第1話〔ゆめみたせつな〕①
風が吹いた。私のような手応えのない清風。
入れ替わり路地から虚人が横を通り過ぎる。
もしそれが害なら、私は虚ろを望むだろう。
――誰が望まなくとも。
*
八月半ば、両親から手紙が送られてきた。
今年の夏はとにかく暑かった。体中の血液が沸騰して、科学反応でも起きそうなくらい、熱かった。
私は回りくどいのが嫌いだから、これ以上暑さについて語るのは止めることにする。暑いものは、熱いのだから。
家屋にこれといって目立った過程はない。しかし、家庭には他では味わえない家庭内事情が突き出ていた。
私の住む城はボロのアパート。風呂とトイレが共同でない立派な財産を保持している。
自宅までは、いつ崩れても奇怪しくない門を潜り、銅なのか鉄なのかも分からないほど赤錆びた階段を上った、高度五メートルから見える茜空カーテンに彩られた風塵の舞う石路の先――。
――草臥れた扉に付いている、郵便口に手紙が。
水緒刹那様と宛名が書かれているだけで、誰が贈ったプレゼントか立証できる記入のない紙が、四畳半、風呂とトイレ付きの自宅に招かれた。
この前みたいな耐久度の弱い箱でないことを願い。鞄を玄関脇に置いてある、ダンボール箱の上に預ける。
疲れが心休まる自室に戻って、一気に増す。
今日までだから我慢だ。
扉を全開にしたい湿度に対抗するは、壊れかかった窓を全開した自慢のクーラー。そう、自然の冷房を設備しているのだ。
やっと、供物を拝見する為の準備が整った。
部屋の中心に置かれた丸テーブルに、空っぽの封筒が落ちる。
さてここまでくると、私が何者なのか誰もが分かることだ。
そう、私は一国の姫とは程遠い、一人暮らしの貧乏女子高生。
成績にして中。外見はそこそこ、散髪に行けない間に伸びた髪は後ろに一括りにしてあるし、普段着の制服は毎日手入れしている。
付け加えれば五回程、男子から好意を打ち明けられた談を持っている。ちなみに、一度も好意は受け取ってはいない。
何故なら、私は姫なのだ。長鼻に思えるだろうけど、違う。私は自分が、ちやほやされるとは思っていない。
だからこそ姫なのだ。十八年の生涯を通して、色褪せず夢見る私の王子様に身を捧げることこそが、華の乙女が誰にも心を許さない已むない理由でしたとさ。
「――情けない」
怒りは言葉になって自分に向けられた。
私は何度もこんな情けない夢物語を思い、思い、想い、想い描いては繰り返し、自暴自棄に。
高校生活をいまさっき終えた今日は……、特に。
こんなことならあの時、ちゃんと返事しておけば――。
――もうここまでにしよう。
回りくどいのは嫌い。それに私はこの手紙を読んで遣らなければいけない。なにせ、ここに住んで以来、勧誘チラシや安売りチラシ以外での初めてのお客様なのだから。
そして、立ったままで四つ折りの手紙を開く――。
額から落ちた汗が紙に斑点を浮かび上がらせる。紙を持つ手の力で出来た皺が、質の悪い紙に描く曲線の芸術。脅威で震えが作品を描く上での重要な動作。
――これ以上は私が持たないので、茶ら毛は終いにしよう。
手紙は両親からだった。
私の家庭内事情で、もっとも重要なポイントが親。普通に考えて十八歳の娘、こんなボロアパートに住み、門限もルールもない、親からとやかく言われることのない、最高の生活が実現されているのは、大問題。
実際は、好き勝手出来るこの生活に不服はあっても不満はない。
オーストラリアで楽しくやっている二人のことが、手紙には長々と書かれていた。
父の仕事は海外出張がもっぱらで、一箇所に半年以上駐在した記憶がない。
そんな生活ばかり送っていたからか、高校に入ると同時に親の下を離れ、一人暮らしを始めて現在この現状。
親こそ生涯に置いての最大の難。私を縛る鎖は親の尾。
迷惑極まりない。さっそく電話を掛けて、果てしない文句を言い続けたいのは山々だが、親は仕事用しか携帯を持っていない。
