5 公爵令嬢の表と裏 Ⅲ
「捨てた……? 俺が、いつ」
レオンさんの怜悧な視線がカミーラさんに向けられ、カミーラさんは凍りついています。
「説明しろよ、カミーラ。何でそうなったんだ」
「何でって……別に……」
しどろもどろになったカミーラさんの声をかき消すように、ゲルタさんの声が響き渡ります。
「嘘だったのよ」
カミーラさんに集まっていた視線が、僕の後ろに立つゲルタさんに一瞬のうちに移っていきました。
「カミーラがレオンと付き合ってるっていう話、嘘だったの」
「はっあ――?」
アーレクさんの口から洩れる嘲笑。
「何言ってるの。口を慎みなさいよ、ゲルタ。……あなた達は邸内に戻りなさい」
周囲に立つ召使いに命じ、カミーラさんは怒りのこもった顔をゲルタさんに向けましたが、ゲルタさんはやめません。
皆の注目を浴びたゲルタさんは頬を紅潮させ、召使いたちが屋敷に戻るのを待たず、舞台に立つ役者のように朗々と話し始めました。
「最初はカミーラの小さな嘘だったの。レオンとランチに出掛けた後、わたしやマチルダが興味深々だったから、付き合うことになったって嘘をついたのよ。次のデートの約束すらないなんて、恥ずかしくて言えなかったんでしょう。自分が振られるわけないなんて、妙な自信もあったんでしょうね。でもレオンはフレデリクへの義理立てのつもりでカミーラとランチに出掛けただけだったから、カミーラと付き合うつもりなんて最初から全く無かったし、その後カミーラがしつこく言い寄っても見向きもしなかった――――でしょ?」
ゲルタさんはレオンさんに向かって言ったけれど、レオンさんは無言でした。
「ほんとなの、カミーラ? あたしたちに嘘ついてたの?」
マチルダさんが、目を剥きました。
「嘘ってほどじゃないわよ」
カミーラさんは怒りで顔を赤らめ、そっぽを向いています。
「ピクニックに行ったっていうのは? カフェは?」
「全部、カミーラの作り話よ。レオンに相手にしてもらえなくて、でもその時にはもう引っ込みがつかなくなってて、嘘に嘘を重ねたの」
そう言うゲルタさんの顔は、不思議な歓びで輝いています。友達の不幸を話してるはずなのに……。僕は、不思議な気持ちでゲルタさんの幸せそうな笑顔を見つめました。
「そういうことか。まあ、そうだろうな。カミーラ、おまえ、最低だな」
「よしなさいよ!」
マチルダさんが声を張り上げてアーレクさんを睨み、カミーラさんの腕をつかみました。
「どうしてよ、カミーラ。信じてたのに。あたしにまで嘘つくなんて」
マチルダさんの声は悲痛です。
「女どもの話は終わりだ。カミーラ、邸内に戻れ。フレデリクの跡目の話は、この次の機会にしよう。レオンに次があればだが。今はまず……」
アーレクさんが僕を一瞥し、唇を舌でぺろりと舐めました。
「エメル・フォン・リーデンベルク――――君は、こっちにおいで」
「……嫌です」
僕の隣で、レオンさんが低く笑いました。
「嫌われたな、無理もないが。銃をしまえ。俺たちを傷つけたら、放校だけでは済まないぞ」
「黙れ。普段から素行の悪いお前が、公爵邸に押し入ろうとした。それを僕が止めた。発砲は止むを得ないことだったと、ここにいる者たちが証言する。心配するな、殺しはしない。片足が不自由になるだけだ」
「わたし、証言しないから」
カミーラさんの声に、アーレクさんの口元が皮肉めいた形に歪みます。
「レオンを傷つけたら、王立裁判所に訴えてやるわ。わたしに戻れですって? なに命令してんのよ。あんたの話に乗ったわたしが馬鹿だったわ。さっさと銃をしまって、とっとと消えて。わたしはレオンと大事な話があるの」
「お前は本物の馬鹿だ。いまさらレオンがお前になびくとでも思っているのか」
「関係ないでしょ! 今すぐ消えないと、あんたの所業のすべてをお父様の耳に入れるわよ。お父様があんたを勘当する気になるまで、何から何まで全部喋ってやるから!」
涙に濡れた睫毛をしばたかせ、凄い剣幕でまくし立てるカミーラさんに気圧され、アーレクさんは僕とカミーラさんを交互に見、僕にじっと粘り着くような視線を注ぎました。
レオンさんが僕の前に立ちはだかり、
「妹に指一本触れてみろ。ただでは済まないぞ」
