第十六話 表と裏、内と外 その1
そ、っと足を前に進める。音を立てないように、空気を動かさないように。
床が古くなってしまっているから、ぎしり、となる音までは消せないが、それでも彼女には届かないように。
そうしてようやく、店の入り口に手をかけーーー
「どこへ行こうというのだ?」
声と共に、部屋が明るくなる。
振り返ると、火のついたランタンを手に、ヘリシアが階段のそばに立っていた。
「あーいや、その、ちょっとした散歩だ」
「足音を殺しておいてか?」
「ははは、消えてなかったろ?」
意識して明るめに笑ってみる。が、もちろんそれぐらいでごまかせるわけもなく。
こつ、こつ……と靴音を響かせながらこちらにやってくる。
「また今日も、寝ないのか?」
「……なんのことだ?」
飛んでくる質問に、つっかえながらもとぼけて返す。けれど、その反応自体が認めているようなものだ。
「気付いていないわけないだろう。今日はふらついていたじゃないか」
「たはは、やっぱばれてたか」
指摘されて、今度こそ認める。正直、体は限界に近い。
けれども、今日は待っている人物がいる。
「戻って、来るんだろう?」
「当たり前だ。お前との約束もまだ果たせていないからな」
「そうか、なら……いい」
そう言ってふぅ、とランタンに息を吹きかける。
その呼気を浴びて、火はあっけなく消え。
「私は寝ている方が都合がいいんだろう」
「……おやすみ、いい夜を」
最後に投げられた質問には答えず、戸を押し開く。
暖かい季節とは言え、夜はまだ冷える。その冷気が部屋に入ってしまわないよう、そうそうに戸を閉じた。
ーーー
「つっても特に秘密にする必要はないんだけどな」
夜の街を歩きながら、少しだけぼやく。
そもそも、俺はこの会合自体、秘密にする必要をあまり感じていない。
それが、なぜそうしているのかと言えば。もちろんその会合の相手がそれを希望したからだ。
「まぁいいや。あっちもあっちで大変そうだからな」
数日前に出会ったときのことを思えば、なるほど、その言い分もわからなくない。
俺もまさか、そんな状況になっているとは思いもしなかった。
ガラガラガラ……。
「お客さーん、見てってくれー」
「ハハハハ、やっぱ酒はいいゼェ!」
「ちょ、おま!! ふざけんな!!」
通り抜ける馬車の音、飲み屋街からの叫び声。客引きを続ける店員に、それに釣られる客達。
夜も遅くなってきているのに、この街はまだまだ眠りそうもない。
(ん……)
ふと足元に石ころが転がってくる。丸くて小さくて、蹴り飛ばせばどこまでも飛んでいきそうな石。
事実、蹴り上げれば宙を舞い、そのままポチャン、と音を立てて川に飛び込んでいった。
「よぉだんなぁ……」
「うお……!」
その石を見送った直後、唐突に肩に腕が乗せられる。振り向けば、時々店に顔を出す客の一人。
名前は……。
「えっと……誰だっけ?」
「え、ひでーなぁ。おれっすよ、おれ……よくみせにいくじゃないっすかぁ……」
「うーん、すまん。覚えてねーや」
「ちょ、まじっすか……酔いも覚めちまった……。俺っすよ、ジャックですって」
ああ、思い出した。あれ、でも確かジャックは愛称で……。
「ああ、ジャーキーか」
「ぶふっ! ちょ、それは言わないでくださいよ。昔よく保存食、ってからかわれたんすから……」
「わり」
頼みますよ……、とまだぶつぶつ言っているジャーキー。それはともかく。
「で、どうしたんだよ。急に声なんてかけて」
「どうした、はこっちのセリフっすよ。あんたがこの時間に出歩いてるなんて珍しいじゃないですか。で、そんな珍しいものを見かけたもんだから、こうして声をかけてみたんすよ」
なるほど、言われてみれば、こうして夜に出歩くのは随分久々だ。眠れなくても、店でじっとしているのが普段の夜だ。
それは珍しくも思うだろう。
「で、どうしたんすか? よければ一緒に飲みながら聞かせてくれないっすか?」
「あー、わり。今日はちょっと他人と会う約束があるんだ」
「あり、そうなんすか。そりゃ残念っす。……ってそーだ。最近依頼を断ってるって聞いたっすよ? なんでも修理の依頼はしばらく受けないんだとか。もしかしてそれ関係っすか?」
「……まぁな、そんなところだ」
干し肉にしては鋭い。まさか言い当てられるとは思わなかった。
「というわけなんだ。そろそろ行かせてくれ」
「っと、すまないっす。ではいい夜を」
「ああ、いい夜を」
言って、肩から腕が離れる。離れた腕はそのままふらふらと揺られ、下ろされた後は、体が揺れるのに合わせて揺れながら、一軒の酒場に戻って行った。
さて、と再び足を前に向ける。向けた先には、やはり一軒の酒場があった。
ーーー
カランカラン
「おいーっす」
「……らっしゃい」
店のベルを鳴らし、陽気に声をかける。出迎えるのは、愛想なんてかけらもない、暗い声。
店内は一人の客も……。
「…………」
いた。
全身を覆うようなフードを被った一人の客。その隣に腰掛けて、すぐ前のグラスを覗き込む。
客のグラスには並々と、白い液体。
「マスター、俺にもこいつと同じもので」
「…………」
注文をするも、マスターからの返事はない。代わりにすっ、とグラスが滑ってくる。
グラスの中にはやはり並々とした白い液体。
グラスを掴み、それを一息に飲み落とし。
「うん、今日もミルクがうまい!」
そう感想を零した。