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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天使のいる煉獄

ボーイ・ミーツ・バード

動物とおしゃべりをする。


きっと多くの人が望んだ願いの一つ。誰かと話したい。理解してほしい。

たとえ、それが人間相手でなかったとしても。


そのふれあいが、いずれ人生を大きく動かすことになる。


そして、少年は小鳥に出会う。

 ある昼下がりのこと。アンドレは、ようやく屋根裏部屋の自分のベッドにたどり着くと、飛び込むようにしてその上に横になった。彼は四歳。先ほどまで、母親による「勉強」を受けていたのだ。

 両手の甲には、無残なミミズばれのあと。母親からの「指導」の賜物だ。


 アンドレが鞭で叩かれない日はない。あいさつができずに叩かれ、読み書きができずに叩かれ、会話を続けることができずに叩かれた。そのたびに、母親は何事かわめきちらしていたが、その文句さえアンドレの頭は理解を示さなかった。

 言葉ではなく、雑音といった方がいい。最近、ようやく「食え」「寝ろ」「話せ」といった片言が、うすぼんやりと分かるようになってきた段階だ。


 半身の状態でベッドに身を預けていたアンドレは、視線の向くまま明り取りの窓から、空を眺めていた。真っ青な空に一筋の白い雲を吐き出しながら、飛行機が飛んでいく。高い位置を飛んでいるようで、アンドレの指を数本分並べた程度の大きさに見えた。

 最近、飛行機の飛ぶ数も増えてきたような気がする。


「コツコツ」。


 何かを叩くような音が聞こえた。アンドレは振り返ってみたが、ほこりだらけの板敷の上に、木でできた踏み台と、一人用の粗末な椅子と机。そして机に数本の鉛筆とノートが二冊乗っているだけで、誰も、何もいない。

 また「コツコツ」。

 それが外からの音であることにアンドレは気づいた。見ると、明かり窓の、向かって左下隅。ペン先のように小さくとがった何かが、ガラスをノックしているのだ。

 

 窓までは少し高い。アンドレは踏み台の上に乗って、窓を開けた。

 芝生を思わせる緑色。それがアンドレの第一印象だった。わずかにおでこに黄色が混じっており、目をパチクリさせながら、時々首を傾げる小さな鳥がそこにいた。


「元気だったかい、元気だったかい」


 思わず、「えっ?」とアンドレは驚きの声をあげた。鳥がしゃべった言葉がすんなりと理解できたからだ。母親の言葉とは全然違う、ましてや鳥の話すそれだというのに。


「名前おしえて、名前おしえて」鳥が聞いてくる。反射的にアンドレは答えた。


「アンドレ。ぼくの名前はアンドレ」

「アンドレ。覚えた。ピピ、アンドレに会った」

「ピピ。それが君の名前?」

「ピピはピピ。アンドレ、ピピとおしゃべりしよう」

「今ってこと? それは――」


 ほどなく、階下から何かをわめく音。ドシンドシンと巨人が迫ってくるような乱暴な足音が迫ってくる。


「だめだ、話せないよ。母さんが」

「わかった。ピピ、またくる。アンドレ、これピピとのひみつ。守れるか」

「う、うん」

 何とかうなずいたアンドレの前で、ピピが彼方に飛び去って行くのと、母親が階下と屋根裏を結ぶ階段から姿を現したのは、ほぼ同時だった。


「また――! これだか――! めんどう――!」


 母親が何か言っている。やはり一部分しかわからない。それでもアンドレは聞き直そうとしない。聞き直せばぶたれるし、わからなくてもぶたれる。

 案の定、母親は手をあげてきた。一発、二発。往復ビンタを受けてアンドレの目から涙がこぼれ落ちると、母親はまた地震のような足音を立てて、階段を下りていった。


 それから日が落ちるまでの間、母親が屋根裏部屋にやってくることはなかった。日が落ちてからも、小さなパンとミルクの入ったカップを持ってきただけで、さっさと階段を下りて行ってしまう。

 パンを頬張ると、口の中にべっとりと痛みが広がった。昼間に叩かれた時に、頬の内側が切れていたらしい。ずっと横になったまま、ピピのことを考えていたので気づかなかった。