と僕なら心底震え上がるような顔つきで、アーレクさんに対峙します。
「銃をしまえよ、アーレク。カミーラを敵に回したのはまずかった。公爵の耳に入ったら、さすがにヤバイだろう」
カールさんが言い、アーレクさんは音が聞こえそうなほど歯をぎりぎりと食いしばり、カミーラさんに刺すような視線を向けました。
「やれるものなら、やってみろ。おまえが喋るなら、こっちも洗いざらい喋ってやる」
捨て台詞を残し、アーレクさんは引きあげて行きました。
カールさんもフランツさんも、足を引きずりながらアーレクさんの後を追って行きます。
カミーラさんは誇り高く顎を持ち上げ、レオンさんを見据えました。
「他の男たちは、わたしに言い寄って来るのに。今なら許してあげる。わたしに付き合ってくれって言いなさいよ」
「やめておく」
レオンさんの口調は、氷のように冷ややかです。
「レオン、頭がおかしいとしか思えないわ」
「その通りだよ」
肩をすくめるレオンさんの前で、カミーラさんは顎を突き上げたまま、目をぱちぱちさせて涙を堪えています。
僕ときたらレオンさんの前でいつもびくびくしているというのに、臆することなく逃げ出すことなく堂々と自分を主張できるカミーラさん。
僕の中に、カミーラさんを尊敬してしまう僕がいます。
「カミーラ、おまえに相応しい相手を探せよ。……エメル、帰ろう」
そう言うとレオンさんは、裏門に向かって歩き始めました
僕は何度も振り返りながら――――大股で去って行くカミーラさんをマチルダさんが追って行きます――――後ろ髪引かれる思いを抱えつつ、レオンさんの後を追いました。
すぐに追いついた僕を振り返り、レオンさんが深いため息をつきます。
「無事でよかった……。ここに来るまでの間、気が気ではなかったよ」
黒い瞳で僕の全身に視線を走らせ、
「怪我はないか。すべては俺のせいだ。それから……」
レオンさんは魅力的な微笑を浮かべ、僕の右手を指さしました。
「あ……」
まだ握ってた――――モップ。
それを名残惜しく地面に置いた時、僕の胸は棒術を教えてくれたパパと頑丈なモップへの感謝の気持ち、そして何とも言えない誇らしさで一杯になったんです。
僕は闘った――! 下手くそだけど、棒術で! レオンさんは喧嘩がとても強い。でも、僕もそこそこやれる。
「棒術か。いい腕をしてるよ」
レオンさんに褒められて、僕の心の中がぱあっと明るくなりました。
誇らしく胸を張る僕の頭を、レオンさんが肩に抱き寄せてくれました。まるで兄が弟の肩を抱くみたいに。
俺の妹と言ってくれて、男兄弟のような親しさを見せてくれて、レオンさんは僕を家族だと思ってくれている認めてくれていると信じられる一瞬でした。
「あの……」
声をかけられ振り向くと、ゲルタさんが立っています。レオンさんは僕から手を離し、ゲルタさんを見やりました。
「ありがとう」
レオンさんに言われ、ゲルタさんは恥ずかしそうな笑みを浮かべています。
「おまえがここにいる事を知らせてくれたのは、彼女だ」
「そうだったんですか。僕を助けてくれましたね。ありがとうございました」
僕がぺこりと頭を下げるとゲルタさんは笑みを引っ込め、レオンさんを見つめながら、逡巡するように切り出しました。
「実は……助けて頂きたいの。もうカミーラの所へは戻れないわ。力を貸して頂けませんか」
「助けとは?」
レオンさんの声が冷ややかで、僕ははっとしました。
「例えば、少しの間だけ助言を貰えるとか……。出来ることなら、守ってほしいの……」
ゲルタさんの声が、消え入るように小さくなっていきます。
僕は、カミーラさんに召使いのように飲み物の用意を命じられたゲルタさんの姿を思い出しました。
そういう事が日常的に行われているとしたら、逃げ出したくなる気持ちもわかります。
ゲルタさんだって貴族の令嬢で、ゲルタさんとカミーラさんは友だちのはずなんです。
カミーラさんはきつい性格の人で、もしかすると意地悪かもしれない―――。
「ゲルタさん、辛かったでしょうね。ずっと我慢してたんですか? カミーラさんと仲が良かった頃もあったんですか?」
僕が尋ねると、ゲルタさんは薄く微笑みました。