もちろん番号なんて知らない。毎日寝る場所を変えるから、探したくても探せないし、探す気もない。
だから連絡手段はいつも手紙。今日みたいに一方的な手紙と、たまに送られてくる紙通でしか、親と連絡が取れない。今回は紙通が同封されていないから送り返すことも出来ない、さすが母。
私はさっきから体を駆け巡る血液を沸騰させないようにしている原因の行を読み返した。
歳に似合わない丸々とした字からそれは始まる。
『八月二十七日、下の住所に建っている家に行きなさい。そこに、母さん達が決めた貴方の許婚が住んでいます。都合によりアパートは、その日から来年まで住むことができません。無駄な抵抗はしないこと。荷物は後で発送するよう手配しておきます。必要な物だけ持って行ってください。追申、怒ると老けるわよ。母より』
どうやら私事、刹那の恋は本格に終末を迎えそうだ。
晴天の空。日差しはアスファルトに反射して、肌を焼く。
八月後期とは思えない暑さ。どれだけ太陽を破壊出来るものならばと、思ったか分からない。
この暑っ苦しい日が私の夢が、夢でなくなる日。
住所が書かれた紙を持つ手の脈が、やけに流れが速く感じる。
あれから私の生活は、誰かに背押しされているような速度で過ぎ去った。住んでいた私の城は改装の為一時退室。来年までは住めないらしい。つまり、今年は帰れない。
けど諦めない。例え夢の王子様が私を訪れてくれなくとも、最後の最後まで、全力で恋をしてやるんだと、何度も何度も、言い聞かせた。
その御蔭で、今日が昨日に、昨日が先週になっていた私の体内時計が、今に追いついた頃、やっと想い耽っていた意識が現実を理解し始めた。
これからが始まりだ。宣告を受けた乙女の、観るも無残な涙涙の物語、なのに。さっそく、ここの土地は私を拒んでいた。
住んでいたアパートとの周辺とは、比べ物にならないマンションだらけの都会。そこに無理矢理に建っている古臭い喫茶店。外から店内が窺えるガラスのウィンドウは、なんの施しもされていない透明。いつの時代の名残か、来客を知らせるベル式の扉が、外から見えるほど透明度を最大限に活かしている。
だからと言って売り上げに影響はないのか、古臭い外装からはなんともいえない客風と客数。
だからって、この店がどうなろうと私には関係ないことだ。
目線は、取り壊し前にしか見えない廃ビル一階の、喫茶店からさらに上――。
色すら塗っていない灰色コンクリートの壁。側面に建っている高層ビルに、今にも潰されそうな草臥れた三階建てのビル。二階と三階の外壁には窓が三つずつ備え付けられているが、そこから覗けるほど身長が高くもなければ、覗きの趣味だってない。
中に入るには、喫茶店となっている一階の脇に設置されている、階段を上るしかなさそうだ。
「帰ろうかな……」何かに救助を求めた、寂れ声が漏れた。
最初の一歩を気持ちで踏み締めた。次の歩は何も持たない。
三階まで伸びている直階段は、休憩の妥協を許さず。垂直に近い急な角度が、落下しているような幻覚を苛む。
エレベーターが普及した時代に不釣合いな負担は、体よりも心理的なものを折り。肩に得も知れぬ重荷を乗せたままで、心霊専門と白字で書かれた扉の前に到着した。
もやもやとした模様の付いた型板ガラス越しの曇った景。
それだけだ――。
――きっと中には予想外の展開が待っている。
そう、翌々考えてみれば許婚。運命と思えば、それはそれで思えなくもないのに、扉に掛けた手は不満ばかりで、鈍い音立て開く。
最初は手、次は顔、機械的な冷風が表皮の熱気を急速で冷やす。
外壁と同じ飾り気のない灰色の壁。向かい合った事務用の平机が計四つ、四角に揃えて並べられ、離れた位置に一つだけ置かれている平机。作業員がいない子会社の事務室を想わせる。
しかし、周りに書類などが入った棚類は見当たず。嫌味なくらい清潔で広々とした、そんな色のない部屋に意外と高級そうな黒皮の二人掛けソファー。
