第2話〔こいむゆうびょう〕②
何度目かの衝撃で、胸の間にシートベルトが食い込んだ。前にのめっていた体は着地して衝撃が背を襲う。
「ちょ、ちょっと大丈夫なの!? 直ぐそこなんでしょここから歩いて行った方がよくない?」
「このまま行ったって変わらないよ」
それは正常での話しだ。寝不足で球磨が出来てる運転手は正常とは言わない。
「変わったら困るの! 卓真、アンタもなんか言いなさいよ!」
後ろに座っているはずの卓真を見る。いつ遭っても自分は覚悟を決めている、そんな顔で、手を重ね震えている。
「あんまり大きな声ださないでくれるかな。頭に響く」
「この状況でよくそんなぁ――あ、まえまえ!」
見事な神業。信号で停車した前との差、僅か二センチ。そして背を打つ急ブレーキの余波。
こんな走行をかれこれ三十分、確実に寿命が三十年は縮んだ。
「君の寿命なら三十年くらい、どってことないと思うけどね」
え。と、間抜けな声を出して洸を見る。
「なんで分かったのよ」
声には出してない。まして気付かぬうちに出してたなんて漫才はしていない。
「ま、そんなこと考えてると思っただけ。ほら見えてきたよ」
初めて会った時も似たような違和感を感じた。けど、私自身普段から勘を頼りに行動するタイプ。
それにほら、やっとドライブから解放される。そんな疑問なんて綺麗サッパリ吹っ飛んでしまう。
けど――胸苦しい気持ちは今も変わってない。
「二人共そこで待ってて、ちょっと受付け行ってくるから」
急ぐように促すも、足取りはのんびりな男の背を見送る。
「朝からこんなところに来るの、貴重な体験ですね」
「そう? 私は珍しくないわ。久しくはあるけど」
「へ、どういうことですか? 刹那さんはこの病院によく来るんですか」
「入院してたのよ。小さい時、一年だけどね」
驚きの顔。その目は、まさか刹那さんみたいな人が、と言いたそうに挙動。
「そんなに希望するなら、次のオリンピックまで入院しとく?」
目は優しく、にこりと勧誘。
ぱくぱくと開閉する口から。は、はは……と漏れる苦笑。
そこへやってくる、のんびりからゆったりへと進化を遂げた男。
「依頼主が奥の部屋で待ってるそうだ。ん? なに青白い顔してるんだ卓真君。なんなら診察してもらったら、病院だし」
「大丈夫……です」
「ま、気分が悪くなったら言うんだね。んじゃ行くよ」
洸の後ろに付いて直ぐ、肩越しから見る脅えの止まらない卓真。
そんなに恐ろしい顔をしてたのだろうか、私は……。
隅から隅まで壁は白一色。飾りといえばカレンダーくらいで、置物は臓器を模型した物ばかり。ファイルが入った棚を背に置かれたソファーは、無窮の白に在る唯一の黒。
そしてソファーに挟まれた無色、ガラスのテーブルに乗っている灰皿に、火種を押し消して立ち上がるスーツ姿の男性。
交わす笑みは、見た目と同様の紳士を纏っている。
「わざわざ遠いところから申し訳ない。私が御依頼の件を頼みました、池田と申します」
「ご丁寧にどうも、それほど遠出にもなっていませんので、お気になさらず。対心霊現象除霊師の、工藤です」
寝惚けた顔が一転し、意外な一面に戸惑う私の前で握手と名刺が交差。受け取った名刺をまじまじと拝見するスーツ姿の男。
「工藤……洸。力強い、よい御名前ですね」
「ま、本人は名前負けです。それよりもさっそくで悪いのですが」
「これは申し訳ない。えっと……後ろの御二人方は?」
「助手です。不都合なら払いますが」
「いえ、それならご一緒にこちらへ」
男に指示され、席に座った洸の手振りに従い、隣へと座る。二人が限度だと悟ったのか、卓真はソファーの後ろに立ち。全員が居場所を確保できたのを確認してから、スーツ姿の男がさっきまで座っていた席へと腰を下ろす。
「御煙草は?」顔を伺って訊ねる男に、手の平を見せて吸わないことを表す洸。
