第十七話 表と裏、内と外 その2
「うん、今日もミルクがうまい!」
タン、と空いたグラスをテーブルに下ろす。
合いも変わらずキンキンに冷えている。そして、このマスターの纏う雰囲気も昔から変わっていなかった。
「……ありがとうございます」
「うまいのはいいんだが、マスター。その雰囲気どうにかならない?」
「……精進いたします」
「…………まぁいいや。もう二杯くれ。俺と、こっちの奴にもな」
一向に直る気配のないマスターの雰囲気を突いてから、改めてオーダーをする。
ついでにチラリと横を見ると、いつの間に飲み干したのか、すでにもう一つのグラスも空だった。
「……お待ち」
程なくして、ミルクの入ったグラスが差し出される。今度のものもいい感じに冷えている。
「…………」
「え? あぁ、あいつなら元気さ」
冷えているミルクを片手に持って、傾ける。
口に殺到する液体を、舐めるように少量だけ口に含んでから言葉を溢す。
「…………」
「いや、そっちの方も順調だ。まったく、誰に似たんだか……」
「…………」
「まさか。あいつはそれ以上のものを持ってるよ」
外からは、通りの喧騒が入ってくる。
店内には、俺の声だけが響いている。
店の扉は、動かない。
「…………」
「だな……。って、そうそう。あいつってオムレツとか好きだっけ?」
「…………」
「あれ? そうなのか。ふーむ……」
「…………」
「いや、なんとなくだ。……でも飯のリクエストに言って来てさ」
「…………」
「『そんなことはない』、ってそりゃまぁそうだよな」
わずかに、隣にフードが揺れる。風……じゃない。
さっきから扉は一切動いていないし、外から風が入ってくる気配もない。
隣の客が自分の首を横に振ったのだ。
「…………」
「え、食べたがらない? あいつが?」
ちょうど半分ほど減ったグラスをテーブルに戻す。
その拍子に中の液体がちゃぷん、と音を立てた。
「…………」
「まじかよ……」
確かに、飯を食べたがらない時というのは誰にでもある。
それが昔のあいつだった、というだけの話。それが。そんなあいつが、俺の店に来た途端、腹を減らしていた。
食事を出すと、遠慮もなく平らげた。たとえ、そこに理由がなくても、それだけは事実だ。
「…………」
「ん? ああ、そうだな。マスター、甘い例のあれ、頼むわ。俺とこいつとで二人分な」
「……お待ちを」
と、ここで会話を打ち切ってマスターにオーダーする。
と、横から服の裾を引っ張られた。見ると隣の客から手が伸びている。
「…………」
「何を注文しているんだ……って甘くてうまい奴だよ。大丈夫お前の分も注文したから」
「…………」
「まぁまぁまぁ……。口に合わなかったら俺が食うからさ」
「……お待ち」
なんてやりとりをしていると、マスターから皿が手渡される。その皿の上には果たして。
「…………」
「な。俺も最初見たときはそう思ったよ」
黒くて尖ったものと、黒くて丸いものが乗っかっていた。
それぞれに手元のフォークを手に取り、尖った方に突き刺す。すると一口サイズのカケラに崩れ、フォークの上に乗っかった。それを口に含み、噛み締める。
甘いような、少し苦いような不思議な味。それを。
「んっんっ」
ミルクで流し込む。
「うん!!いい味だ」
「……ありがとうございます」
三杯目のミルクを注文してから、隣を見る。
見ると案の定、すいすいとフォークを動かす客の姿があった。
「な? うまいだろ?」
「…………」
声をかけると、一瞬だけフォークが止まるものの、すぐに口とを往復する作業に戻った。
どうやら無事にお気に召したらしい。
「…………」
それから少し。正確には尖った方があらかた片付き、丸い方を摘み始めた頃。
隣の客が不意に動いた。
「いや、そこまではまだだ」
「…………」
「間に合うのか、って? 流石にそこまでは保証できねーよ」
ガタリと物音がする。隣の客が立った。それぐらいは見なくてもわかる。
「…………」
「ああ、だから俺は俺のできることをする。あとはあいつ次第だ」
「…………」
「その通り。俺はあいつを信じた。あんたは、どうだ?」
「…………」
ちらりと横を見ると、隣に立っていたはずの客はもういない。
少しして、店の扉が開いて、閉まる音がする。
店にいる客はたった一人になった。
「……お客さん」
「なんだ? マスター」
「……今の方、何をおっしゃっていたんですか?」
客が顔見知りだけになったからか、マスターからそう声をかけられる。
お節介焼きなのはこちらもらしい。
「んー……いや、知らね。俺も適当に相槌打ってたみたいなもんだしな」
「……そうですか」
二者面談なんて一組で十分だ。
立ち上がり、扉の方を向く。外はまだまだ暗そうだ。
「ん、ということで俺も帰るわ。……あ、そうそう。これだけは言ってたっけな」
くるりと振り返ると、ちょうど片付けを始めていたマスター。
その勤勉な態度に思わず笑ってから。
「支払いは、『竜皇国』にツケておいてくれ」
「……かしこまりました」
突然の話だったのだからこのぐらいは許されるだろう。何せ、半分はあいつの腹の中だ。
言って、今度こそ店を出る。出て見上げると、案の定、空はまだ暗い。
「んっ!」
伸びをして気合を入れ直すと足を前に動かした。
夜はまだ、長い。