空蝉の慟哭
夏の、とてもとても暑い日。
幼い少女が目を覚ましたのは、空調がきいたバスの中だった。
少女の他に乗客はいない。バスのエンジン音と、窓の外から漏れてくる蝉の喚き声だけが聞こえてくる。
少女はぼーっと目線を上げ、古びた床から向かい側の椅子、そして窓の外を見上げた。
一面の、ひまわり畑。遠くに見える山まで続くその景色が、左から右へと流れていた。
はて、見たことの無い光景である。
そこで、少女ははっとした。眠気が完全に引いた。
知らない場所に来た。そのことが、少女を焦らせ始めた。
寝過ごしたのか。そもそも、どこに行こうとしていたのか。それよりも、いつバスに乗ったのか。
それらの疑問が、ぐるぐると頭の中を廻る。
とりあえず、降りなければ。そう思い至った時、ちょうど次のバス停を知らせるアナウンスが聞こえてきた。
何と言ったかまではわからない。聞く余裕が無かったが、少女は降車ボタンを押し、立ち上がった。
「……陰ヶ原? どこ、ここ」
じわじわと、蒸し暑さの中、蝉が喚く。
じりじりと、影を焦がして、太陽が照りつける。
それらから隠れるように、少女はバス停の小屋の日陰で、バス停の名前を見て呟いた。
時刻表を見てみれば、小屋同様に古いようで、文字がかすれて読めやしない。道路を挟んだ反対側、真向かいにあるバス停のものも見てみたが、同じだった。他に何か無いかと両方のバス停を行き来して見回してみるが、何も無い。
あのまま終点まで乗っていた方が、良かったかもしれない。少女はそう後悔するも、後の祭りだった。
バス停の裏側には、バスの中で見たように、ひまわり畑が広がっている。どちらも、である。
道路は一本道で、景色は変わらず、果てしないように見える。
このまま次のバスを待つにしても、いつ来るかわからないとなれば、少々不安である。
何しろ暑い。自分はそれまで、この暑さに耐え切ることができるだろうか。
じっとりと、汗ばむ。少女は既に、喉が渇き始めていた。
どこか、何でもいいから飲み物が売っている場所があればいい。あわよくば人に遭うか、せめて、公衆電話があれば言うことはない。
ここがどこか、どうやったら帰れるか。欲を言えば、それらを訊ける人に遭いたい。が、まずは喉を潤したかった。
どこからともなく聞こえてくる蝉の喚き声が、思考を鈍らせる。
自分が降りたのは、どちらのバス停だっただろうか。自分が乗っていたバスは、どちらから来たのだろうか。
変わり映えの無い一本道に、同じ形の小屋があるバス停。頼れるのは自分の記憶だけだというのに、少女はもう忘れてしまっていた。
しかし、そう深くは考えず、まあいいか、と、少女は日陰の外に出た。
麦わら帽子を被っていても、強い日差しが肌を焼く。白いワンピースに反射する日の光が、眩しい。背中を後押しするように、誘うように弱く吹く風が、少女の長い黒髪を撫で上げる。
道の先、遥か向こう。広い青空を漂う大きな入道雲を見上げ、少女は歩き出した。
じわじわと、蒸し暑さの中、蝉が喚く。
じりじりと、影を焦がして、太陽が照りつける。
どれほど歩いただろうか。
歩けど歩けど、道は途切れることなく、黄色に囲まれてまっすぐに、延々と続いている。
そしてようやく、バス停が見えてきた。
道路を挟んで向かい合っているそれの一方に、少女は歩み寄る。小屋の日陰に入り、バス停の名前を見る。
そして――――思わず、声を漏らした。
「あれ?」
陰ヶ原。
先程いたバス停と、同じ名前である。
「えぇぇ……。……ていうか、ここってさっき来たところ……?」
徒労感にぐったりとしながら、少女は訝しげに眉をひそめた。同じバス停の名前が続くことも無くはないが、ふと見回した光景が、先程と同じなのである。