 アンドレは少し怖くなってきた。確かに自分にはピピの言葉がわかった。母親のノイズ交じりの声ではない。そして、自分はピピの言葉を話すこともできた。


「ぼくは……鳥さん?」


 ピピの言葉で発せられたアンドレのつぶやきが、暗い屋根裏部屋を漂う。その問いに答える者はいなかった。


 翌朝。「コツコツ」と窓を叩く音で、アンドレは目を覚ます。

 朝日の入り具合で六時前だと分かった。屋根裏暮らしで身につけた特技だ。

 昨日のように踏み台に乗って窓を開けると、案の定、緑色の鳥が待っていた。


「おはよう、アンドレ。おはよう、アンドレ」


 目覚まし時計みたいだな、とアンドレは思わずクスリと笑い、「おはよう、ピピ」と返す。


「今日はへいきか?」

「う、うん。あと三十分は大丈夫だと思う。でも、もしもお母さんがきたら」

「ピピ、逃げる。アンドレ、それまでおしゃべりしよう」

「いいよ」


 二人はおしゃべりを始める。といっても、話題はアンドレ八割、ピピ二割くらいの割合で提供されていた。ピピが聞き上手なのかもしれない。

 アンドレは自分が母親のせいで、辛い目に遭っていること。そして、彼女よりピピの言葉の方がわかることも話した。


「アンドレ、だいじょうぶ。ピピ、アンドレの仲間」

「僕、本当は鳥さんなの?」

「ちがう。アンドレ、にんげん。ピピはピピ」


「そうかあ」とアンドレはがっかりした。自分が鳥さんだったなら、母親の言葉が分からず、ピピの言葉が理解できることも納得がいったのに。


「でも、ピピ。にんげんのともだち、たくさんいる。アンドレ、その一人」

「本当? いいなあ、その人たちに会ってみたいよ」

「あえる、かならず。だからアンドレ、がんばる。なれない言葉、がんばる。そうすれば、きっと……」


 ドシン、ドシン。再び暴力の塊が、階下から迫ってきた。


「いけない、ピピ」

「ピピ、待ってる。がんばれ、アンドレ」


 ピピが飛び去り、ほどなく母親が現れた。またアンドレにわめき散らし、今度は一発だけ、それでも昨日の三倍ぐらいは痛かった。服を無理やり着替えさせられ、下に連行される。

 朝ご飯を食べたら、また「勉強」の時間だ。

 しかし、アンドレの顔は明るかった。この「勉強」をものにした時、ピピの友達、自分のような鳥の言葉がわかる、仲間たちに会えるのだ。母親以外の、人間の仲間たちに。

 やってやる。アンドレは自分の心に火がついたのを、はっきりと感じていた。


 それからというもの、アンドレは生まれ変わったように、必死に勉強に打ち込んだ。相変わらず、ミスしたら叩かれる環境ではあったが、彼にとって、この勉強はもはや押しつけではない。

 小さな友人のために、自分ができる精いっぱいをこなそう、というまっすぐな思いが、彼を動かしていた。

 その友人も、ある週は毎日来たり、ある週は二、三度だったりとまばらな周期ではあったものの、必ずアンドレのもとを訪れていた。

 今まで通り、大半はアンドレが話題を振り、ピピはそれを復唱したり、ときどき質問をしてきたりという流れだ。

 珍しい時にはピピから尋ねてくることがあった。アンドレや母親の様子や予定が主な内容。アンドレは包み隠さずに話した。そのたび、「ありがとう、アンドレ。がんばった」と小さな友人は、ピピをほめてくれる。

