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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて
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5  公爵令嬢の表と裏  Ⅱ

「黙れ、チビ」


 カミーラさんは言い放ち、呆気にとられた僕を尻目に

「ゲルタ、アイスティー! こう暑いと喉が渇いてしょうがないわ」

 とピンクのドレスを翻し、どさりとソファに座りました。


 ゲルタと呼ばれた濃い茶色の髪の令嬢がふくれっ面でソファから立ち上がり、部屋の隅にあるオーク材の家具の扉を開くと中は金属で覆われていて、飲み物やグラスが収納されています。

 冷蔵庫だと、ぴんときました。上の扉の中に氷が入っているはずです。高価な物なので、噂では聞いていたけれど見るのは初めてです。


「また会えて嬉しいよ、エメルくん」

 カミーラさんと入れ替わるようにアーレクさんが立ち上がり、僕のまわりをぐるりと回りました。

 クラバットを豪華に結び上着の袖口からレースをのぞかせて、女性的な美しい顔ではあるものの陰湿な蛇のような眼つきです。


「君が女の子だったのは残念だけど、君には僕の芸術家魂に訴えるものがあるよ。真っ白なキャンバスに、クリーム色の裸体。縄で縛られた柔肌には真紅の血が滲み、地獄の苦痛に喘ぐ少女のような少年のような顔――――いい絵が描けそうだ」

 

 アーレクさんは僕の喉を白く細い指ですっと撫で、その冷たい感触にぞっとして僕は飛び退きました。――――この人は、頭がおかしいらしい。


「アーレク、男専門のくせに。そいつ、一応、女だよ」

 とカミーラさん。とても公爵令嬢とは思えない言葉遣いです。


「今日から守備範囲を広げよう。美少年のような美少女もいいものだ。逃げようとしても無駄だよ。君はもうすぐ、僕のものになる」

 後ずさる僕を見て、アーレクさんは喉の奥で笑いました。

 

「――――で、その子のせいでレオンは俺達と手を切ることにしたのか、アーレク?」

 僕をさらった青年の片割れが、ソファの後ろで立ったまま腕組みをしています。


「他に考えられないだろう。昨夜のレオンときたら、まるで宝物を抱えるようにその子を抱いて逃げて行ったよ。レオンの気持ちも分からないわけじゃない。汗くさい野郎どもと街をほっつき歩くより、可愛い子とベッドにいる方が楽しいだろうしね」


 アーレクさんの言葉にカミーラさんの目がチカッと光り、僕を見る目つきときたら、まるで親の仇を見るようです。


「抜けたい奴は抜ければいいさ。レオンが抜けたって、アーレクが入ってくれるって言うし」

「勝手に抜けられたんじゃ、しめしがつかないだろ。第一、喧嘩もできないような奴が愚連隊に入って何の役に立つんだよ」

 ソファの後ろに立つ青年が、アーレクさんの隣に座っている僕をさらった片割れに、きつい視線を向けました。


「愚連隊はひどいよ、カール。俺達は生意気な高等学校生が街でのさばらないよう、警備してるだけさ」

「綺麗ごとを言うなよ。実態は……ああ、そうか。フランツの家は借金まみれだからな。頭の固いレオンよりアーレクの方が、金が手に入るってわけか」

「何だと……」

 フランツさんは顔色を変えてカールさんを見上げ、二人の間に険悪な空気が漂いました。


 愚連隊、喧嘩、お金――――。そこにレオンさんが関わってる。衝撃が、さざ波のように僕の胸に押し寄せて来ます。

 アンナさんが言っていたレオンさんの「悪いお仲間」とは、フランツさんやカールさん達のことなんでしょうか。

 そしてレオンさんは、「悪いお仲間」から抜けようとしているんでしょうか。……どうして急に?