来客用に用意された筈のそこに、堂々と寝転がっている非礼者。
靴は下地を汚さないよう肘掛けの外で組まれ。逆の肘掛を枕代わりに、窓の風景を眺めている間にウトウトと……。
それが記念すべき日に出くわした、最初の人間。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て座って良いですよ。お嬢さん」
――驚いた。寝ていると思っていたのに、起きていた。
驚いたのはそれだけじゃない。確認した訳じゃないけど、声と雰囲気からして男らしき人物は、ソファーに寝転んだままで体勢を変えず、私が女であることを当てた。
声を出した覚えはないし、姿を見られたとも思えない……。
「そんなに不思議? 扉に書いてあったと思うけど、ここはそういうところ。と言っても、面を向かないで話すのは失礼だ。こっちに来てもらえると、ゆっくり話しができるんだけど」
危険性はいまのところ見当たらない。
そもそも、危険なところに冒険しに来たつもりはない。だから警戒は必要ないって、頭では分かっていても返事は無言。足取り静かに近づき、座り直した男の前に着席。
先ず驚いたのは髪。後ろからだと気にもしなかった髪は、前面から対面することで、初めて気持ち悪いくらい長いことを知った。
前髪は、左目だけを完全に消してしまうほど長く。顔の上半面を黒色が覆い隠す。
それが見た目だけじゃなく、男の性格を根暗に魅せている。
前に、友達の彼氏で似た髪型した人を見たことがあるけど、いわゆる左右不対称。アシンメトリーの髪型をしている人は少なくはない。しかしこれはどう見てもバランスが悪い。
歳は二十代に見えなくもないが、外見が外見だけに、難問。
真っ白なTシャツは、座っているのに膝下が隠れる裾の長さ。
これも着用している人物にはバランスが悪い。
染み跡や汚れがないところが、ギリギリの境界線。もしも、汗で脇下に円を描いていたら、どういう関係であれ、一目散に逃げ帰るところだった。
「率直に聞くけど、どうしてここに?」
つもりは予想通り、予想外の展開が待ち構えていたってこと。
「両親から手紙が送られてきて、ここに来るようにと」
母と父のことだ。詳しい事情を相手に知らせていないくらいはあるだろうと、持ってきた手紙を無言で受け取った男は目を通し終えた後、口を開く。
「きみ、霊力の素養を?」
「互学歴でS判定を持ってます」
素養は霊力の鍛錬精度、成績を聞く時に使われる。学歴はいうまでもなく、学校での成績。
私は大半が人並み以下の代わりに、霊学だけが飛び抜けて高い。
結果、学歴でS判定。
つまり、それだけで三年生を前半にして、卒業単位を取ってしまうほど優秀ということ。かといって、何度も読み返した手紙の内容に、繋がりがあったとは思えないけど。
男は何度か私と手紙を見て、何かを確かめたかのように言う。
「優秀だ。だからだね」
私は回りくどいのが嫌いだ。
「どういうことか率直に、お願いします」
「うん、そうだね。ぐだぐだ話すのは嫌いだ。だから、率直に説明するよ」
揺れた髪の間から、ちらりと見えた笑みが意外と可愛い。
「手紙を読んだところ、君の親は俺の両親の会社で働いていたことがあったらしい。どうして君の親に付いて分かったか、それはこの手紙。これは俺が両親にあげた特別な用紙で、霊波に反応してもう一つの文面が浮き出てくるようになっている。俺の両親が書いた手紙が、その面に書かれていた」
確かに幼い時、日本の工場で働いていたことがあると、両親が何気なく言ったことがあった。こんな状況でなければ一々思い出したりはしなかっただろう。
第一、人当たりの良い両親の友人関係に気を留めていたら、語学を学ぶだけで一生が終わってしまう。
取り合えず、事情は大体は分かってきた。けど、それが霊学になんの関係があるのだろうか。
