1
死霊魔術師のダイイングメッセージ
山間に見え隠れする灰色の塔を見ると自然と袖で口を塞ぐ癖が付いていた。それは口や鼻の奥に容赦なく入り込もうとする死臭や薬品の臭いが記憶に染みついているからだ、とガイ・レフェンスは袖の下で舌打ちした。
幸いなのは山から吹きすさぶ風が臭いをかき消してくれることだろう。
忌ま忌ましさをこらえながら手綱を引き、速度を落とす。塔までの道は山林を切り開くように続いており、道沿いに山道を登っていけばほぼ一本道だ。
ハリーの籠もる塔は、切り立った崖の上にある。山を包む鬱蒼とした森林も塔の周りには生えるのを拒絶するかのようにぽっかりと半円を描いている。塔の後ろ半分には垂直に近い断崖で、鹿でも降りられそうにない。
ゆっくりと馬から下りる。足首まで伸びたローブの裾がわずかに翻った。裾に付いた埃を手で払いながら、またも不快感が込み上げる。
濃緑色のローブは半人前……いや、独り立ち寸前の見習いの証である。偉大なる魔術師・アンゼル・ネイメスと師弟と契りを交わしてはや二十年。いまだこのローブは黒く染まってはくれない。杖もトネリコの木を削ったものだ。神狼樹とは言わないが、せめて黒羊樹か黄蛇木でなければ、自身に相応しくない。
塔の横にある厩舎に馬を繋ぎ、長い黒髪を掻き上げながら塔を見上げる。
頑丈に組まれた石造りの塔は、かつて戦があった頃の名残である。
愚かな『魔力なし(マギレス)』の貴族から我が師にと進呈されたものだ。
それが今ではハリーが己の研究室に使用している。
無性に腹立たしい。
まあいい、それも今日で終わりだ。
長い袖の中に手を入れ、短剣を指先で撫でる。ひやりとするような冷たさと硬さが秘めた殺意の証のように思えた。
気持ちを落ち着かせると、扉の横に着いた小さな鐘を叩いた。
「ハリー、私だ。君の兄弟弟子のガイ・レフェンスだ」
軋みを上げて両開きの扉が開いた。
途端に悪臭が内側から溢れてくる。中から顔を覗かせたのは、二対の真っ白な骸骨だった。
ハリーは死霊魔術師である。
元々は食い詰めた農民の子であった。それがガイの師匠・アンゼルにその才を見出され、死霊魔術の名門・ネイメス家に弟子入りすることになったのだ。それまでは魔術など縁の無かった少年は、ネイメス家の研究の粋を集めた記録を吸収し、一躍弟子の中で頭角を現した。今では一番弟子だったガイの地位を奪うほどに。
骸骨は内側から貼り付くようにして扉を開けると、ガイを手招きした。入ってこい、という合図なのだろう。木偶人形のような滑稽な仕草が腹立たしい。
生前の肉は全てそげ落ち、陶器のような表面を日の光に反射させている。眼窩からは頭蓋骨の奥が、のぞき窓のように見え隠れしている。それだけなら見慣れたものだが、ハリーはおぞましいことに女物の服を着せている。
ガイは顔をしかめながら袖で口元を覆い、塔の中に入った。
異変に気づいたのは螺旋階段を登り始めてからだ。いつもならば、研究材料や実験台の死体が古戦場のように階段のそこかしこに倒れている。なのに、今は一体も倒れていない。
いつもは固く閉ざされた明かり取りの窓も開け放たれ、外の景色を絵画のように切り取っている。顔を背けて窓を閉めながらガイは訝しむ。
どういうことだ?