「最初は……そう、仲が良かったと思うわ。わたしって個性的だから、フィアに入学した頃クラスで浮いてたの。話が合うのはカミーラだけだったわ。その後マチルダがべったりくっ付いて来て、仲良し三人組になったの。そのうちマチルダがわたしを邪魔扱いし始めて……カミーラもそれに乗っかって……本当にあの二人から離れたいって思ったけど、一人でいると周りから友達のいない子って思われるでしょう?」
ゲルタさんがにっこり笑うから、僕はまた不思議な気分になりました。悲しい話なのに、どうして笑顔で話せるんでしょうか。
「女子同士の問題は、俺の手にはおえない」
レオンさんが応えると、ゲルタさんは熱のこもった視線をレオンさんに向けました。
「あなたが背後にいると知ったら、誰もわたしに手を出さないわ。守ってくださるなら、感謝します」
レオンさんは視線を公爵邸に向け、下に向け、長い睫毛をゆっくりと上げて、驚くほど冷淡な顔つきでゲルタさんを見ました。
「わかった。方法を考えよう。エメル、馬に乗れ」
裏門そばの木につないだ愛馬に向かうレオンさんの背中を、ゲルタさんがじっと見つめています。
熱いようなせつないような、その視線――――。
僕は、ぴんときました。ゲルタさんは、レオンさんが好きなんだ――――。
「わたしは? 送ってくださらないの?」
ゲルタさんが声を震わせながら言い、このままではいけないと、僕は懸命に頭を働かせました。
レオンさんの愛馬は「ネフィリム」という名で大きくて強い牡馬だけれど、人間3人を乗せるには無理があります。
僕が乗ってしまったら、ゲルタさんは置いてきぼりになるんです。
「あの、レオンさん」
僕はネフィリムに何事かを囁き首筋をぽんぽんと叩くレオンさんに駆け寄り、言いました。
「僕、用事があるんです。えっと、そのう、街を見て歩きたいんです。そうなんです、まだ一度もクラレストの街を散策してないので、街を眺めながら、歩いて帰ります」
レオンさんは何も言わずネフィリムにまたがり、ゲルタさんに手を差し出しました。
花が開くように薔薇色に染まるゲルタさんの顔。二人に背を向け、裏門に向かって歩き出す僕。
何となく悲しい気持ちになったけれど、これで良かったんだと思う。
だって兄にはいつか恋人ができるんだし、残されるのは妹の宿命です。
妹――――。弟――――。二つの言葉が、僕の頭を巡りました。
奇妙なことに、妹より弟という言葉の響きに魅力を感じます。
リーデンベルク三兄弟――――末っ子の僕。
クラレストの街を肩で風切って歩く三兄弟の姿が、僕の脳裏にありありと浮かびました。
誰もが恐れをなす、リーデンベルク三兄弟。トーニオさんとレオンさんに挟まれ、堂々と胸を張って歩く、見るからに強そうな僕。
だって僕は、闘える。武器はモップだけど。僕は、強い。
そう思うと口元の締まりがなくなって、ニマニマ笑いながら歩いていると、馬が近づいて来ました。
「何を笑ってるんだ?」
可笑しそうな声が飛ぶや腕が僕の腰に回されて、僕は軽々と抱き上げられ、馬の首にすとんと落ちました。
見上げると僕の後ろにレオンさん、その後ろにレオンさんに両手を回して横座りをしたゲルタさんがいます。
片手で僕をがっちり支え、片手で手綱を操り、レオンさんはネフィリムをゆっくりと進ませました。
レオンさんに抱き寄せられて、僕の心臓がどくんと跳ねます。
無言のまま馬は進み、公爵邸にほど近いやや小ぶりの邸宅前に着きました。
レオンさんの手につかまり、優雅な仕草で馬から降りたゲルタさんは、レオンさんを見上げて微笑んでいます。
「お茶にご招待しますわ 中に入ってくださいな。……妹さんもご一緒に」
「やめておくよ。君の護衛については考えるが、俺にできるのはそこまでだ。今日のことは感謝してる」
レオンさんの冷たい口調に、ゲルタさんの顔色がみるみる変わっていきます。
レオンさんはゲルタさんに深々と礼をし、ブーツに付いた拍車を使って、鹿毛の牡馬に進めの合図をしました。
歩き出した馬の上で、僕はゲルタさんに挨拶をしようとレオンさんの腕の中から顔を出し、凍りついてしまった。
僕を見るゲルタさんの目――――憎悪のこもった目。
どうしてそんな目で僕を見るの――――?