「素養に付いて聞いた理由は二つ。一つは、この紙に書かれていた内容の確認。もう一つは、紙の秘密に気づかなかった理由を説明する為」
割れ物でも扱うように、手紙がわざわざこちら側から見えやすい正しい方を向いてそっとテーブルに差し出される。
内容は特に変わっていない。いつまで若い気でいるのかと思う、母の丸々とした文体が並んでいるだけ。
「この紙はコツさえ知っていれば誰にでも見れるように細工してある、と同時に、素養が有る人間には気づかれない細工も。それで、君に素養が有るか、聞いた」
さっきから、順序よく進めてくれているのは分かる。けして私を馬鹿にしている訳じゃない。これがこの人の喋り方。
――なら私は、速く事実の根源を望む。
「この手紙は細工してあって、私に読めない文面がある。その文面に、私がここに来た理由が書かれている。なら、ここに来なければいけなかった理由、教えてください。こっちはずっ、と振り回されて、頭にきてるんです――!」
「随分焦ってるね。無理もないか。ま、これ以上の説明は要らないみたいだし、簡潔に述べるから、しっかり聞いておくことだ」
男の指が、何も書かれていない用せん上部空白の部分を微量な力で押す。そしてトントンと二度、頭を打ち付け。
「今日から来年の一月まで、君にはここで働いて貰う。それが両方の親が決めた、依頼。それが手紙に書かれていた真相」
馬鹿げた真相に理性は天井を突き抜け、遥か空をも超えて大爆発した。
「ふざけんじゃないわよ! こっちは卒業まで学校にも行けず泣きそうだっていうのにッ。親の都合でこんな時代遅れまっしぐらな場所に、わざ、わざ、出向いて! その仕打ちがこんな暗そうな奴の下働きですって!? 私を、なんだと思ってるのよ!」
まだまだ言い足りぬ言葉が、腹の底から這い上がってきて何度も口元から吹き零れそうになった。けど、それ以上は言えない。自分でも覚えていない分を勢いで言い切ったんだ。
言い切って、――静寂。
そして――理性が帰還。
そして――挙動で無私。
酸素の詰まっていない空気が、あっと雑ざって真っ白になった時間を修復しようと、口から漏れた。
そんな軽重な音では、当然時が再生する訳もなく。罪悪感は、後悔するよりも先に被害者であることを必死に肯定する言葉を捜し始める。
一秒でも速く何かを言いたい。一秒でも速く相手の言葉が聞きたくて――次から次へと、くだらない考えばかりが浮かんでは、良いも悪いも次の候補と交代。
そして、願い叶って刻は動き出した。
「言いたいことは全部言い切った方が楽になる。もう、他になにか聞きたいことや言いたいことはない?」
心配は勝手な嫌悪を脹らまして凋んだ。
らしくない動揺に、今更になって自分がムカつく。そもそも、声を張り上げ自分を中傷した相手に対して〝他になにかないの?〟なんて、漫画の登場人物みたいなことを言う奴がいるなんて……。
いつのまにか怪奇現象か何かで、世の中が奇怪しくなってしまったとしか思えない。
それなら、口を開いたままだったことに気づいた自分が、間抜けだとは思わなかったのに。
虚実に思えてくる現実に、煮えくり返っていた脳は座り直していく途中で沈下していった。ここ数日の間、隅に追いやられていた苛立ちと一緒に。
極端な感情の影響を受けていない普段の私が着席。
――そして分かった。この男は一目で話し手の感情が高ぶっていることに気づき。まともな会話が出来ないと気づいたんだ、と。
何故そう思うか――、それは勘。
そう、女と言う名の勘が、教えてくれてる気がするから。
「一つだけ……、一つだけ教えてよ」
真っ白になって爽快した気分の私に、男はどうぞと答えた。
「私は、私は許婚と会う為にここにやって来た。両親は変わり者だから、貴方が言ってることが嘘とは思わない。けど、ここに来た理由が本当にそれだけなのか、確かめる手段はないの?」
「そうだね。この手紙が君に送られたなら、俺の親が君の親と接触したってことだ。俺の親に連絡を取れば、もしかしたら確認が取れるかもしれない。少し待っていてくれるかな、電話するから」
