6 後日譚 ~王都の硬い夜~
後日譚3人称シリーズ最後は、主要男性キャラ3人が硬~くお届けします。そして次回、いよいよ最終話です。あともう少しお付き合いくださいませ。
4月のとある夜。レオン・クラウス・フォン・リーデンベルクは、部屋で一人机に向かっていた。
彼の前にあるのは、領地クレヴィングの昨年度収支決算書である。びっしり書き込まれた数字を目で追い、ページを順にめくり、人差し指で最後の数字をとんとんと叩く。
かなりの収益があがっている。リーデンベルク家に長年仕えた領地管理人は、評判も腕もいい。銀行から取り寄せた預金残高報告書に目を通し、ビットナー公爵の別邸を思い浮かべた。
昨夜エメルと出かけた歌劇場で、ビットナー公爵が別邸を売却したがっているという話を耳にしたのだった。
別邸は王宮を中心とする貴族街の一画にあり、リーデンベルク邸ほど広くはないものの、クリーム色の風格ある外壁と白い格子窓が印象的だ。使われなくなって数年が経ち、内部はかなり古くなっていると言う。
買い取って改装するとしたら、どのくらいの費用が必要だろう。売却話が本当かどうか、明日にでも弁護士を通し公爵に打診してみようか。
いつかはリーデンベルク邸を出て独立するつもりでいるし、公爵別邸のような屋敷が売りに出ることはそう多くない。エメルが気に入ってくれるといいが。
レオンは革表紙を閉じて立ち上がり、張り出し窓を押し開いた。4月の夜風はやや冷たく、芽吹いた若葉と花の香りがする。馬のいななきが聞こえ、遠くから春らしい喧騒と爆竹の音が流れて来た。
初めてエメルに会ったのも4月だったなと思い出し、ふっと笑った。僅か1年で、家を買いたくなるとは――――。
父親に連れられリーデンベルク邸にやって来た彼女を見た時、澄んだ大きな目に心臓を撃ち抜かれたような気がした。
不思議そうに自分を見上げる、まっすぐな琥珀の瞳。決して自惚れではなく、憧れと興味の色があったと思う。それでいて手足が震え、怯えているのだと分かった。
怖いもの見たさって奴か、そんなに俺はこわもてなのかといい気がしなかったが、心に刻まれた彼女の瞳が消えることはなかった。
男の子の格好で廊下の掃除。使用人のエプロンを着け、厨房で料理。モップを持って通学し、大の男を叩きのめす。単身王宮に乗り込み、窮地に陥る。エメルのする事は俺の想像を超えているよと、彼は小さく笑った。
通常の女の子とは違う思考回路で、小動物のようにビクビク怯えながら懸命に生きようとする彼女。思わず抱きしめたくなり、怖がられるだけだと踏みとどまった場面が何度あったことか。
そんな彼女と長い道のりを歩いて行きたいと思い始めたのは、いつの頃からだったろう。きっかけは、フォルクだった気がする。奴だけでなく、あれはエメルを誰にも渡したくないと気づかされた事件だった。
貴婦人の遊び相手も務めたし、街の女性と付き合った経験も少なくない。女性には慣れているつもりだったのに、本当は少しも慣れていなかったようだ。いまだにエメルをどう扱っていいのか、戸惑うことが多い。
怯えさせたくなくて、出来るだけ触れないよう気をつけているものの、いつまでもつのか――――。
結婚の意志があることは仄めかしたが、彼女に伝わったかどうか疑問だ。彼女の父親が賛成しているとは言い難いし、結婚はディリア母上が言うように学校を卒業してからが望ましいだろう。
まだ先の話で、彼女を縛りたくない。しかし彼女に言い寄ろうとする、いまいましい輩が多そうだ。
レオンは夜風に吹かれ、おぼろに光る星々を見上げた。
15歳の貴族令嬢には、舞踏会の招待状がひっきりなしに届けられる。ドレスで着飾ったエメルは花の精のように美しく、男の目を引くことは間違いない。多くの縁談が舞い込み、とりわけラインハルトは隙あらば彼女を手に入れようとするだろう。
ラインハルト――――。
長年抱いていた印象とは異なり、王子は心に苦悩を抱えた当たり前の人間だった。どんなに苦しくとも他人に弱みを見せない姿勢は尊敬に値するが、同時に哀れでもある。