ハリーはがさつな男である。書類も何もかも散らかし放題。この前などあやうく、師匠から譲り受けた巻物を古紙と一緒に暖炉に投げ捨てるところだった。
身の回りが片付いていないと我慢出来ないガイとは正反対だった。この塔も例に漏れず、スラムのような有様であった。
それが今ではどうだろう。階段に死体は一体も落ちていない。
何が起こっているのだ? どうする? 決めたはずの決意が揺らぐのを感じるが首を振ってこらえる。
気持ちを奮い立たせながら壁に手を付け螺旋階段を登っていく。階段の突き当たり、最上階には巨大な扉が見えた。
深呼吸をして、杖の先端でノックする。
「開いているよ」
呑気な声が帰って来た。ガイは扉を開けた。
「やあ、珍しいね。君がここまで来るなんて」
背の高い、金髪の男が巻物の束を抱えていた。『魔力なし』で言えば三十歳くらいだろう。首元まで伸びた後ろ髪をなびかせながら部屋の隅の木箱に巻物を突っ込んだ。色白でろくに外にも出ていないせいでガイと同様、不健康そうな色白の肌には幾筋も汗が零れる。ガイと同じく足首まで届く黒いローブを手で払いながら愛想笑いを浮かべた。
「歓迎するよ、『兄弟子』殿」
「ふん」
胸の奥から湧き上がる不快感をこらえながらガイは部屋の中を見渡す。
塔の最上階は石造りの四角い部屋になっている。奥の壁には書物の敷き詰められた書棚が置いてある。向かって右側には大きな窓が開いていて、冷たい風を吹き込んでいる。窓とは反対側の壁には小さな扉があり、台所や用足しの場所になっている。
「貴様が掃除とは珍しいな」
「いや、なに、事情があってね」
服の袖で額の汗を拭き取りながらハリーは答えた。
「事情とはなんだ」
「今にわかるよ」
「勿体振るな」
「まあまあ、そう慌てないで」
何度尋ねてもハリーは掃除の手を止めず、のらりくらりとかわして明確な返事をよこさなかった。
「掃除くらい、使い魔でも使役すればいいだろう」
魔術師の掃除洗濯食事などの家事は使い魔にさせるのが一般的だ。妖精や小悪魔と契約を結び、家事を含め、身の回りの雑用をやらせる。たまに人間の執事や侍女を雇う変わり者もいる。
ハリーもたまに自身の操る死体に家事をさせているそうだが、役に立っているかは疑問である。死体の手作り料理など、ガイでなくても御免被るところだろう。
「生きているものはどうにも性が合わなくってね」
と、ハリーはガイが入ってきた扉の横を見つめる。壁には二体の屍が直立不動で立っている。男と女の死体だ。年の頃は二十代のはじめから半ば、というところだろう。紫色の肌は防腐処理のために薬品につけ込んだ証拠だ。男の方は白い貫頭衣にズボン、女の方も飾り気のない白いスカート、いずれも生前の服とは思えないので、死後に着せたのだろう。
「新作か?」
先日来た時には見かけなかった。肌の張りや色艶からして死後まだ数日といったところだろう。
「麓の村でちょっとね」本棚に魔導書を押し込めながらハリーが答えた。
「『遠見』で覗いたらちょうど結婚式を挙げている最中だったんだよ。前から夫婦のゾンビが欲しかったんで、協力してもらったわけさ。そこの窓からひょひょい、とね」
と窓を指さす。ほとんどの魔術士にとって『飛行』や『浮遊』は難しい魔術ではない。麓からここまで空を飛べば百も数えないうちに着くだろう。
つまり、花嫁と花婿は結婚式の最中にハリーに踏み込まれ、殺された上に死体を弄ばれているというわけだ。
「哀れな話だな」
「そうかなあ」
ハリーは心底不思議そうに首を傾げた。
「だってさ、生きててもどうせ畑を耕しながら子供産んで年老いて死ぬだけだよ。何かを偉大な業績を残すわけでもない。だったらここで僕の実験台になってくれても大して違いは無いんじゃないかな。いや、むしろ研究に役立つ分、私には役立っている。だろ?」
「まあな」
ガイとて口に出したほど哀れんでいるわけではない。『魔力なし』のつがいが死のうが生きようがどうでもいい話だ。
両名とも額には黒子のような痕がある。針のような穴を開け、それを別の箇所から持ってきた肉で埋めたのだろう。新鮮な死体を調達するときは、なるべく傷つけないよう、額を狙う。