僕はゲルタさんに嫌われてしまったのかもしれない。でも、どうして――――?
うなだれた僕の頭上から、レオンさんの声が聞こえました。
「どうした?」
「え、あの……何でもないです」
ゲルタさんとの数少ない会話の中で、僕が彼女の気に障るようなことを言ってしまったに違いないと思いました。
言葉ってむずかしい。ほんのちょっとした言葉の選び方の差で、相手を怒らせてしまったり和ませることが出来たり。
ゲルタさんに何を言ってしまったんだろうと考えているうちに、大切な事を思い出しました。大切なパパに関わる事です。
上半身をひねりレオンさんに顔を向けたけれど、僕を見下ろすレオンさんの底知れない深淵のような黒い瞳を見たとたん、勇気が萎んでいきます。
個人的なことを尋ねたら、レオンさんは怒るかもしれない。
ゲルタさんに嫌われた上レオンさんにまで嫌われたら、立ち直れない。
その時思い出したのが、カミーラさんの雄々しい姿でした。自分を主張して砕け散り、それでもなお主張するあの果敢な姿。あの勇気。
僕はレオンさんを見上げながら、大きく息を吸い込みました。
「何をやってるんだ?」
「勇気を吸い込んでるんです」
レオンさんは、面白そうに僕を見ています。
「レオンさんは、僕のパパをどう思いますか? パパも僕も平民だし、パパがディリアさんと結婚するのは財産目当てかなって思いました?」
言い終わって緊張のあまり僕は咽喉をごくりと鳴らし、レオンさんは形のいい唇の端に微かな笑みを浮かべています。
「誰に吹き込まれたのやら。財産目当てと考えたことは、一度もないな。何故ならリーデンベルク家の財産はすべて、トーニオのものだからだ。ディリア母上は領地から上がる収益の10%と寡婦手当を受け取っているが、男爵家の財産を動かせる立場にはない」
「そうだったんですか」
財産を狙うなんて不可能だったんです。僕はほっとして、次のレオンさんの言葉に再び緊張してしまいました。
「……正直に言うが、お父上の素行について調べさせてもらったよ」
レオンさんは僕の顔をのぞき込み、すぐに視線を前に戻しました。
「申し訳ないとは思うが、息子として母親を心配するのは当然だと思う。軍の知り合いを通じて調べたが、お父上の評判はすこぶる良かった。仕事熱心で腕が立ち、人望もあって上司や部下の信頼を得ている。だがトーニオが王宮の女官から聞いた話は、最悪だった」
僕は、がっくり肩を落としました。当然と言えば当然です。浮気者ですから……パパは。
「しかし母上は俺やトーニオが何を言っても聞くような人じゃないし、何年ぶりかで見る母上の幸せそうな笑顔を見ていると結婚に反対する気持ちは薄れていったよ。大事なのは、母上が幸せになってくれることだ。新しい父上と二人で幸せになってくれたら申し分ない。その点では今のところ、文句のつけようがないと思ってるよ」
「すみません……」
僕は両手で膝をつかみ、小さくなりました。
「どうして謝るんだ」
レオンさんが、苦笑しました。
「新しい父上が母上を幸せにしてくれる。俺やトーニオがおまえを幸せにする。おまえの存在が、俺たちを幸せにしてくれる。家族ってそういうものだろ?」
見上げるとレオンさんの深みのある黒い瞳が優しくて、僕は天にも昇る気分になりました。
「レオンさん、僕を家族と認めてくれるんですね」
僕が言うと、レオンさんはうなずきました。
「ああ。……そう決めた」
決めた……?