ズボンの後ろから携帯を取り出しながら立ち上がった男が、画面を見ながら部屋から出て行く。
誰も居なくなった空間に安心しての、深呼吸。
そういえば、なんていうん名前だろう。働くことになっているなら、働くしかない。だったら名前は知りたい。帰ってきたら一番に聞こう。
本当は今回の件を断って、友達のところにでも居候しようと思って来たけど、不思議と居てもいいかなと、思ってたりする。
どうもこの一週間の間に、私は何度か転生したみたいだ。そうでなければ、あんな暗男の下で働かなければいけないことに対し、心では嫌がっても行動に移さないなんて、ある訳がない。
勢い良く扉が開いた。扉は壁に跳ね返り弱々しい音を立てて自動で閉まり。
何か頭を抱えながら帰ってきた男が、再び向かいの席に座る。
「えっと……ちょっと説明しにくいから、これを……」
差し出された携帯を受け取ると、男は両膝の上から両手の甲をぶら下げて、意味深そうな溜め息を吐いてから、受話相手と通話するよう、片方の手で促す。
画面には通話中と表示されている。誰かが、今か今かと私の声を待ち続けているのは明白。
見たことない物を見るように、受話の穴を確かめ、耳に押し当てた。いつからか〝もしもし〟と日常化した言葉を境に、姿の見えない相手との会話が、声を立てて始まる。
『もしもし、貴方が刹那ちゃん?』
声だけなら幼く聞こえる母と違って、上品で優しそうな女性の声が受話機から透る。
「そうですけど……」
『洸から話しは聞きました。話しの流れでは刹那ちゃんは働くって事になってるのね?』
どう返事を返そうかと考えている内に、話しは進む。
『ごめんなさい、息子はあまり人と接するのが上手じゃないの。だから私が代わりに言うわね。刹那ちゃんが洸のところに来た理由は手紙に書かれた内容で合ってるのよ。働くというのは表沙汰、一緒にいるならそれくらいはしてもらわないとね。幸い、刹那ちゃんは洸の仕事を手伝えるみたいだから』
「えっ……それって、どういう……?」
『私達で勝手に決めてしまったことは本当に申し訳ないと思っているのよ。けど家の子、そんな性格でしょう。この先こんな機会があるとは思えなくて、ついつい再会の喜びからそういう話しに進展してしまって。刹那ちゃんには御両親から手紙が届いてるわよね? 洸には、私から電話でもと思っていたんだけど、うっかり電話するの忘れてしまってたのよ。だから、洸はなにも知らないの』
急旋回の連続に、耐え切れなくなった心臓が、弾けそうなくらい振動している。
『刹那ちゃんには、洸の許婚として仕事を手伝って欲しいの。それで、刹那ちゃんが高校を卒業したら、式を挙げるっていうのが、私達が決めた約束なの』
余裕のない動揺が、話しを窺っている男の顔へと逃げる。
「その顔だと、事情は理解できたみたいだね。どうもそういうことらしい。ったく、余計なことをしてくれたもんだ……」
――無意識の内に耳から携帯を離していた。
――遠くで誰かが、私の名を呼んでるような気がする。
冷えた麦茶を喉に一気に流し込んだ。それで胃の辺りから上がってきそうだった蟠りが、熱を下げる。
空のコップを、置いてあった場所に出来た水円の上に置く。
「どう、落ち着いた?」
「だいぶ……、ありがとう。……、えっと……」
「俺の名は洸。あまり名前を教えるのは好きじゃないんだけど、君に対してそうはいかないからね」
「私の名前は君じゃなくて、刹那。先に言うけど、ちゃんとかさんとかは付けないでね。寒気がするから」
「分かった。俺も洸って呼んでくれたらいいから」
「言われなくても、そうするつもりです」
「なら、いいけど。――さ、行こうか」
腿の上に手を置いて、よっ、と立ち上がるマイペースな男。
咄嗟に中腰の姿勢をとった腰の筋が、長時間の着席で溜まった重の解放で軋むように痛む。