「煙など?」今度は三人の顔を伺ってきた男に、他の意見を伺わず勝手な許可が手の平に乗って差し出される。
丁寧過ぎる段階を経て、それではと、煙草に火がついた。
「どうも性分が、煙草を吸っていないと話しに纏まりがなくて」
そう言って口から床に向って最初の安定剤が吹き出る。
「先程軽くご紹介は致しましたが、私はここの院長をやっております、池田と申します。と言ってもこんな姿では医者には見えないでしょうが、何故か白衣よりこっちの方が落ち着いてしまうんです。若い時は事務職に就いていたので」
「院長って、……この病院の?」
顔一つ分前に乗り出して、院長だと名乗った男を見直した。
「ええ、その通りです。お嬢さんはこの病院になにか縁でも?」
「五歳の時、少しの間入院してた――くらいです」
「なら私は病院には居なかったでしょう。ここ二、三年の間に転院してきましたから」
「思い出話はそのくらいにして、出来れば早く仕事に取り掛かりたいのですが」
両腿の上に腕を乗せ、手を軽く組んで二人の会話を聞いていた洸が、切りがないとばかりに会話の終止を切り出す。
「あ、いやこれは失礼。お嬢さん、なにかお聞きしたいことがあったら後日でもお答えしますので」
どこまで行っても紳士の風を身に纏う男に、どうもと軽い返事を返し、話しはやっと本題に入っていく。
「病棟の五階、最上階の一室に私の娘が入院しています。お願いしたい仕事とは娘の病、を治して頂きたいのです」
「察するに、娘さんは貴方の職種では治せない病と」
「ええ、私達ではどうすることも……どこが悪いのか、どこに異常があるのか、原因が分からない以上は手の施しようがないのです」
「詳しく症状を、教えてもらえますか」
男の口から吸い終わった最後の煙が天井に向かって吹き昇る。
「娘は小さい時から体が弱く、大して外出も儘ならぬ子です。それ故、私は自分の医学を娘の病気を治す為だけに学び、その発端で今の座に就きました。同時に、娘は着実に回復へと向かい、つい最近までは院内なら外出を出来るほどになっていました。それが突然、訳の分からない事態に、私は、どうしたら良いのか分からない。どこを探しても分からない、どこを診ても分からない、私では、どうすることも、できないのです……」
突けば揺れそうな目、けれども絶対に揺れないという誓いが立った、男の目だ。
聞き手の癖に、泣きそうになっている後ろの男とは大違い。
「池田さん、私は貴方の情を知りに来た訳じゃない。これ以上、関係ない話しで場を進めるなら、降りさせてもらいますが」
なんてこと言うの!とは言えない。事実、その通りなのだ。どこまでいっても男の話しは逸れてばかりで回りくどい。
とはいえこれは、あまりにも非情な発言。今にも立ち上がって抗議を言ってやりたいが、それが正しくないのも又事実。霊師の仕事に、依頼主というものに、感情の移入はしてはいけない。それが取り引きを生業に働く職の鉄則。
彼等の一言で、私達は人に害を及ぼす時だってある。だから仕事に情は入れてはいけない。学校で言われた耳たこだ。
もしかしたら号泣、下手すれば憤怒、そんな的を射た強烈な言葉に震え動くこともカっとツリ上がって噴気を表すこともなく。
男は申し訳なさそうに瞼を閉じた後、これが本来の彼なのかと思うくらい落ち着いた開口をする。
「工藤さん、ありがとう御座います。この依頼が決まってから私はどこか落ち着かなかった。大切な娘を、工藤さんのような職の方に任せていいものかと。しかし、工藤さんに言われてスッキリしました。さっきまでの動揺仕切った私では、誰に任せようと大切な娘を失っていたでしょう。それを悟ってくれたからこそ、叱りを入れてくださった。――貴方のような方なら、娘を任せられる」
