秀吉の死 ~三成の場合~
慶長3(1598)年、伏見城にて、天下人 豊臣秀吉が病死した。
五奉行の筆頭格 石田三成はその訃報を聞き、悲しみと共に、とあることが気掛かりになった。豊臣政権の今後である。
次期当主は秀頼と決まってはいるが、まだ5歳である。当然、関白殿(秀吉)の遺言通り、徳川家康を筆頭とする五大老と五奉行が、しっかり支えていかなくてはならないのだが...、と三成は頭を抱えてしまった。
「殿、博多へ行く準備は整ったのですか?」
顔を上げると家臣である渡辺勘兵衛が目の前にいた。
「あぁ。正直、行きたくはないんだがな...」
「やはり会いたくはないですか、主戦派と。」
主戦派とは、朝鮮出兵賛成派のことである。当時、三成は反対派で、主戦派である加藤清正を些細な理由で朝鮮から帰国させたのだった。そのため、主戦派はおろか、特に清正に至っては、深い恨みを持っていた。
「勿論それもある。しかし、朝鮮からの撤収は仕事である以上、やり遂げなければならない。心配なのは家康の動向だ。経済力と知恵があり、関白殿が講和を持ち込むまで反抗していた奴だからな。利家(前田利家)殿がうまく抑えていただければよいのだが。」
利家殿のみに頼るほど五大老は力が偏ってるのか、家康に、と三成はため息が漏れてしまった。
「勘兵衛よ、私が博多へ行っている間、家康の動向を見ててくれ。万が一、不審な行動があれば知らせてくれ。」
「御意」
勘兵衛の威勢のいい声が響いた。その声に押されるように、三成は博多へ向かった。