「ちょ、ちょっと待ってよ――行くってどこに?」
「どこって、ここの一個上、三階に行くんだけど。ここに居たいなら居てもらっても俺は問題ないけどね」
なんか言い方にムっとする。
「その三階に、なにがあるっていうのよ」
問題が纏まり、落着したものの、残ったのは不満という八つ当たりでしかなかった。
固より口調は刺々しいくらいが丁度好い。
美男でなく暗男。豪邸でなく廃ビル。優男でなく痩せ男。こんな三大要素が盛り込まれた奴との許婚を決められて、誰が喜ぶ。
「三階は俺の自宅。ここは俺の仕事場。ま、これからのことは上で話そう。それとも刹那〝ちゃん〟を無視して、勝手にやらしてもらってもいいの?」
これは相手からの挑戦、そう受け取ろう。
「なら回りくどい言い方しないでよね。そういうの、性格から影響してるんじゃないの」
「ま、そんなところ。で俺は上に行くけど、来るなら来るんだね。置いて行かれたとかで、発狂だけは止めて欲しいが」
「洸〝さん〟って、根に持つタイプなんですね」
「それなりに、一週間も溜めてた人には、敵わないけどね。ほら、行くよ」
開いた扉に半身が隠れた。これでは睨みつけて話すことも出来ない。どうやら、相手はかなりやり手のようだ。
――上等。後で、土下座したくなるほど後悔させてやる。
急いで追いかけた先導者の背中に浮かぶ、理想の光景。
喜びから頬と口元がツリ上がって痙攣する。どうにかして三階までにそれを正常に戻そうと、手で頬を摩りながら、上る。
扉の先は、板張りの廊下だった。靴箱は箱じゃないし壁から接がれた砂はどこにも落ちていない。まるで金持ち芸能人が住んでいそうなマンションの一室。
それが、扉を開ければ直ぐ自室。月に一度は近くのスーパーでダンボール箱を貰う、私の城。1K風呂とトイレ付きから、玄関からは数えられない部屋数と、コインランドリーに行かなくて済む、ベランダの在る生活に立ち入った観想。
生憎、ベランダからは都会に建てられた壁しか見えないが、そんなものはなんの負傷もない。
「おーい、大丈夫?」
食卓テーブルを間に、向かい合って座ったまま、衝撃を受けていた自我が現実に引き戻される。
「なにに驚いてたのかは知らないけど。さっきからこれからに付いての話しをしてたんだけど、頭に入ってなかった?」
「し、失礼なこと言うわね。ちゃんと聞いてたわよ」
「だったら、なんて言ったか言えるの?」
ここで答えられなければ馬鹿にされてしまう。かといって、実際は話しをしていたのかさえ、覚えていない。
当てずっぽうに答えるしかないとしても、適当なことを言うわけにはいかない。ここは慎重に、見事的中させ、頭を下げさせる方向へ持っていってやる。
「これからの私達のことについて話しをしようとしたことよね?」
「そうだね」と、軽い返事。完璧に洸は墓穴を掘った。
結局、私が一枚上手。今の会話からして答えは出たも同然。
同居人と〝これから〟について話しをする、ときたら一つ。互いの役割を決めること以外に、考え付かない。
「出来ることはするけど、嫌なことは絶対にしないからね、私」
へー、関心の声が上がった。見事に的中、さすが私。
「そこまでちゃんと考えているんだ、偉い偉い。なら掃除と食事の担当をしてもらうよ。わざわざ、先に切り出してもらって悪いね」
「えっ、違うの!?」
「違うもなにも、これから話そうとしてただけだから。話題なんて一つも出してなかった。いったいなにを聞いてそんなこと言ったのかは知らないけど、助かるよ」
「な――、……は、計ったわね」
「人聞き悪いな。聞いてなかった、そっちが悪い」
確かに、私に被害者振る権利はない……。
「な、なによさっきから! 私になにか恨みでもあるっての!?」
立ち上って講義する意思は、拳を握り込む。
「気分を悪くしたなら謝るよ、ごめん。君と出会ってから三時間しか経っていないけど、性格は大体分かってる。から、ハッキリと言わせてもらう。俺は君と和気藹々やっていく気はない。結婚に関しては毛頭にない」