目がキョトンとなった。視界が男を捉えたまま、右にも左にも動かず。淀みの抜けた顔
一点を眺めて動かない。
「覚悟が決まったなら、話しの続きをお願いします」
二本目の、不必要になった安定剤に火がつき、吹き昇る。
「――娘の名は、美音と言います。一ヶ月前、美音は院内の庭で担当の看護師と散歩をしていました。私は丁度、空き時間が出来たので美音を見に庭に出たんです」
話しは一時間近く掛けて事細かに続けられた。
庭で倒れた娘を介抱した自分。その日を境に眠りに付いて起きなくなった美音という娘の事。
気づけば話しの終わった朝の九時半、病内は似つかわしい慌しいスリッパの足音を奏でながら、廊下を走る看護師が何度も横を過ぎて行く。
危なっかしい看護師に、何度か笑みで注意を呼びかける男の先導が目的の病室を前に、静止した。
「ここが美音の眠る病室です」
「特別変わった様子はないですね。他の病室と同じ、清潔で」
眠たそうな顔で男が、見ただけで上辺感想だと分かるものを述べて口元に手をやっていた。
「ええ、私の方針は、患者の方々が常に清潔と過ごせる環境を作ることだと思っています。清潔に居れば、病なんて直ぐに綺麗サッパリ治ってしまうんですよ」
「よき方針ですね」
ははっと、談笑しているように笑うスーツの上から白衣を羽織るという不気味な医者。
彼曰く、病内を歩く時は白衣を羽織るらしい。診察室に居る時はいいが、病内では患者の身内に見られ、新米の看護師が勘を違わせて止められることが多々あるらしい。
「えっと、二人は外で待機だ。中に入るのは池田さんと、自分だけでいい」
扉が半開きほど開き、洸の背に便乗して部屋の中に入ろうとしていた二人に、待ったの手が差し伸べられる。
「え、なんでよ?」
「助手は言うことを聞くもんだ」
アンタの助手になった覚えはないと、目で講義する。それを無視して部屋の中に入っていく、情の反する男達。
バタンと味気ない音を立てて目の前で閉まる扉。そして部屋の前で立ち並ぶ二人。
「なによアレ、偶に仕事をしたかと思ったら格好付けちゃって。アンタもそう思うわよね、卓真」
腕を組みながら振り返る。同意を誘ったこっちに、指で頬を摩りながら気の抜けた一笑で終わらせる、どっちつかずの根性が理由もなしに腹が立つ。
「アンタには自分の意思ってもんがないの、男だったら物事ハッキリさせなさいよ。初めて会った時のアンタはもっと、シャンとしてたわよ」
「……すみません。なんていうか、あの時は気持ちが高ぶっていたっていうか。びびって脅されて……意思がどうとかだと、自分の為じゃなく幸弘の所為にして逃げてたっていうか」
うっかり傷痕を掘り返してしまったのに後悔した。
普段から全てが弱々しいこの男は、見た目通りの軟さを駆使して傷痕を自分で抉り堕ちていくタイプなのだ。
これで現役大学生だというのだから、世の中が奇怪しく成ってしまった説はここにきて可能性を見せ始めていた。
かといって責任感がある以上、ほっておくわけにはいかない。
「アンタ馬鹿でしょ。誰かの為になにかを遣るってことが、自分の意思で決めた意味のある志しでしょ。利益がどこに行くかは関係ない。自分が遣りたいことを遣った、それでいいじゃない。深く考えてどうすんのよ」
確りと腰に癖を乗せながら、らしくない言葉に恥ずかしくなり、顔を逸らして言い切ったこっちに、なんとも言いがたい視線が向けられ、頬に突き刺さる。
「なに、よ。気持ち悪いわね」
「すみません俺、なんか感動しちゃって」
「アンタ……本当に馬鹿なんじゃないの」
潤んだ目で見られ、かもですなんて間抜けを返されては、弄る気も失せてしまう。
袖で頬を拭い、涙を堪える男と二人だけの居心地の悪い空間が、ふいに開いた扉の音で換気された。
「水緒さん、こんなところまで来て……」