深い意味は分かりませんが、レオンさんの温かい気持ちが伝わってきます。
家族――――。その言葉とレオンさんから伝わるものが僕の中に深く沁み入り、心を温めてくれました。
この時僕は、リーデンベルク家の一員として恥ずかしくないような人間になろうと、心に決めたんです。
リーデンベルク邸に戻ると、青ざめたアンナさんが飛んでやって来ました。
「心配しましたよ! 突然エメル様のお姿が見えなくなって、トーニオ坊ちゃまとゲイルが街中を探したんですよ」
「その通りだよ」
奥からトーニオさんが出て来て、両腕を広げて僕に歩み寄ります。
「レオンが血相変えてペテルグ公爵家に行ったって聞いて行ってみたら、来てないって使用人は言うし。あいつ、嘘ついたんだな。もしかして戻ってるかなと帰って来たら、二人ともまだ戻ってないし。これからもう一度公爵邸に行くつもりだったんだよ。心配なんてもんじゃない、不安と恐怖で頭の中が爆発しそうだったよー」
トーニオさんはそう言って、僕を力いっぱい抱きしめてくれました。トーニオさんの温もりが伝わって来て、僕はこんなに幸せでいいのかなと怖いくらいでした。
その日の夕食、僕は張り切ってスズキのポワレを作り、トマトのガスパチョとマッシュルームのマリネサラダを添えてワゴンに乗せ、胸を張って食卓に向かったんです。
「新学期が始まる前に、一度フィアに挨拶に行っておかないといけないな」
美味しいと褒めてくれた後レオンさんが言ったけれど、僕は何のことかなと思いました。
「入学するんだろ、フィアに? それとも家庭教師を雇うのか?」
「えっと……僕、近くの中等学校に行くつもりです」
僕の答を聞くなり、レオンさんとトーニオさんは顔を見合わせました。
「あのね、メイドくん。リーデンベルク家の人間は全員、フィアに通うことになってるんだよ。今日みたいなことがあったから、怖がってるのかな。大丈夫、俺達がいるから。安心してフィアに通うといいよ」
「あの、パパが……僕はラテン語を知らないし、数学が不得手だから、フィアは無理だって……」
僕は、青くなりました。リーデンベルク家の人間はフィアに通う――――。
「そんな……でも、僕の成績ではとても……。もしも授業について行けなかったら、どうなるんですか?」
「落第するんだ」
レオンさんの一言で、リーデンベルク家の一員として恥ずかしくない人間になる僕の決意は無残に砕かれ、すっかり食欲が失せてしまいました。
「今から勉強すればいい。まだ間に合う」
レオンさんは慰めてくれたけれど、僕はがっくり肩を落としたままで、
「じゃ、明日から勉強開始だね。時間割は俺たちにまかせてもらうよ」
と言うトーニオさんの言葉も、上の空でした。
夜になり、僕は部屋にモップを持ち込んで、レオンさんとトーニオさんの前で披露しました。
「二晩続けて、悪い夢も見ずぐっすり眠れました。これからは、これがあるから大丈夫。何かあっても闘えます。お二人は安心して部屋で休んでください」
モップを握って突き出す僕を見て、二人の顔が引きつっています。
とうとう我慢しきれなくなったみたいに、二人同時に笑い出しました。
「メイドくん……。世界中探しても、君ほどモップの似合う子はいないと思うよ」
「モップ裁きが見事だったよ」
僕は、困惑しました。褒められてるんでしょうか――――。
レオンさんとトーニオさんはマットレスを片付け、レオンさんは僕に、
「大丈夫か? 怖くなったらいつでも言えよ」
と言ってくれました。
トーニオさんはにやりと笑って僕に近づき、嫌な予感の僕にはおかまいなく両腕を広げます。
「メイドくんとの新婚生活が終わるなんて、せつないよー。最後にお別れのキスをするのって駄目? もちろん唇に」
「やめとけよ」
レオンさんの鋭い声に、トーニオさんは情けない表情を浮かべました。
「残念だなあ。うるさい奴がいるから、今日のところはやめておくよ」
レオンさんとトーニオさんは、仲がいいのか悪いのかよく分かりません。
今日は息が合ってるみたいだけど、時々睨み合うし……。
それでも二人は僕の憧れで、たった三歳しか年が離れていないとは思えないほど大人で、いつかはレオンさんやトーニオさんのようになりたいと思うのでした。
レオンさんとトーニオさんが、何故あれほど大人びているんだろうかと考えてみました。
僕が自分を守ろうと小さく固くなってうずくまっている間に、堂々と闘って歩き続けて来たからでしょうか。
ベッドに入るとやっぱり視線はドアに向いたけれど、僕の心は平穏でした。
何かあれば、レオンさんとトーニオさんが助けに来てくれる。
その思いは確信に近く、僕は幸せな気持ちで眠りにつきました。