とはいえ、歩いている間も同じ光景が続いていたため、バス停も同じ作りのものが続くこともあるだろう。それに、一本道をその通りに沿って歩いてきたため、元の場所に戻ってくるなどということはありえないはずである。
「……まさかね」
小屋で少し休むと、少女は再び日陰の外に出た。
道の先、遥か向こう。広い青空を漂う大きな入道雲を見上げ、少女は歩き出した。
陰ヶ原。
「うっそぉ……」
同じ名前が目に入る。古びていてもはっきりと見えるそれに反して、時刻表は相変わらず、文字がかすれて読めやしない。
じわじわと、蒸し暑さの中、蝉が喚く。
じりじりと、影を焦がして、太陽が照りつける。
小屋で少し休むと、少女は再び日陰の外に出た。
道の先、遥か向こう。広い青空を漂う大きな入道雲を見上げ、少女は歩き出した。
陰ヶ原。
「………………」
四度目にその名前を見た少女は、その場で力無くしゃがみ込んだ。
「なん、でぇぇぇぇぇ……」
蒸し暑い中、太陽に焼かれながら歩き続けた少女の体力は、もはや限界だった。
「も、ムリ……」
体を丸めるようにしてうずくまり、目を閉じてしばし休む。真っ暗な中感じるのは、まとわりつく蒸し暑さと、やむことのない蝉の喚き声だけである。
じわじわと、蒸し暑さの中、蝉が喚く。
じりじりと、影を焦がして、太陽が照りつける。
――――――一陣。強く、風が吹いた。
ちりーん。
ふと無音になったかと思えば、透き通った音が、聞こえた。
何だと思い、少女は顔を上げた。ゆるり、音のした方を見た。
道路を挟んだ、向かい側の小屋。そこはバス停の小屋かと思っていたが、どうやら今回は違ったらしい。
ちりーん。
ぽつんと一軒。そこに佇んでいたのは、こぢんまりとした駄菓子屋だった。
ちりん、ちりん、と、軒先に吊るされている風鈴が音を鳴らす。
蝉の喚き声が戻ってきた時には、少女はふらり、吸い寄せられるように、駄菓子屋へと足を運んでいた。
「すみませーん、これくださーい」
少女はガラス張りの冷蔵庫からラムネを一本取り出すと、店の奥へと向かった。
少女の腰まである高い段差の畳の上に、店の主人はいた。白髪頭をお団子にしたおばあさんが、穏やかに笑って座っていた。
「はい、はい」
少女はポケットから、無造作に小銭を取り出した。
百円玉が三枚。既に、バスから降りる時に三枚使ってしまっていたが、その残りでも、駄菓子屋で買い物をするには十分な金額だった。
おばあさんは少女から百円を受け取りながら、言葉を続けた。
「暑かったろうに。ちょいと、ここに座って休んでいきなさい。蓋は開けられるかい?」
「大丈夫、ありがとう」
少女は勧められるまま、おばあさんの斜め前に腰掛けた。麦わら帽子を取り、適当に畳の上に転がす。
ぽん、とラムネのビー玉を落とすと、一気に瓶を煽った。
手に伝わる冷たさが、唇に触れ、喉を通る。しゅわしゅわと弾ける感覚が、体を芯から満たしていく。
熱を奪われる感覚が心地良くて、くぅ、と、少女は小さく唸った。
「~~~ッはーーーっ! 生き返る!」
「そうかい、そうかい」
炭酸の刺激で顔をしかめる少女に、おばあさんはころころと笑って応えた。
かろん、と、ガラス玉が瓶の中を転がる。ゆらゆらと瓶を揺さぶれば、それに合わせて、かろかろとガラス玉が透き通った音を立てた。
少女は喉の渇きを潤し、一息つく。それなりに疲れが取れると、次に覚えたのは空腹だった。
店内に漂う甘い匂いが、空腹を誘う。
「あ、あと他にもお菓子買う、お菓子。ちょっと待ってて!」
「はい、はい」
飲みかけのラムネを畳に置いて、少女は店の中を見て回った。