哀れな男にエメルは渡せない。いや、どんな相手だろうと渡したくない。彼女を独占する方法が結婚しかないなら、迷うことなく実行するまでだ。
扉を叩く音がして、ワイン瓶とグラスを2つ抱えたトーニオが入って来た。トーニオ・コンスタンツ・フォン・リーデンベルク。若き男爵である彼は最新流行のネクタイを緩め、黒の夜会服の前ボタンをすべてはずし、くつろいだ出で立ちである。
「年代物が手に入った。礼はいらないから」
「いきなり来て、何が礼だ。まだ宵の口なのに、どこの女性に叩き出されたんだ?」
「歌劇場へ行き、プリマドンナに挨拶して帰って来たんだ。社交シーズンは長いんだから、休まないと身がもたないよ」
「挨拶だけ?」
疑わしそうに尋ねると、トーニオは窓枠に腰をおろし、にやりと笑った。
「口説くのは礼儀だろ?」
「やっぱりな」
「それより、さっき下でブルケンを見かけたけど。あいつ、戻ってたのか」
ブルケンは従僕で、リーデンベルク夫妻と共にレイホルムにいるはずである。トーニオは窓枠にワイングラスを並べ、黒猫の絵が描かれた瓶を傾けた。
「母上から俺たち3人宛ての手紙を預かって、今日の昼頃着いたそうだ。手紙、受け取ったか?」
「まだ。さっき帰宅して、まっすぐここに来たから。今度は何だって?」
「秋まで戻れないらしい」
「秋?! それはそれは。仲がいいことで。先月のエメルの誕生日パーティーは、体調が悪いからってすっぽかし……」
赤ワインを注ぐ手を止め、ハッと顔を上げる。
「……病気なのか?」
「病気ではないな。俺たちに、弟か妹ができるって話さ」
「おめでた? そういうことなら、さっさと知らせればいいのに。手のかかる親だなあ」
「一時は、危なかったそうだ。落ち着くまで心配をかけたくなかったんだろう」
「いつ生まれるって?」
「10月末か、11月」
「そんじゃ、新しい家族に乾杯」
トーニオは、グラスを1つレオンに手渡し、もう1つを高く掲げた。カットガラスに星の光が落ち、なみなみと注がれたワインが赤く揺れている。
「新婚夫婦と初々しい妹、そして腐れ縁の弟に」
「おまえもな」
2人で競争するように一気に飲み干し、同時にグラスを置いた。空いたグラスにワインを注ぎながら、トーニオが尋ねる。
「おまえ、エメルと婚約するつもりだろう」
「勘がいいな」
「国王の結婚命令書なんか見てしまったら、婚約だけでもしておこうと誰だって考えるよ。将来美女になりそうな女の子は、早い者勝ちだ」
「婚約だけな。エメルと一緒にレイホルムに行こうと思ってる。あんな事件があったから、父上も今度は説得に応じてくれるんじゃないかな」
「そうか……」
窓の外を見やるトーニオの横顔に、影が走る。トーニオなりの愛情をエメルに向けていることが分かるだけに、レオンの胸は痛んだ。
「去年の夏は楽しかったよ。エメルをからかうのが面白くて、次はどんな手で迫ろうか考えていると、ワクワクした。レオンは大真面目に怒るし、俺がエメルの部屋に忍び込むたびに血相変えて駆けつけてさ。毎日が楽しくて、外出しようって気にならなかったな」
「その性格、何とかしろよ」
「何ともならないね。今年はつまらなくなりそうだ。避暑地にでも行くかな」
寂しいんだろうなと、レオンは思った。トーニオがどれほど孤独に弱いか、一人になることをどんなに怖れているか、レオンにはよく判る。
兄弟として育ったからだけではない。孤独を抱えた者同士だからだ。孤独が2人を結びつけ、敏感に同族の気配を感じ取らせている。
「夏は、知り合いの病院を手伝うつもりだ。エメルは成績から考えて宿題に追われるだろうし、両親もいない。去年との違いは使用人たちがいること、エメルに絶対言い寄るなってことぐらいかな」
「なるほど。そう来なくては。最近ではエメルちゃん、俺の口説きに慣れたのか反抗的なんだよねえ。ちっちっとか舌打ちなんかして人差し指を振って、そんな手には乗りませんよなんて生意気なことを言うんだよ。新手を考えないと」
「言い寄るなと言っただろう」
「言い寄るんじゃない。男がどういうものか、教えてさしあげるんだよ。口のうまい男に騙されないように」
「口のうまい男って、おまえだろ? エメルを口説いたら、半殺しだ」