 ピピのためにがんばろう。今や、それがアンドレのすべてに優先する感情となりつつあった。


 そして、数カ月後の日暮れ時。アンドレはベッドに横になっていた。しかし、今まで泣いていたのか、目の周りが真っ赤になっている。

「コツコツ」ともはや耳慣れた音が響く。アンドレはいつも通り、窓を開いた。

 編成を組んだ飛行機が上空から騒音を吐き散らし、どこからともなく硝煙のにおいが忍び寄ってきた。それらが一層、アンドレの胸を詰まらせ、涙を流させる。


「どうした、アンドレ。どうした、アンドレ」


 ピピがいつもの調子で、しかし、心配する言葉をかけてくれる。


「ピピ、ごめん。どうやら、君とはお別れみたいなんだ」


 アンドレは話した。母親の言葉が理解できるようになって、初めて知った。

 母親はアンドレの実の母親ではない。アンドレに「勉強」を施す役目を与えられた「兵士」だった。

 戦争が長引いていた母親の国では、諜報員つまりスパイの数が絶対的に不足しているのだ。しかし、身体ができていて、訓練を積んだ大人は、戦力として貴重な存在。兵器を動かせる人員を減らしたくはない。

 そこで、目を付けたのが子供たち。年端もいかぬ子供たちをスパイとして送り込み、敵国の機密を盗み出す。子供だと思って、相手が油断してくれればそれに越したことはないし、万一失敗しても、大人の時ほど被害は大きくない。

 そして、「勉強」を終えたアンドレは、明日の未明、スパイとしての訓練に参加するために訓練場に送り出されるのだ。そこで訓練課程を終えれば、本物のスパイとして活動をさせられる。

 ここに戻ることは、もうないのだ。


「――がんばったなあ、アンドレ」

 

 ピピは相変わらずの無機質な口調だが、アンドレをいたわろうとしてくれた。


「アンドレ、ピピのともだち、あいたいか?」

「それは、もちろん。だけど、もう」

「ピピ、知ってる。この部屋、いざというとき、逃げられるばしょ、ある。つくえのした」


 アンドレは驚いたが、すぐに動いた。机をずらして床板を調べてみる。すると一か所だけ、よく見ると色の違う木が使われていた。木を押すと、その板が盛り上がる。

 これは取っ手だったのだ。きっと、これがピピのいう……。

「アンドレ、ピピのともだち、あいたいか?」

 ピピの声が、静かに響いた。


 すでに日が暮れたというのに、ピピは絶妙な案内で巡回の兵士をかわすルートをアンドレに指示していく。

 今まであまり外に出なかったアンドレには、初めての町中。しかし、どの建物も黒いカーテンに閉ざされ、わずかな明かりも見ることができなかった。

 ピピに従い、複雑な路地をさまよったアンドレは、やがて一軒の古びた屋敷にたどりついた。屋根の一部は崩れ、壁には何本ものツタが巻き、人が住むのに適しているとは思えない。

 ピピが入り口のドアをくちばしで不規則にノックすると、中から男が顔を出した。バンダナを巻き、迷彩服を身に着けた男だ。


「帰ってきたか、ピピ。そして、こちらが」

「アンドレ、アンドレ」

「そうか、よく来てくれた同志アンドレ」


「同志」。その言葉に敏感にアンドレは反応した。

「母親」が仲間に呼びかける時に使っていた言葉だ。そして、この男はピピと同じ言葉で、同じ意味の単語を使っている。


「大変だったろう。奴らめ、うちの国のガキどもを拉致して、スパイにさせようなどとはな。だが、因果応報。俺たちの言葉に対する警戒を怠ったツケだ。生まれた時からしみついた言語が、抜け切るわけないだろうが。ピピのおかげで、奴らの殲滅にようやく算段がつく」


 男の言葉にアンドレは震え上がった。

 救いを求めるように、男の肩に止まっているピピを見つめたが、もはやピピは何も言わなかった。

 男の熊のように大きい手が、アンドレの肩をつかむ。


「さあ、知っている情報を教えてもらおうか。奴らを皆殺しにするために。『同志』アンドレよ」

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。 色々な要素が含まれているのですね。 兵士が子供を洗脳(勉強)させていく...というのが、ナチスや悪き世の話のようでリアルに感じました。 私の発達障害があった息子は昔、ア…
[良い点] 安定のどんでん返し(というのも変ですが) [一言] トムソーヤ的な雰囲気からの…… うまい冒頭です。不穏感は、少なくとも私は感じませんでした。
[良い点] 最初から不穏な空気が漂っていて、ピピが登場してさらに不穏さが増していくのがなかなか良かったです。普通、ピピの存在に救われる気がするのに何故か読んでいても「油断するな」という言葉が常について…
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