「わ、私が悪いんじゃない。勝手に泣い、第一泣くようなこと今回は言ってないわよ!」
入る時とは逆、ノブを持ったまま呆れている洸の背後から、白衣の男が顔を出す。
「喧嘩かな?」
「いえ、日常茶飯事の変わった風靡です」
「だから違う!」
入って物の三分も掛からず出てきた洸は、卓真を連れ廊下の端へと歩いて行く。部屋の前に残された乙女と白衣の男。
近くにいると白衣の上から煙草の臭いが鼻に衝く。
「出てくるの早かったんですね」
何も言わず佇んでいるのは窮屈な関係。自然と話題を出して場を和ませようと努力してみるが――。
「直ぐに部屋を出てしまったからね」
――あっさりと再び襲う沈黙。
笑みだけは絶やしてないが、医者としての対応が身に沁みている男に場を盛り上げていく力は無さそうだった。
一分、二分、三分と時は刻まれ。次第に戻ってこない二人の存在を恨みだす心境が――。
「お嬢さん」
――突然の呼び掛けに、沈黙の重力が抜け、軽くなった首が俊敏な動きで隣に立つ白衣の男へ向く。
「先ほど当病院に付いて質問があるようでしたが」
「質問……ってほどたいしたもんでもなくて」
「私で答えれるものであれば。どうぞ」
久しぶりで忘れてしまっていたけど、この復活した紳士の笑みを見れば実感してしまう。
彼が、対話する相手の不純を取り除いてしまうことを。
「十三年前の入院患者の記録を見たいんです」
「患者の記録? どうかな、私はここにきて月が浅いからね。十三年も経っている記録が残っているかは怪しい。保管は義務付けられている物だから、可能性は少なからず。後で調べておきますが、どうしてそんな物を」
「人を探してるんです。私が五つの時、この病院で起きた事件に関わっていた患者を」
「十三年前の事件――……まさか、あの事件にお嬢さんがなにか関わっていると?」
「これ以上は言えません。出来れば訳とかは……」
「失礼、野暮でした。必ず、記録の方は見つけておきます」
お願いします、がどうしても声にならない。それは――。
――本当は、見つけて欲しくないから。
探してどうする。出会うことが問責になるんだ。
全部が全部嫌ってほど分かって――。
――けれどとっくの昔に、覚悟は厭ってほどしてるから。
「お願いします」
真っ白な塀、窓枠だけに見える清んだ板を貫通して入る光。全てがあの時と同じように、私の目には濁って見えた。
丁度昼になった大時計が時刻を奏でる。
ピンポンと診察順番表示装置が受付け前に並ぶ座席から人を捌いていく。ただ立脚音色に嫌われた二人を除いてわ。
「もう二時間くらい経つわよ。卓真になんて言ったのよ」
「先に言った通り、頼んだ調べをしに行ってもらってる」
「頼んだものってなんなの、何時間待てばいいの!」
「静かに、ここは病院――ん……」
呼んでいた雑誌をソファーの上に置き、ホテルのロビーほどある天井を仰視する洸。
「どうしたのよ?」
「気づかなかったか。ま、僅かなものだ、君の探知網では察知できないな」
見事に反発は生まれなかった。こっちだって伊達に学歴トップな訳じゃない。自身が確認できない業務を、口調と雰囲気で視つめることくらい出来る。
「どうするの、私としては相手にしてられないんだけど」
「そうだね。君の意見に賛成だ」なんて、見え透いた嘘を語りながら立ち上がる男に続く。
「先に言っとくけど、私は手を出さないわよ。今日は洸が仕事するんでしょ」
「全く、内緒で卓真君に頼んだの、不味かったかな」
「関係ないわよ。そっちが助手って言ったんでしょ」
「ま、そうだけど」頭を掻きながら「分かったよ」めんどくさそうな足取り。
ピンポン――誰かが受付けに、前を横切った。一瞬見えなくなる背に、香水の臭い。直ぐに見えた後姿は損失で空いた数センチの距離を急かす。
やっぱりどう見たって、膝上まである裾は、長すぎると思う。