「いいね、いいね。返り討ちにしてくれる。夏休みが楽しみになって来た。誤解のないよう言っておくけど、俺だって2人の幸せを願ってるよ。ただ退屈したくないだけ。人生は長いようで短いんだから、楽しまないとね」
表情を覆っていた影が、綺麗さっぱり消えている。晴れ晴れと笑うトーニオを、レオンはしかめっ面で見つめた。
* * *
王都の夜は、静かにふけていく。
真夜中近くになって急に気温が下がり、霜がおりた。赤っぽい光を放つガス灯が点々と連なる大通りを、ざくざくと音を立ててオペラ帰りの馬車が行き来する。
冴えわたった夜空に浮かぶ、剣のような三日月。職務を終え帰路についたラインハルト王子は、王宮門をくぐり厩舎まで来ると、護衛の兵士たちに声をかけた。
「ここでいい。今夜は遅い。早く休め」
「連絡が来ましたら、起こしていいのですね?」
「何時だろうと起こせ」
彼は答え、一人王宮に向かって歩き出した。担当している陸軍物資横流し事件の首謀者を特定し、一味を一網打尽にしようと泳がせているところで、新しい情報が入れば連絡が来る手筈になっている。
敬礼する王宮警護兵に軽くうなずきかけ、シャンデリアに煌々と照らされた王の回廊を進むと、壁ぎわに人影が見えた。
金紗のドレスに身を包んだ王妃が、回廊の壁に飾られた肖像画を見上げている。
初代オーレックス準男爵ウィリアム・ヘンリー・アントン――――ラインハルトに瓜二つの先祖は王の回廊の中央、最も人が多く通る場所に掲げられていた。
初めて肖像画を見たあの日。エメルやレオンたちが帰った後、母である王妃が部屋を訪れたことを思い出し、ラインハルトは足を止めた。
王妃は床に置かれた肖像画を見下ろし、苦悩に満ちた声を放ったのだった。
「あの頃は、わたくしの回りにあるすべてが敵に思えたのですよ。国王陛下も、運命も、神ですら。遠国の下級貴族に生まれ、家柄も富も美貌も持たないわたくしに残されたものは、誇りだけでした。陛下を取り戻そうとしたのも、国民の母になろうとしたのも、誇りゆえ。わたくしには、大切なものが欠けていたのです。息子を細やかに気づかう母の心が」
母が自分自身を責めている――――。
そう思った瞬間、彼の心から怒りが静かに消えて行った。あの頃といえば、王妃は19歳か20歳だったはず。味方が誰一人いない中で、おのれの誇りだけを頼りに戦った若い母親を誰が責められるだろう。
両親とは滅多に会えず寂しい思いもしたが、王族は忙しいものと決まっている。忙しくない王族に何の価値があるのか。
「初めて貴方の出生に関する噂を聞いた時、動揺する素振りを露ほども見せまいと誓いました。噂はトライゼンに揺さぶりをかけたい国々の外交策、あるいは人の悪意から来ていると判っていましたから。そんなものに動かされない、強い王妃でなければならない。それが国家のため、陛下のためになる。毅然とした姿勢を見せれば、貴方が疑念を抱くこともない。今日までそう信じて来たわたくしは、何と愚かな母親でしょう。貴方にもっと心を配ればよかった。今思えば小さなつまらない誇りでした。そんなもののために、貴方を苦しめてしまいましたね」
「王妃の誇りが、小さくつまらないものであるわけがない。それから私は、くだらない噂に苦しんだりはしません」
「噂などまったく気にならないと、幼い頃から言っていましたね。病弱だったゲオルグとは違い、貴方は心身共に強くて。そんな貴方に、わたくしは頼ってしまったのですよ。貴方なら大丈夫、何も言わなくとも大丈夫だなんて……」
「頼られるのは、嬉しいものです」
彼が優しく言うと、王妃は苦しそうに顔をしかめた。
「どんなに大人びていても、子供は子供です。わたくしが母親らしい母親だったなら、貴方が本当は傷ついていることに気づいたでしょう。ウィリアム・ヘンリーの肖像画は、もっと早く公開すべきでした。他国の悪意に屈服するような気がして、ためらってしまったばかりに……。貴方は意地っ張りで誇り高いから、傷ついたと決して認めないでしょうけれど」
「傷ついていないのですから、認めようがないでしょう」
