第十九話 愛しさの向かう先
「ごべん……、なざい……」
私の穢れた両手は、純粋無垢な彼女へ触れるに相応しくはないだろう。
だけれども、禁に触れてでもその温もりを欲してしまった、望んでしまった。
「え? え?」
困惑するのは当然だろう。
勉強を教えるといいながら、むしろ邪魔をしてしまっている。
いきなり泣き出して、抱きしめるだなんて我ながらどうかしていると思う。
「ずごしだけ、こうざせて、いさせて……」
「へ? あ、はい……?」
でも、彼女はきっと許してくれる、分かってくれる。
彼女は私の唯一の理解者で、そして愛しい――親友なのだから。
「ありがとう、もう大丈夫……」
「い、いえ、ごちそうさまでした?」
しばし彼女を後ろから抱きしめ泣くだけ泣いた私は、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り温もりから離れるとベッドに腰掛け俯く。
歩さんの返事に、彼女をいたずらに混乱させてしまったと申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。
「……八城さん、大丈夫ですか?」
椅子をこちらに向け直し、心配そうに問いかけてくる彼女に一体どんな顔を向ければ良いのだろうか?
少し離れていてくれている心遣いが憎い。
近くに寄られていればその細い体を抱きしめたくなる衝動に抗うのは多大な労力を要しただろうから。
「あの、不躾なお願いなのですが……」
俯いたままの顔はあげることが出来ない。
先程までの醜態とたった今、新たに生まれた一つの願いを考えればそれも致し方なし。
まるで小さな子どもの様な願い。
それを口にすることを考えると、恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。
「叶と、呼んでいただけませんか?」
しかし口に出さずにはいられなかった。
意を決して顔を上げ、祈るように握りしめた両手を胸元に置き彼女を見据える。
窓から差し込む光が眩しく、彼女の表情はよく見えない。
「えっと、叶さん?」
「っ!」
だけれど、耳に聞こえた彼女の声はたしかに私の願いを聞き届けてくれたものだった。
◆
「ふー、なかなか面白かったわね」
「っ!」
時計の音を掻き消すように室内に響いたアヤカの声に八城は彼女の存在を思い出して飛び上がる。
「あ、貴女、聞いていたんですの!?」
「は? 聞いていたも何も最初から居たでしょうよ」
立ち上がり激高する八城を、何を今更と睥睨するかのようにアヤカは少し顔を持ち上げ見据える。
アヤカは隠れていたわけではなく、のみならず八城とともに部屋に入り、あまつさえ言葉も交わしていたのだ。
にもかかわらず彼女の存在を忘れて歩と話し込んでいたのは八城である。
狭い室内、声を聞くなという方が無理だろう。
「そ、そうですけど……」
当然、八城もそのことに思い当たるが釈然としない。
聞いていたのなら途中で会話に入ってきてもいいのではないだろうか。
それをせず聞き耳を立てるなど誇り高き戦乙女として、同期として見過ごす事はできないと自分に言い聞かせるようにしてから口を開く。
「こ、声を掛けてくれてもよろしかったのでは?」
「二人の世界作っててそれ言う?」
「ふっふたっ!? ち、違います!」
だが付け焼き刃の言い訳は通用するわけもなく、返す刀で袈裟斬りにされてしまった。
アヤカの存在を完全に忘れていた負い目もあり、八城はそれ以上の言葉が続かない。
「へぇ、何が?」
貝のように黙り込んだ八城だが、当然それで逃げられるほどアヤカは甘くない。
炭火で炙るかのように、アヤカは嗜虐的な声色で質問を重ねた。
「あ、アヤカさんが勉強しないっていうから!」
「ほぅほぅ、一体ナニの勉強をしてたんですかねぇ?」
八城の必死の反撃に対し、アヤカは寝転がったまま読み終わった娯楽小説の表紙をこれ見よがしに見せつける。
その表紙は有名な恋愛物、それも禁断の恋愛を取り扱ったものだった。
「っ!!」
「ねぇねぇ、教えて?」
猫がネズミを甚振るように、アヤカの掌の上で八城は面白いように転がされている。
蛇と蛙、クトゥグァとニャルラトテップ。
八城にとって、アヤカはまさしく天敵だった。
「あ、貴女も下の名前で呼んでも良いって!」
だがアヤカは歩の妹だ。それもかなり大切にしている。
そうであるならば八城も歩み寄るべきだと考えていたのに。
「話そらさないでよ、おっぱいさん?」
「わ、私がおっぱいでしたら貴女はまな板でしてよ!?」
「よしその喧嘩買った!」
言うが早いか、アヤカはベッドから飛び出し八城へと襲いかかる。
「そう何度もやられませんわ!」
しかし八城は武道も収めている。
既に幾度となく襲撃を受け、見きったとばかりに掌底を放った。
「甘い!」
が、その掌はアヤカを捉えるにあたわず、するりと流される。
必中と思い繰り出したその一撃、躱された後に残されるのは開いた胴体のみ。
勝敗は推して知るべし。
八城の悲鳴が人気の少ない寮にこだましたのだった。
「ねぇ、そろそろ勉強の続きしたいんだけど?」
万事休すとなった八城に、救いの手が差し伸べられる。
というよりかは見るに見かねてと言ったほうが正しかったかもしれないが、ともかく八城にとって歩は今まさに天の使いに見えた。
「はいはい。おっぱい、ごちそーさま」
床に寝転がり息も絶え絶えな八城から満足したとばかりに離れると、アヤカは再びベッドによじ登り次の本へと手をのばす。
「はぁ、はぁ……」
「立てます?」
一人残された八城は荒くなった呼吸を落ち着かせるとゆるりと立ち上がり、同じ手は二度と貰わないと力強くアヤカをにらみつける。
「大丈夫、ですわ。次は負けません……」
瞳には涙が湛えられているが、それは負け犬のものではない。
どころか神へ挑まんとする英雄のごとき力強さを感じさせるものだった。
「あっそ、揉まれたくなったらいつでもかかってらっしゃい」
寝転がり小説へ視線を向けたまま、傲慢な様でいつでも相手をしてやるとの確約。
友達の居ない、いや少ない八城にとっては、生まれてはじめてのものだった。
本人以外はそう思っていなくとも、本人がそう思っているのであればそうなのだ。
「そ、そう?」
「なんで嬉しそうなのよ……」
「う、嬉しくなんて!」
アヤカが引きつった表情でチラリと視線を八城へと送る。
必死になって八城は否定するが説得力は皆無だ。
「あー、はいはい。そうですかー。早く勉強に戻ったら?」
面倒くさいとでも言うように本へと視線を戻したアヤカは、それ以上何も言わない。
急に終わらせられた会話と雑に置かれた読み終わった本に八城は少し眉をひそめたものの、やぶ蛇になっては敵わないとばかりに軽く首を振り歩へと向き直った。
再び先程と同じく筆の走る音と時計の音が部屋の中を満たす。
「次の例文が参考になりますわ」
「ああ、こことつながるんだ」
変わったことといえば教える八城と歩との距離が少し近くなったことぐらい。
指先一つ分、近くなったことくらいだった。




