夏の命日、彼女への手向け
夏の日差しが肌を焦がし、肺が焼けるような風が吹く季節はまさに地獄ようだ。
そんな中で一人、バス停で滝のような汗を流す婦人を見つけた。
閉鎖的なこの片田舎では、会ったことがない人などまずいない。外部から来た人であることに間違いない。
こんな田舎にいったい何の用で来たのだろうか。興味はあるが、話しかけてまで知りたいことでもない。
「暑いですねぇ」
予想に反して、婦人は通りがかりの俺に声をかけてきた。
「そうですね」
特に反論することもない。しわくちゃのハンカチで顔を拭きながら答えると、婦人は、にこりと笑った。
「どこかへでかけるのですか?」
「そうですね。少し先にある川で釣りをするんです」
「そう。だから大荷物なのね」
「ええ」
何気ない会話なのになぜか心が安らぐ。婦人の独特の雰囲気がそうさせるのだろう。
車通りの少ない道に遠くから近づくエンジン音がした。
「あ、バス。来ましたね」
「ええ、そろそろ行くわ。話に付き合ってくれてありがとね」
「いえいえ、こちらこそ」
「そうだわ。お礼にこれをあげるわ」
婦人が取り出したのは紙に包まれたなにかだった。
「これは?」
そう言うと、婦人は紙の中のものを見せた。
「これはね、自家製の飴なの。いつもよりうまくできたはずだから美味しいのよ。私の娘も好きだったのよ」
その言葉にドキッとした。
「警戒しなくてもいいのよ。ちゃんと味は保証するわ」
「……ありがとうございます」
「ふふっ、ほら、おいしいのよ」
婦人は飴の一欠片を口にした。
「一つ貰います」
「いくらでもいいのよ」
掴んだ飴の欠片は、飴特有のベタつきがあった。
「……いただきます」
なにも不思議もない欠片は口に含むと、すぐに形を失っていった。指で掴んだときはここまで溶けるものには感じなかったのに、不思議なこともあるものだ。
「おいしいでしょ?」
婦人は人懐っこい笑みを浮かべた。
「ええ、おいしかったです」
「いいのよ、私からのほんの気持ちだから」
お礼を言うと、停車したバスに乗っていった。入口近くの席に座ると、俺に笑いかけ、バスの窓から見えなくなるまで手をふってくれた。
あっという間にいなくなった婦人は。
「おっと、いけない、いけない。釣りに行かなくては……」
熱射病になりそうなほどの日差しを避けるように、麦わら帽子を深く被った。
その日、釣りは大量だった。まさか持ってきたカゴいっぱいまで釣れるとは思っていなかった。
家につく頃、地平線の先まで続く田畑の向こうに太陽は沈んだ。
夜食は豪華になった。そして、死んだ妻に捧げるつまみが増えた。
「今日はな、面白い人に会ったんだ。あぁ、久しぶりに笑ったよ。お前といたときくらいにな」
こちらへ笑いかける妻は、変わらず笑っていた。
「あぁ、なんだかお前と久しぶりに話した気がしたよ。それに……なんだかお前に似てたよ。なんでだろうな……」
手に軽くのせた盃に、『あの日』のために買っておいた日本酒を注いだ。
「やっぱりまだお前のことが忘れられないんだろうな」
辛くそしてほんのりと甘いはずの酒が少しずつ、しょっぱくなっていった。
「あぁ、悪い。湿っぽいこと言ったな。こんな綺麗な月が見える日に言う話じゃないな」
空に浮かぶ月を眺め、盃を傾けた。
「うめぇな」
静かな夜にこの日を迎えられてよかった。
「……今日はお前の命日だ。夜が終わるその時まで、俺の時間はお前のために使おう。今日はお前にとっても俺にとっても、大切な時間だからな」
盃のお酒を飲み干すと、庭に生えた彼岸花にハサミを入れた。
「お前が好きだった花だ。俺が一から育てたんだけどな。あんまりうまくいかなかったわ。だから、一輪で我慢してくれ」
それでも笑う彼女に、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
薄暗い道をゆっくりと進んでいく。歩き慣れたその場所には彼女の好きだった野菜が植えられている。
「お前のためにしてきたことだったけど、今では俺の支えになってるんだ」
畑を抜けると今度は森の中に入っていく。
「お前には色々心配させてしまったけど、俺は今日も生きてる、だから安心してくれていい」
林道を抜け、墓場にたどり着いた。
「ここは忘れ去られた墓達の群れがある。もう、俺しか来ないんだけど……おかしいな。今日はいつもより華やかだな」
目的の墓へ階段を登って向かう。手摺は錆び付き、階段は瓦礫の山のように形を成していない。
墓の周りも草で囲まれているのだが、なぜか彼女の墓の周りには草の一つも生えていなかった。
「こんばんは、ここで会うのは久しぶりだな。ごめんな、やっと気持ちの整理がついたんだ。これは俺の育てられた花だ。一輪で悪いが、受け取ってくれ。来年には、もっとうまくやるよ……」
花立には菊が手向けられていた。そこに一輪の彼岸花を添える。
中央には紙の上に置かれた飴があった。それはまさしく婦人から頂いた飴だった。
「これは……お前の好きな飴か。これ、うまいんだよな。今、お前と食べたいから、一つ貰うな」
飴の一欠片を口に含む。幻聴だろうか、彼女の笑い声が聞こえる。
「ははっ、確かにお前のを取るのはいかんな。けど、少しくらいいいだろ……この欲張りさんめ……」
自分の持ってきた供え物に手をかけたが、すぐに手を引っ込めた。
「手向け品に魚って非常識か。すまん、忘れてくれ」
もう一つのお供え物を取り出す。
「今日だけは苦手な晩酌に付き合ってくれ、今日は呑みたい気分なんだ」
飴の横に盃を置き、適量注ぐ。そこに桜の花びらを浮かべた。
「季節外れだが、綺麗だろ。お前が好きだった桜だ。今年も綺麗に咲いたんだ。楽しみにしてたの知ってるからな」
墓に盃を掲げ、微笑む彼女に。
「乾杯」