初めて噂を耳にした時は、世界が崩壊したかのように感じた。屈辱と怒りで体が震えたなと、彼は遠い昔に思いを馳せた。噂は偽りだと両親は言い、頭ではその言葉を信じているのに、心のどこかで疑っている自分が許せなかった。
何も感じなければいい――――。ある時を境にそう考えるようになった。もしも卑しい出自で人が嘲ろうとも、決して傷つかない心を持とう。その決意が心を鋼のように鍛え、今の自分を作り上げたのだ。
王の回廊に衣擦れの音が響き、王妃がこちらを見ている。ラインハルトは、腰に帯びた長剣の留め金を掛けた。そうすることで剣の柄と鞘が細い鎖でつながれ、剣が抜けないようになる。
王子であろうとも国王夫妻の前では武器不携帯、あるいは留め金を掛けることが原則である。律儀に規則を守り、彼は肖像画の前に立つ母親に歩み寄った。
「母上。このような時間にどうなさったのです」
「今日は貴方の誕生日でしょう。お忘れですか」
「そうでしたね」
誕生日を祝うパーティーなら先週済ませているはず、と思いながら王妃の隣に立つ。彼女は長身の息子を見上げ、微笑んだ。
「25歳のお誕生日おめでとう。来年も無事にお誕生日が迎えられるよう、危険な職務は避けて頂戴ね」
王妃の茶目っ気のある口調が、彼の笑みを誘った。
「軍の職務に、危険でないものなどありません。お忙しいでしょうに、毎年私の誕生日には顔を見せてくださる。感謝しています」
「今では、貴方の方が忙しいようですね。ウィリアム・ヘンリーが独身の頃、女性嫌いの暴れ者だったことはご存知?」
「そうなのですか?」
ラインハルトは肖像画をちらっと見やり、王妃はくすりと笑った。
「言い方は悪いけれど、キャサリン・アントンに手なずけられ、アントン家の婿になった後は妻一筋だったそうですよ。7人の子供にも恵まれ、子煩悩・孫煩悩だったとも伝えられています。貴方はどうかしら」
「顔が似ているからと言って、同じ人生をたどるとは限りませんよ。私は、女性嫌いでも暴れ者でもありません」
「貴方のすることに、口出しするつもりはないのですよ。ただ貴方の周囲の女性たちが、幸せそうに見えないものですから……。親は息子に、幸せな家庭を持って欲しいと願うものです」
「女性に対する愛情が足りないと仰りたいのですか?」
強い口調で言い、困った顔の母親を睨む。彼にとって女性とは美しいもの、楽しいもの、自分を飾ってくれるものである。宝石を愛するように愛し、彼の趣味の一つであるチェスの駒のように大切にしているつもりだった。
ふいにエメルの顔が浮かび、彼は僅かに視線を泳がせた。普段は忘れているのに、ふとした拍子に彼女の顔がよぎる。あんな子供の何が自分の記憶に残ったのだろうと、不思議で仕方がない。
「私とて、女性を可愛いと思うことがあるのですよ」
「そうなのですか? それは――――素晴らしいわ」
「あんまり可愛いので、「お手」や「待て」のような芸を仕込みたくなるのです。仕込むには根気が必要ですが、それも楽しいかなと。時には頭を撫で、喜ばせてやりたくなる事もあります」
「まあ、ラインハルト。女性に対し、それは、あまりにも……」
困惑した母親を見て、息子はにやりと笑う。王妃は、ほっとしたように微笑を見せた。
「冗談なのですね? 驚かさないで頂戴。でも女性を生き物として認めるなら、貴方にしては進歩と言えるかもしれませんね」
「女性を乱暴に扱ったことは、一度もないつもりですが」
「そんな事をしたら、わたくしだって黙ってはいませんよ。でもね。時々貴方が、女性を物か何かのように考えているのではないかと思うことがあるのですよ」
「御心配なく。私が考えているのは物ではなく、何かの方です」
ラインハルトは母親の腕を取り、王妃の居室に向かって歩いた。当分、女性とは関わりたくない気分だ。仕事が忙しいこともあったが、女性との交際に疲れを感じていた。
買い物、パーティー、オペラ。会話。ベッド。すべてが空しく、満たされない。もっと大切なものがあるはずだと頭では判っていても、それを自分が求めているのかどうか。
子犬でも飼ってみるか。何となく、そう思った。