*
手渡された手書きの地図は、結局一度見ただけで地図としての役目終え、ポケットの中で紙切れとなった。
それ以前、地図なんて要らないほど単純なもの。なにしろ、地図を渡され距離を覚悟しながら出てみれば、目の前には堂々と揚げられている目的地の名前。
そんな背筋が凍ってしまった蜃気楼に、幾度名前以外まるっきり見当が付かない謎の地図を見返したことか。
――謎はそれだけじゃない。
向かいに建っていた建物とは、病院なのだ。
どこに行くのかは前もって聞いていたけれど、こんな近くに病院が密集している不思議が、到着した自分を呆然と立ち尽くさせている最大の謎。
深く考えないで答えを出すと――。
「運ばれてくる人、多いのかな? この辺って」
――くらいしか思いつかない。
いくら向かいに建っていたとはいえ、ここに来るまでに十分。こんなところで時間を費やしていると、後で遅すぎると殺されかねない。
冗談とか、洒落なんかじゃなく、本気で殺されると思う。
「ぅ……」
言葉に出さずとも身震いしてしまう刹那に、歩は勝手に病院の入り口へと歩み始めていた。
地図と一緒に渡された手紙を受け取ると、少々お待ちくださいと言い残し、受付けの女性は奥へと消えていった。
二分程で返ってきた言葉は、どうぞこちらへ、年季の入っていそうなキビキビとした対応、背に先導されながら歩く廊下。そんな仕事熱心な人は、歩き始めて直ぐに歩を緩め、親しみを込めた声を発する。
「池田先生のお知り合いの方?」
大人の魅力たっぷりが込められた笑みと横顔に、訳の分からない高まりをみせて返す声。
「きょうお会いしたばかりで、さっきまで、話して――」
「先生は元気だった? 二・三年くらい前はこの病院で外科医の先生をしてたのよ。今は新しく建てられた海生病院に転院なさって、院長を勤めてると思うんだけど」
「はい。お話ではそう聞いてます。人柄も優しそうな方でした」
「そうでしょ、池田先生、天野川病院に居る時から甘い甘いって言われる優しい人だから。向こうで旨くいってるか、時々心配なのよね」
「天野川病院……?」
「ええ、この病院の院名よ。面白いでしょ? とは言っても、来年に取り壊しちゃうんだけどね。だからこの病院に患者は、殆どいないの」
「ここ取り壊しちゃうんですか?」
「ええ、古いでしょこの病院」
確かに外から見た時から向こうの病院に比べてこっちは、草臥れてまではいかないものの、大分年季の入った建物だ。
「ところで院名なんだけど、じつは面白いのは名だけじゃないの。ここの病名は、ちゃんとした実説を下に付けられた名前なのよ」
聞きたい?と更なる魅力に高ぶる鼓動。どうにか沈めようとする意思を無視して首は縦に揺れる。
「ここがまだ何もない空き地だった頃ね。ここの近くで酷い空襲があったの。空襲から逃げ出した人達は、ここを目指して必死に逃げてくるんだけど、大きな町だけに避難できる場所はここしかなかったの。だから自然と皆ここに集まってくる。でも、不振な集まりが仇となって敵兵は何かあるぞって避難してきた人達の真ん中に爆弾をドカン。避難してきた人達は一掃。ここまで聞いて、どう思うかな?」
後ろで手を組んで、かな?なんて顔を覗かれ、頬が熱くなっていくのが分かった。
「ひ、皮肉な話しですよね、それって。だけどそれがどうして名に関わってくるのか、分からないです」
「由来はこの後の話しなんだけどね。この事実を知った近辺の人達は、空き地に青い布を広げて即席の川を作ったの。遠くからなら本物の川に見えると思ったのね。川に飛び込んだ死体だと思わせれば爆弾は落ちてこない。けど、次の空襲で逃げ延びた人達が布の上に寝そべっていると、大丈夫だと思っていた自分達の川に、爆弾が雨のように降ってくる。敵国から見れば、この前までなかった場所に川が出来ている、おかしい。それでドカン。で、付いた名が天に見放された川、天野川」