「他人の借金なんて、どうでもいいわ」

 カミーラさんがゲルタさんからアイスティーを受け取り、一口飲んで僕を指さしました。

「そのチビの事情聴取、わたしにやらせてくれる約束だったわよね。出入り業者からチビの情報を手に入れて、わざわざ家までさらいに行ったんだから、当然権利はあるわよね」


 さらいに行った――――。

 僕と楽しそうにお喋りしてくれたのは、さらう為だった――――。

 僕ときたら、もしかすると友達になれるかもしれないって、うきうき期待してしまっていたんです。


「事情聴取をするまでもないだろう。レオンはおまえを捨てて、エメルに乗り換えた。それが真実だ」

「えっ……」

 僕が思わず声を出したから、全員の注目が僕に集まってしまいました。


「あの、カミーラさんは……レオンさんの恋人なんですか?」

 でも……でもトーニオさんは確か、レオンさんに恋人らしい恋人はいないって……。

 1回デートしたらそれっきりだって……。


「捨てられた恋人だよ」

 アーレクさんが重ねて言い、カミーラさんの殺気立った視線をさらりと流しています。


「言葉に気をつけてよね。わたしが捨てられるわけないじゃない」

「そうだよ。カミーラよりこんな子を選ぶ男がいるわけない。カミーラにはフィア中の男がひざまずくんだから」

 マチルダさんの口調まで変わっていて、リーデンベルク邸にいた時とは別人のようです。

 

「で、お前さ、何でわたしとレオンの邪魔するの? そんなにわたしの後釜に座りたいわけ?」 

 カミーラさんが、きつい目で僕をねめつけました。


「そんな……何のことですか。そんなこと思ってないし、僕は何もしていません」

「レオンは言ってたわ。お前のこと、財産狙いだって。あいつの母親、息子二人に何の相談もなく結婚を決めたんだって? お前もお前の父親も男爵家の財産を狙ってるんじゃないかって、あいつ、心配してたわ。財産だけじゃなくて、レオンまで狙ってるわけ?」


 僕は、言葉を失いました。僕が――――財産狙い――――。そんな風に思われてたの? 

 とても言葉では言い表せない衝撃が、胸の中を駆け抜けました。


 でも目の前にいるきつい性格の令嬢が、あの心優しいレオンさんの恋人かもしれないという事実は、さらに衝撃的です。

 恋人なら、自分のことより先に相手のことを心配するはずなのに……。レオンさんに寄り添って、レオンさんの苦しい胸の内を聞くことの方が先なのに……。この女性の心の中には、怒りしかないような気がしたんです。


「……財産狙いじゃありません。ずっとママが欲しいと思ってて、ママだけでなく兄までできて喜んでいます。レオンさんに家族と認めてもらえたら嬉しいし……」


 レオンさんが僕を家族じゃないかもしれないと言ったことを思い出し、言葉が途切れそうになりました。

 

「……レオンさんの妹になれたら、すごく嬉しいです」


「健気だねえ。こういう妹を持った兄は、幸せだろうねえ」

 アーレクさんがカミーラさんを横目でみて、含み笑いをしました。

「口も性格も最悪で、そのせいで男に捨てられたのに認めようとしない妹を持つと、不幸だよね」

「エロ絵ばっかり描いてる兄の妹よりは、幸せでしょうよ」

 真顔で吐き捨てるカミーラさんを、アーレクさんは鼻で笑っています。


「一般論を話したつもりだったんだが。僕のことを言ってるなら、そろそろ画家として独り立ちしようかと考えているよ」

「あら、そう。息子に泣きつかれた母親が、お金をばらまいて売り出すわけね。さすが娼婦、裏の世界をよく知ってるじゃない」

「その娼婦に妻の座を追われた女の娘が、他の女に恋人の座を奪われたってわけだ。血は争えないな」

「娼婦とどこの誰かもわからない男の息子に、言われたくないわね」


 アーレクさんとカミーラさんが兄妹――――それも、血のつながらない兄妹。とても仲がいいようには見えません。

 二人の言い争いに他の人達はうんざりしたようで、ひたすらアイスティーを飲んでいます。 


 カミーラさんは僕がレオンさんとカミーラさんの邪魔をしていると信じ込んでいて、カールさんとフランツさんは僕のせいでレオンさんが「悪いお仲間」から抜けることになったと思い込んでいるみたいで、そしてアーレクさんはきっと昨夜のことを根に持っていてレオンさんに仕返ししようとしているんです。

 アーレクさん、カミーラさん、カールさんとフランツさん。三者三様の思惑が入り乱れているみたいだけれど、僕にはどうしたらいいのか分かりません。


 兄妹が言い争っている間、幸運なことに僕は立たされたままで、何とか隙をみて逃げ出せないかと少しだけ後ずさりしてみました。

 部屋を素早く見回し、カーテンの陰にモップを見つけて小躍りしたくなりました。

 自分の身を守るために僕にできることと言ったら、棒術だけです。振り回すことしかできないけれど、何もしないよりはましです。いよいよ危なくなったらあれを振り回そうと、僕は決めました。


