一切無視しているチエにとって、それは驚くべき内容だった。しかし、その時ユウキの顔が浮かんだ。
「私、小久保君に案内を頼んだけど断られただけだったわよね。それを誤解した人がいたのよ」
「だれが」
「山田ユウキさんよ。あの人、私が小久保君にふられたと思ったらしいわ。それで私に仕返しを持ち掛けてきたの…」
「なんだって?。確かに昔、彼女から告白されたことがある。彼女がいるって断ったんだけど。あの女・・」
「多分、噂の出所は彼女じゃないかしら。でも、問い詰めても否定されるだけよ。たとえ、私から聞いたといってもダメね。私自身も今じゃ彼女たちから敵視されているから」
「ありがとう、よく教えてくれたよ」
カズキは暴走族のメンバーだけあって、暴力行為に出かねなかった。このままではユウキの思うつぼになってしまう。
「もし、彼女を問い詰めたいなら、考えないと・・・・」
「どういうこと?」
チエは少しばかり考察を重ねた。
「彼女さんに協力してもらうの。彼女さんから山田さんに『真相を教えて』『相談に乗って』と持ち掛けるのよ。その時、山田さんは必ず「平チエから聞いた」とうそを言うわ。その場の近くに、あなたと私と確かお兄さんにいてもらったらどうかしら。」
「山田さんのお兄さん?」
「山田アサト君」
「山田ユウキは、あいつの妹なのか・・・・・」
「それで、山田さんが嘘を言ったらその場で私たちが顔を出して、嘘だっていうことをさらすのよ。そうすれば、彼女さんはあなたをより信用するきっかけにもなるわ」
カズキは、チエの策略にかけることにした。
カズキの恋人は一学年下の天野キョウコといった。キョウコははじめは嫌がっていたという。しかし、カズキが孤立しかねないこと、孤立したときにチエしか身近にいないこと、それがチエとの仲を深めてしまうことを言うと、しぶしぶ一芝居打つことに同意した。
そして、ユウキと綾井レイコ、五十嵐ユミは、まんまとキョウコの芝居に誘い出され、荒川土手の総武線高架下に来ていた。4月も終わりが近いのに、夜になると風が未だ冷たい。
「あんた、カズキの彼女なの?」
「はい、二年G組の天野キョウコといいます」
「で、話って何?」
「彼、カズキが平チエさんという子に手を出したって噂されているから…」
「そんな話でなんで私が呼び出されたわけ?」
「山田さんがほかの方とそんな話を詳しくしているのを、私聞いてしまったんです。だから、詳しい状況をご存じなのじゃないかと思って…」
「ふーん。わかったわ。じゃあ、話してあげるよ」
ユウキはチエがカズキから言い寄られて困っていたという話をキョウコに言い聞かせた。
その話の途中でチエが二人の前に姿を出した。
「山田さん、それ、あなたの勘違いね。私が小久保君に学校の案内を頼んだだけよ」
「平、あんた、こんなところに何しに来たのよ」
ユウキは焦ってチエをにらんだ。
「山田さん、なんでそんな嘘をつくの?」
チエはユウキを問いつめるように、ユウキたちのほうに近づいていく
「平、あんたは余計なことを言わないほうがいいよ。いまここに私の仲間を呼んだんだから」
ユウキはチエをにらみつけ、さらに続けた。
「平、あんたさあ、私たちを裏切ってどうするつもりだい」
そこにカズキが顔を出した。
「へえ、俺が平チエに言い寄ったって?」
「え、小久保…。あんたまで・・・・。へえ、あんたら私たちをはめたつもり? へえ、そうやって私たちを脅すんだ。わざわざこんな人目につかないところに呼び出させて、話をさせて、脅すんだなんて、そんなところだと思ったわ。」
そこに響く暴走族の音が聞こえて来た。ユウキたちは、それを聞きながら指をさす。
「でもね、あの音が聞こえるかしら」
チエは驚いて音のする方向を見つめ、カズキのほうを見あげた。カズキは少しばかり驚いた様子だったが、視界に入ったバイクを確認すると、ゆっくりユウキを見つめた。ユウキは勝ち誇ったように怒鳴った。
「あんたら馬鹿だね。私が無策でここに来ると思っていたのかよ」
次第に近づく暴走族たち、優に30台はあろうか。
「カズキ、あんたはこれで痛い目に合うんだ。いやだったら這いつくばって土下座しな」
「やはりユウキが黒幕だったのか。許さねえぞ」
「私に向かってそんな口を利けるのかしら。私には強い味方がいるのよ」
暴走族がユウキの後ろにずらりと並んだ。
「ユウキ、少し遅くなったな。誰だ、お前を馬鹿にするやつは。俺たちがしめてやるよ」
「兄ちゃん、あいつらよ」
「ようし 俺たちに任せろよ」
チエには予想できない展開だった。