フーっと、言論を言い切った達成の休息が耳に衝く。
「天に見放された、野川か……だけど、そんな不幸な実話があるなら、どうしてそんな名前を由来したのかな」
「そうだね、ここまでしか私は知らないけど。池田先生が、天と川は繋がっているからね、とか言ってた……かな」
本当に皮肉な話しなのかもしれない。そんな悲劇を知っている今の人達、そんな名を背負う病院。先生が言った言葉。全てが哀れむ為だけに保たれた現代の昔語りへの御上手。
到着と、一室の前で止まる足並み。
「中で戸坂先生がお待ちよ。用件は知らないけど、戸坂先生は良い人だから、きっと力になってくれるわ」
じゃあね、別れ際の笑顔に一際熱くなる頬。
「あ、君。もし困ったことがあったら、いつでもお姉さんに会いに来てね。高校くらいなら勉強だって教えてあげられるよ」
脳が沸騰してしまう。っと、その前に――。
「僕、大学生なんですけど……」
――驚愕の素顔が最後の締めになった。
*
湿っぽい湿度が肌に纏わりつく。大気に混じった何かで口の中が粘々として気持ち悪い。
「で、卓真はなんて」
「話したところで、事情を知らない君には分からないだろ」
「あのね! 私は何時間も待たされ、しかもこんな寒気の立つところに来てるのよ。さらに付け加えれば、勘外れの無駄時間で体力の消耗。ここまでやっといて、私になんの説明もないってどういうことよー!」
悪寒だらけの通路。霊安室の扉に当たって反響する声。
「全く、仕様がないな君は。分かったよ。少し早いけど君の仕事を話しておくよ」
この際だから癪の種は放っておこう。
「その前にさっさとここから出よう」
ちょいちょいと指で降りてきた階段、廊下の先を指してから歩き出す。
「えっと美音だったかな、あの医者の娘は」
「もしかして依頼主の名前覚えてないの?」
「無駄に頭は使わない主義なんだ。名刺を見れば分かるんだろ」
「あっそ。私には洸の記憶力が良かろうと悪かろうと関係ない話しだからいいけどね」
「そういうことだね。話は戻すけど、美音って子は幽体離脱したまま、戻ってきていない。いや、戻れないと言った方が妥当か」
「戻れないって、まさか尾が切れてるの?」
「最初はその線を考えた。けど離脱して一ヶ月、そんな長い間を幽体を切り離して生命を保てるとは思えない。それでもあの子は生きている。まどっちにしろ、体は幽体を欲しているから衰弱は免れない。現状では後一週間で山だ」
「尾が切れていないのに戻れない、幽体がないのに一ヶ月も生きている。そんな話し、聞いたことないわよ」
「ああ、俺も初めての事例だ」
「顔色を見るからに、解決策は――あるんでしょ?」
話しを聞いた時点では異例の事態に悩んでいるといったところ。そんな事態にも関わらず、不釣合いな黒い革ジャンを羽織った霊能力者は、落ち着くを保っている。
「それなりにね。けど予測だ。予測は推測の域である以上、ただの自己勝手な解決法、確実ない虚栄だよ。そんなものを人に話すのは嫌いなんだけど、話さなければ癇癪が起こりかねないからね」
「なんなら今起こそっか?」
目は優しく、にこりと本気で切り返す。
「それを避ける為に説明をするんだ。起こすなら、話す理由はなくなるね。と、君とこんな話しをしていたら暮れるな。話すから勝手に聞いておくことだね。
――先ずあの子の容態は一種の仮死状態。内からではなく、外部からなんらかの強制を強いたものだけどね。それでも無理はいつか症状に現れる、肉体の破壊として。ただ奇怪しなことに、意識自体は本体の中に留まっているんだ。軽く霊体に干渉して調べたから確かな状況。つまり魂を抜かれた植物人間と呼ばれる症状になってるってことだ。ま、直すには魂を容れればいいだけ、処置は容易い。問題は魂の居場所。それを探し出さないと、他の魂を入れる一時凌ぎが必要になる。で、君の出番って訳だ」