「二人とも落ち着けよ。どころでカミーラとレオンが付き合ってるって、俺、知らなかったよ。どの程度の付き合いなの。寝たの?」

 兄妹の言い争いの切れ目にフランツさんが言葉を挟み、カミーラさんはきつい目つきでフランツさんを睨みました。

「何立ち入ってるのよ。そんな質問、答える義理ないわ」


「二人で遊びに出かけてるのよ。ピクニックとかカフェとか。お熱いノロケ話、さんざん聞かされたわよ」

 マチルダさんが言い、アーレクさんは声を上げて笑いました。

「何てくだらない。ピクニック? カフェ? お子様だな」

「あんたみたいな色ボケと一緒にしないでくれる? 息子にそっくりな色ボケ母親が公爵を別宅に連れ込んだお陰で、あんたときたらこの屋敷でやりたい放題。とっかえひっかえ男を引きずり込んで、いい迷惑だわ」

 カミーラさんの痛烈な言葉にもアーレクさんは優雅な姿勢を崩さず、笑っています。

「僕が友人を屋敷に招くのは、純粋に絵を描くため、芸術のためさ」

「よく言うわ」

 

 二人の言い争いは、果てしなく続くようです。カミーラさんの話を聞きながら、僕は胸が痛くなってしまいました。

 パパと女の人との問題で、一人ぼっちになってしまった自分――――。カミーラさんの境遇がそんな風に思えて、何だか僕のことみたいで哀しくなります。


 それでも僕の場合ですが、パパを嫌いにはなれませんでした。それはひとえにパパの性格のせいです。

 パパときたら女の人のところに行ってしまった後も、数日に一度は家に帰って来て、僕に一輪の花をくれるんです。

 済まなそうな顔をして、情けない声で、

「申し訳ない、エメル。本当に申し訳ない」

 と何度も繰り返すものだから、僕の方も仕方ないなと思えて来て、グラスに一輪の花を生けて眺めながら、パパの帰りを待っていたんです。

 カミーラさんのパパも、せめて心の欠片ぐらいカミーラさんに贈ればいいのに――。


 突然アーレクさんが立ち上がり、僕はびくりとしました。

「事情聴取とやらは、こっちの用が済んでからにしてもらおう。……やってくれるな?」

 アーレクさんがカールさんとフランツさんに目配せし、二人は怖い顔で僕を見ました。

 フランツさんが立ち上がり、にやにやしながら僕に近づいて来ます。

「さて、お嬢ちゃん。お楽しみの時間だよー」

 僕は飛び上がり、脱兎の如く走ってカーテンをめくり、モップをつかみました。


「ちょっとー! まだわたしの用は終わってないわ。やめてよっ!!」

 カミーラさんが叫んでも、青年たちは聞く耳を持つ気はなさそうです。


 僕は、素早くモップを顔の前に構えました。パパから教わった基本の構えです。モップのグリップを右手でつかみ、ハンドルの先をやや下げる。

「悪く思わないでくれよ」

 カールさんが、どんよりと暗い表情で歩み寄って来ます。


 フランツさんとカールさんが同時につかみかかろうとしたから、モップを素早く回転させてカールさんの手を叩き、フランツさんの首筋に打ち込みました。

 フランツさんは痛かったらしくもんどり打って尻餅をつき、カールさんが怒りの形相で向かって来ます。

 前に体重をかけ、勢いよくモップの柄をカールさんの咽喉に突き入れました。

 ぐぅえっ。カールさんは変な声を出してよろめきながら後ろに下がり、僕はモップを抱えたまま、出口目指して一目散に走りました。


「逃げたぞっ」

 アーレクさんが壁際の紐を引っ張るのが視界の隅に見え、遠くでベルの音が聞こえます。

 ドアの鍵を開けている間に追いつかれそうになって――――ひやりと冷たくなる僕の体、一気に増える心拍数。

 がくがく震えながらモップの柄をフランツさんのみぞおちに叩き込み、素早く切り返してグリップの部分でカールさんの耳を渾身の力を込めて叩きました。


「ぎゃあっ」

 勢いよく倒れたカールさんが後ろにいたフランツさんを突き倒し、転んだ男たちがもつれ合っている間に大慌てで廊下に出てみると、筋骨隆々とした召使いが一人階段を上がって来ます。