握り込む拳が力を増す。
「だったらなんで私なんか呼んだのよ!」
「俺が呼んだんじゃない、呼んだのは双方の親だ。ま、そんなこと今はどうでもいい。君に帰る家がないことは知っている。だから、面倒は見るつもりだ。もちろん来年まで、それ以上は関与しない。だから許婚なんて迷惑、君もそうだろ。ま、どっちにしろ、俺は御断りだ」
あまりの悔しさに噛み締めていた歯がギっと鳴る。
「分かってるじゃない。こっちだって、アンタみたいな奴と結婚なんかしたくないし、許婚なんて思われるだけで寒気が立つわ」
「気が合うね。これで関係を保てるって訳だ。互いを極力干渉しない。仕事の方は、母さんがああは言ってたけど、手伝ってくれなくて結構。それで良いね?」
「なんか勘違いしてない。干渉しないとか、手伝わなくてもいいとか、――ぬるいのよ」
「だったらどうしたいっていうんだ?」
「どうもこうもしないわ。こんなところ、今直ぐに、出て行く!」
立ち上がった拍子に椅子が後ろに倒れた。そのまま、玄関へ続く扉を壊れんばかりの勢いで開け放つ。
「行くって、どこに? 行くところなんてないだろ。意地だけでは生きていけない世の中なんだ。大人しくここに居た方がいい」
「お気遣いなく――! ここより素晴しくて、豪華な場所を知っていますから!」
ノブを壊すつもりで廊下と部屋を遮る扉を閉め、玄関を出ると、そこはさっきまでの、廃ビルの三階だった。
結局この街で私を歓迎してくれるのは、肌に張り付く冷たい風だけのようだ。
*
彼女は忘れてしまった、私のことを。私も忘れてしまった。どれだけの人が、私に気づかず逝ってしまったのかを。
赤と青は点滅を繰り返すばかりでつまらない。
人が好き好んで通る白線の数を数えるのは、ずっと前に飽きた。
ああ、いつになれば私は彼女のところに戻れるのだろう。
「あ――」視つけた。
路地から虚ろが、肩を垂らして出てきた。どうやら、会社帰りのサラリーマンのようだった。両手で支えているのに、体は鞄の重さに負けて、前のめりになって生気のない足取り。
この前より明らかに強い虚心を感じる。
これから始まる遊戯に興奮して、私は唇を舌で舐めた。
獲物は真っ直ぐに、こっちに向かって来る。どうやら彼の魂がそれを望んでいる。頼んでもいないのに、礼儀が正しい。
「どうせ死者なんでしょう」
彼は私の言葉など耳に入っていない。いえ、聞こえない。
他に誰も居ない。距離にして五メートル。それでも彼は私の声など聞こえていない。
「もしもし私だけど」
残り僅か三メートルというところで、彼は立ち止まった。
「ああ、今帰ってるところだよ。もうすぐ家に着く」
いつ出したのか、携帯を耳に押し当て誰かと通話している。
恐らくは彼の妻。どうせ、遅い帰りに腹を立てた女が、鍵を閉めて、先に床につく報告に違いない。
仕方ない。最後くらいは好きにさせてあげよう。
「ああ、ああ、いつものところに入れて置いてくれ」
三メートルの距離。こっちから出向くことも考えてみるが、それほど楽しい相手とも思えない。それに私は優しい。哀す妻との会話が最後なら、彼も悔いなど残さずに逝く。
「では切るよ。ああ、分かった」
ピッ――。
携帯を胸ポケットに直した彼の寿命は、音を立てて縮まる。
あと二メートル――あと一メートル――。
――彼は私の横を過ぎた。
そのまま、どこかの曲がり角を曲がって、姿を消した。
それで好い、彼は面白くない、こっちのが好い。
唇を舐めた。
「御馬鹿さんね。態々身代わりになろうとでも言うの?」
確実に私の声は聞こえている。だけど返事は返らない。
「可愛がってあげるわね」
彼は見逃した。けど本の数時間だけ、死者を続ける時間が延びただけだ。それでも――。
――構わない。
――何故なら。
――最高なの。
だから、代わりとなったこの獲物に感謝して帰りなさい。