幸福論者
バス片道1時間。山奥の田舎に住んでいるわたしは毎日この時間をかけて駅まで行っている。わたしの勤務先は現場職で定年近いわたしによってかなり辛い仕事だった。女房と1人娘の3人暮らし。日々辛い仕事のみで「幸せ」という言葉からはほぼ無縁の生活を送っていた。家族との会話も減り、このような生活がいつまで続くのかと嫌気がさしてきた時期でもあった。そう、あのような出来事が起こるまでは、、、
わたしはいつもと同じように1時間に一本しかでないバスに乗りいつものように後ろの座席に腰かけた。その時だった。突然嵐のように訪れた悪夢襲われた。腹痛。
「なんかやばいもんでも食ったのか?」
そう思って考えるがなにも思い当たらない。
それどころではなかった。泣き叫ぶような痛みではないが、平然を装うようなことはできない。岩が腹の中に居座るようなどうしようもない痛み。
「ううぅ」
その痛みは止まることを知らず、さらに痛みがます。額にはあせが滲んできた。呼吸もまともにできない。腹をさする。できる限りのことは全力で行った。その甲斐あってか痛みは少しずつ引いてきたが、油断はできない。そう、腹痛には波がある。絶頂期から少しずつ引いていく痛みに安堵の息をつく。次いつくるかわからない恐怖とともにわたしをのせたバスは山を下っていく。
「次は〜大池。次は〜大池お降りの方は…」
そこまでのアナウンスを聞いた時とほぼ同時に第2ラウンドが始まった。
再びやってきた悪夢はとうとう禁断の武器を手にしていた。そう、「便意」である。
わたしはこれほどの地獄を味わったことはない。一時間に一本のみのこのバスを降りる訳にもいかず、まさか漏らす訳にもいかない。
こんな田舎の地で漏らすというような事件がおこればその噂はすぐさま広がり近所の人と顔すら合わせられなくなり女房にも娘にも迷惑をかけてしまう恐れもある。それだけは許せなかった。
「次は〜中河原。中河原…」
薄れゆく意識のなか聞いたアナウンスがさらに絶望に突き堕とす。まだ半分も行っていない。「漏らすか…」一瞬そんな言葉が脳裏に浮かぶがすぐに消す。それだけは許されないのだしかし、肛門も限界に近づいている。
携帯をいじっている学生、ヘッドホンで音楽を聞いている男性、化粧をしている女性、寝ているデブ…そのすべてが羨ましいかった、
なにもよりも羨ましかった。まさかこの中の誰も今わたしが死闘を繰り広げているなどと思ってはいないだろう。
なぜわたしが…
涙ぐんできた目を袖で拭う。いつの間にか腹痛は少し弱まってきた。それもあってか便意がさらに脅威をます。普段ならばこの道などすぐについて地獄のような仕事が始まる。
しかし地獄に行く前の地獄。
「次は〜白川3丁目、次…」
生き地獄とはまさにこのこと。
バスははやっと商店街に出始めた。
あと少し…
この油断がまずかった。一瞬緩んだその隙になだれ込む悪夢。容赦なんて言葉はなかった。もうすぐそこまできている。汗が頬をつたる。赤信号。普段はそれはなんとなくだか嬉しかった。しかし今はまるで違う。呼吸も荒れてきてるなか青信号に変わり出発した瞬間、第3ラウンドの鐘が鳴り響く。限界なんてもうすでに突破していた。気力。それがわたしと未来をつなぐ唯一の光だった。後輩に怒鳴られ働き続け鍛えてきた精神力が今になってわたしを首皮一枚繋ぎ止めていた。
「次は〜終点…」
この言葉だけで良かった。涙が出てきたのは嬉しかったからなのだろうかそれとも自分の体な悲鳴をあげているのか、そんなことどうでもよかった。すぐに立ち上がり1番に降りれるようバスの中の先頭まで必死で歩いた。携帯をしている学生にぶつかり、睨まれたが関係なかった。
「プシュー」
ドアが開くと同時にわたしは駆け出した。少年の日のように社会という常識の鎖をはねのけ、笑われようが罵られようが今のわたしにはどうでもいいことだった。
個室に入った。
そこはまるで楽園だった。
色とりどりの花たちが太陽の恵をうけ楽しそうに踊っている。その周りには優雅に合唱する小鳥たち。時折吹く風が花びらを散らし、どこからともなく聞こえる歌声。
「幸せ」
わたしは無意識にそう言った。
何気ない日常、それこそが本当の幸せだったのかもしれない。
幸せを追い求めることが大切なんかじゃない。一人一人に与えられた幸せ。それに気づく事こそが本当に大切なことで、それこそが本当の幸せなのだ。
これから辛い仕事があれば終われば帰る家がある。可愛らしい娘に会える。
そうだ今日は早めに帰ってみんなで食卓を囲もう。
男はそんなことを考えながら、切符を改札に通し軽やかな足でホームへと向かった。