「ヨハン、その子を捕まえろ!」

 アーレクさんの声と同時に召使いが追って来たから、僕は廊下を猛烈な勢いで走り抜け、別の階段を駆け下りました。

 走るのは得意だけど、男たちの方が速いに決まっていて、階段を下る僕に数人分の足音が迫って来ます。

 召使いがそばまで来たから、狭い階段では振り回すより突く方がいいだろうと思い、向う脛に狙いをつけて思いっきり突き出しました。


「くそっ! ガキがっ!」

 召使いのヨハンが向う脛を押さえながら反対側の手を僕に伸ばし、カールさんとフランツさんも迫って来ます。

 流れ落ちる汗にも構わず、頭の中が爆発しそうになりながら、僕は無我夢中でモップを突き出しました。

 僕の視界にあるのは、向う脛だけでした。

 ひたすら向う脛を素早く力を込めて突くことだけを考え、突いては逃げ突いては逃げを繰り返してる間に、少しだけ距離を開けることが出来たんです。


「こっち!」

 三階まで下りると、ゲルタさんが手招きしていました。

 一瞬迷いましたが、意を決してゲルタさんが指し示す部屋に駆け込んだんです。

 複数の足音が僕に気付かないまま遠くに去った頃、ゲルタさんが静かに部屋のドアを開け、僕の腕を引っ張りました。


「別の階段があるから」

 信じていいんでしょうか――。でも男たちよりゲルタさんの方がましな気がして、彼女の後について行き、一階に下りると馬車置き場があって、隅に男たちが固まっています。

 彼らが取り囲んでいたのは――――。


「レオンさん!」

 僕が叫びながら駆け出すと、レオンさんの険しい顔がほっとした表情に変わり、一瞬でしたが笑みが見えました。 

 でも男たちの間をすり抜けようとして、僕はカールさんに捕まってしまった。


 すかさずレオンさんがカールさんを殴りつけ、僕はカールさんの腕が離れた瞬間に飛び退きました。

「おまえが仲間から抜けるって言うから、こんな事になったんだろっ」

 カールさんが言いましたが、レオンさんは冷たい無表情のままです。


 アーレクさんに命じられたらしい召使い達に取り囲まれ、レオンさんが次々と殴り倒し、僕はつかみかかろうとした召使いの手をモップの先で叩き、ハンドルをくるりと返して首筋を思いっきり打ちつけました。

 

「やめて!! やめてったら!! こんな所で暴れないで!」

 カミーラさんが走って来て叫びましたが、男たちの乱闘は止みません。


 突然耳をつんざくような銃声が響き、僕は飛び上がりました。

 凍りついたように全員が静止し、銃口を空に向けたアーレクさんに目が行っている間に、僕はレオンさんのそばに駆け寄りました。

 レオンさんは僕を背後に押しやり、レオンさんに銃口を向けるアーレクさんを見据えています。


「どうして? どうしてレオンがいるの? ここにはもう来ないって言ってたじゃない」

 カミーラさんは傍目にもわかるほど狼狽していて、銃を握ったアーレクさんにきつい視線を向けました。

「俺の妹を迎えに来たんだ」

 レオンさんはそう言って皆を見回し、僕の意識の片隅でぴんと立つ耳。

 アーレクさんが撃ちそうになったら僕が前に出よう。……今、俺の妹って言った?


「誘拐の理由を聞かせてもらおうか。カール、俺が抜けるからか?」

「そうだ。妹のせいだと聞いたんでな。真相が知りたくて、アーレクの話に乗ったんだ」

 レオンさんは奥歯を噛みしめた顔つきでアーレクさんを睨みつけ、すぐに視線をカールさんに戻しました。

「今すぐとは言ってない。後のことをきちんと決めてから抜ける。必要な時には顔を出す。フレデリクにまかされた以上、無責任なことはしない」

「抜けるというのは本当なのか。理由は?」

「話す必要はない」

 レオンさんとカールさんが睨み合い、アーレクさんは銃口をレオンさんに向けたままで、僕は気が気ではありません。


「ちょっと待てよ」

 フランツさんが、レオンさんとカールさんの間に割って入りました。

「フレデリクの跡目は、アーレクが引き受けるべきだろう。アーレクはフレデリクの義弟なんだから。それにレオンには道義上、資格がない」

 目を細め、レオンさんに厳しい目を向けます。

「フレデリクの妹を捨てたらしいから」

 フランツさんの言葉にレオンさんの顔がさっと変わり、凍りついたように見えました。

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