天井近くには、紙風船や竹とんぼ、スーパーボールやタトゥーシールのクジが吊るされていた。店の入口にあるガラス張りの冷蔵庫の隣には、アイスのショーケースがある。
店内の棚に並ぶのは、駄菓子が入った透明なプラスチックのボトルや、浅い箱である。それらの入れ物には手書きで値段が書かれており、中を駄菓子が彩っていた。
ねじれた棒状のゼリーや、砂糖をまぶした丸い焼き菓子を串に連ねたもの。ヨーグルトに近いものや、乾いたラーメンのようなもの。きなこをまぶした餅が三つ入っているものや、四角いゼリーがたくさん並んでいるもの。ジャムや、かりかりした丸い梅。他にもいろいろ、選り取り見取りである。
少女は百円でやりくりすると、串刺しの焼き菓子を持ちつつ残りの選んだ細かいお菓子達を手を器にして持ち、おばあさんのもとへと戻った。あとの百円は、持ち帰りのラムネ用に残しておくことにした。
「これください!」
「はい、はい。食べたら、ゴミはここに入れるんだよ」
「はーい」
小さいビニール袋を渡され、少女はさっそく、カラになった袋をその中に入れた。
駄菓子には、当たりハズレがあるものも多い。少女は最初に開けた串刺しの焼き菓子を食べながら、細かい駄菓子を開封していき、それを確認していった。
「あ、当たり出た」
「そうかい、そうかい。じゃあ当たった分、持っておいで」
おばあさんは穏やかに笑いながら、当たりが書かれた部分を受け取った。
「はーい」
少女は目当てのお菓子を持っておばあさんのもとに戻ると、再び駄菓子の封を切った。
駄菓子をすべてたいらげる頃。
少女は、ここへ来た理由を忘れてしまっていた。
駄菓子に夢中になる前。いや、ラムネを飲む前のことだろうか。
飲み物を求めていた他に、何かがあった気がする。何かを聞きたかった気がする。
何故、自分はここにいるのか。自分がしたかったこと。自分のことすらも――――。
――――が、もう、どうでもよくなっていた。
美味しい駄菓子をおなかがいっぱいになるまで食べて、少女は満足していた。
「一休みしたら、川で遊んでおいで」
「川?」
少女はおばあさんの言葉に、ふと、店の外へと目を向けた。
そこに道は無く、代わりにいくらか、砂利が敷かれていた。その少し先には、緩やかに流れる川が横切っている。まだらに木陰を作る背の高い木々が、河原を取り囲むようにして生い茂っていた。
川のせせらぎと共に、さわさわと風で揺れる木々の葉擦れの音が聞こえてくる。
穏やかな風は涼しく、風鈴を揺らして、透き通った音を響かせた。
ちりーん。
「……そっか。もう行かなきゃね」
少女はなんとなく、そう思った。
立ち上がり、最後の百円で、ラムネを買う。手提げのための新しいビニール袋を貰い、ラムネを入れる。
これで、準備はばっちりである。もう、思い残すことは無い。
少女は満足していた。
「よく頑張ったねぇ。偉かったねぇ」
おばあさんは孫を褒めるように、向かい合う少女の頭を撫でた。
「もうつらいことなんて、なぁんにも無いからねぇ」
優しい手つきで撫でられる少女は、ただただ疑問符を浮かべていた。
「もう、休もうねぇ」
「? 何言ってるの? 今まで休んでたじゃない」
「そうかい、そうかい」
首を傾げる少女に、おばあさんは麦わら帽子を手渡した。
「もういいのかい?」
「うん、大丈夫! ありがとう!」
少女は麦わら帽子を被ると、眩しく笑った。
「じゃあね!」
少女は元気良くおばあさんに手を振ると、店の外へと向かった。
おばあさんは穏やかな眼差しで、少女の門出を見届けた。
じわじわと、蒸し暑さの中、蝉が喚く。
じりじりと、影を焦がして、太陽が照りつける。
ぱしゃり。
水飛沫が舞った。