ビシ!と名誉職にでも任命するような力強い言葉が告げられる。
簡潔に述べれば、魂を探し出せない時は、他人様の体に愛育した我が身の魂を差し出せと。そんなふざけた話しなのだ。
「本気で言ってんの」
「同姓の魂でないと反発が起こる可能性が出てくる。冷静に考えれば君でも分かると思うけど」
「私は嫌よ。同姓魂論は知ってるけど、あんなの可能性でしょ。なんで私が他人に魂を預けなきゃいけないのよ」
「仕事だ。専門家としての心構えくらい持ってるんだろ。今更覚悟を決めてないと言うなら、別だけどね」
ム――と心が唸る。ここまで言われると、引き下がる訳にはいかない。
「上等よ。洸なんかが持ってない専門家の気位を、見せて上げるわよ。魂の一つや二つ度
ってことないわ」
「さすが意気込みだけは感服だ。ま、大丈夫。そんな事態は絶対に避けるつもりだから」
漏れた笑みは熱く、詰まりそうな時間が心臓を圧迫する。出来るのは顔を背けて限りなく動揺を隠すこと。
「ここ寒いな。一人で来るべきだった」
察して触れないようにした不自然が、分かり易い急き足となって先を歩いた。
「ところで」背の躊躇いが「君に優しい顔は似合わない」恐れ絡みの告発で、心臓の詰め物を綺麗サッパリ除去させた。
そして思い出させた――。
「話の続き、魂を探す方法とか、肝心なのをはぐらかそうとしてない。卓真がなにしてるのか、説明しなさいよ」
――ピクリと反応する背。
「物覚えがいいね」鋭く「洸よりはね」切り返して、次の目論見を思考させないように。
しかし、防いでまで聞きたかった真実の第一声は。
「あの子の魂は白になっている」
*
見てるだけでひんやりって音が出そうな廊下。分かるだけで怖くなる突き当たりの暗幕。ぼやっと、蛍みたいな淡いスポットライトの通過地点、これで二つ目。
ヒタ、ヒタ、三つ目の蛍光灯目指して勝手に歩く素足に寒冷は感じない。怖くて引き返したいのに朦朧とする意識が中止せずに三つ目の蛍光灯を超えた。
五つ目を超えるとアレがやって来る。三度目となるこの景色と体験が、夢の出来事だと僕は分かっている。こんな場所を歩く理由もないのに、それが当たり前みたいに進んでいく。まるで漫画や小説が設定に乗って進行するみたいに、偽りを持たない真実。例え自分がヒーローになったって誰も疑ったりしない真実味を持った世界。
四つ目――次を超えたらやってくる。
目に力が入る。突き当たり、最後の通過地点を越えたらやってくるこの夢の敵。
早く目覚めたい。こんな夢なんて見たくない。早く目覚めないと現実であの子が待っている。
だけど、夢は好きなところで終わってはくれない。その代わり、夢は必ずどこかで終了する。僕は夢を終了させれば目覚めることが出来る。
一日の、三分の一すら使わない睡眠時間がこんな悪夢ばかり。
どれだけ現実が素晴らしいものか、寝る時間が惜しいってテレビの番組で言っていたのに同感。
だから僕にはこの世界を終わらせれる力がある。誰もが夢の世界で超人のように、夢の住人として実感している僕には力がある。
願えばなかった事になる、夢見たいな力が。例え何度こんな悪夢に魘されようと僕は起きれる。
五つ目を超え――ひた、タン!、ひた、タン!僕の足音に重なって現れる、この夢の敵。
長い廊下を突き当たり、左に曲がってさらに先にある階段を上って、今回もそれは横滑りに片手で体を支えながら現れた。
「帰させてもらうわよ」
言うこと為すこと全てが前と同じ。ただマフラーを着けていないのが前と異なる。
「無駄だよ。僕に敵いっこない」
〈視〉で敵を睨む。徐々に一点に集まる焦点が――。
「起きろ!」
――夢を終わらせた。