そうして確保した死体を魔術で操るのが『死霊魔術』である。ハリーほどこの魔術に適した魔術士はいない。
「夫婦はほかにもいたけど泣き喚いているのを見たらなんか気持ち悪くなっちゃってね。全部火葬にしておいた。生き残ったのは……目の見えない婆様くらいかな」
ハリーは死体愛好家であった。一方で生者を嫌悪していた。そのせいで、友人と呼べるのは『魔力なし《マギレス》』は当然、魔術師の中にもいない。まともにコミュニケーションが取れるのは師匠と兄弟子のガイくらいだ。
「忙しいのなら日を改めるが?」
「まあ、そう言わずに、ゆっくりしていってよ」
いつの間にか、ハリーがティーカップとティーポットを持ってきた。
「君が来てくれたのは、実に都合がいいんだ。もうしばらくいてくれるだけでいいんだ」
はたとガイは気づいた。
「もしかして来客か?」
「ご名答」
ハリーがぽんと手を打つ。
ガイは渋面を作った。人付き合いの苦手なハリーは、ガイに来客の相手をさせるつもりらしい。
「ふざけるな」ガイは首を振った。
「俺は貴様の執事ではないぞ」
「頼むよ、兄弟子殿」
甘ったれた声にますます苛立つが募る。
「しかしだな」
「僕はもう決めたからね」
ハリーがむくれた表情で指を鳴らした。
しばらくして、塔の下で馬のいななきが聞こえた。苦しげな声の合間に馬蹄を叩き付ける音や何かにぶつける音も聞こえてきたが、不意に静まりかえった。
「貴様……」
ガイはわずかばかりに憎しみを解放してハリーをにらみつけた。
何が起こったのかは問いただすまでもなかった。
階下にいたアンデッドを操り、ガイの乗ってきた馬を殺したのだ。
「そう怒らないでよ。僕だって悪気はないんだ」
「ふざけるな」
名前こそ付けなかったが、小柄で頑丈なのが取り柄の馬をガイは密かに気に入っていた。それを殺されて笑っていられるか。
何よりハリーの言いなりになるなど不愉快きわまりない。
「ちゃんと、新しい馬も用意するからさ。頼むよ」
「いらん」
ハリーの用意する馬など、どうせ骸骨の馬に決まっている。あるいはたった今外で死んだばかりの馬のゾンビか。
「……だが、まあいい。この借りは高いぞ」
今から麓まで徒歩で下れば確実に夜になる。野宿の予定などなかったから何の用意もしていない。
「そう言ってくれると、さすがは兄弟子殿だ」
「ならばまずは茶の代わりを入れろ」
「はいはい」と席を立った。
台所へと去って行くその背中を見つめながらさて、とガイは決意を固めた。
帰る手段を失った以上、ここまで来れば来客との鉢合わせは確定的だ。師匠は病に伏せって久しい。おそらく別の派閥の『死霊魔術士』だろう。魔術師の殺害は魔術師にとって最大級の禁忌だ。ただでさえ「動機」を持っているガイは、一番疑わしい人物である。それが犯行時刻に現場にいたとなれば、容疑を掛けられるのは避けられない。日を改めようとも考えたが、それでは間に合わない。余命幾ばくも無い師匠はハリーを正式に後継者に指名し、アンゼル・ネイメスの名を継がせようとしている。明日にもハリー本人に伝えられ、襲名の儀式が行われるだろう。
その後で殺害したのでは遅いのだ。魔術師の名跡は原則、師匠から弟子へと受け継がれる。ハリーに弟子はいない。直弟子でもない、濃緑色……半人前の魔術師にアンゼル・ネイメスの名はまず回ってこない。ガイがよくても他のネイメス一門が許すまい。当分は保留という事になり、宙に浮いてしまう。師匠の一番弟子である今だからこそ、名を継ぐことも夢ではないのだ。
であればこそ、だ。
ここで仕留めるしかない。
猶予はなかった。
ガイは袖口から短剣を取り出した。音を立てぬよう静かに鞘を抜く。
薄曇りの鈍い空が刃に水鏡のように映し出される。しゃがみ込み、鞘を床に置くと、猫科の獣のように忍び足で一歩一歩と、ハリーのいる台所へと迫る。汗が額からしたたり落ちる。心臓が耳障りなほどに高鳴る。
「次は何のお茶がいいかな?」
台所の声にガイは一気に床を蹴った。短剣を腰だめに構え、雄叫びを上げながら体ごとハリーの背中にぶつかっていった。