6 後日譚 ~春風の求婚~
今回も、1人称寄りの3人称で語られます。ヒロイン・エメルは登場しません。ボーデヴィッヒ侯爵決死の求婚劇をお楽しみください。
「結・婚・してくれええ――っっ!!」
雪解け間もないモミの林を、男の声が響き渡る。
哀れな声の主は、近隣一帯の領主オスカー・セバスチャン・フォン・ボーデヴィッヒ侯爵。膝丈のカシミヤ・コートを着て、ペイズリーのアスコット・タイを華やかに結んでいる。
彼より3歩前を歩いていたミレーヌ・ロイスブルク伯爵夫人は、肩にかかる金茶色の縦ロールと青いドレスの裾を勢いよく翻し、振り返った。
「大声を出さないで。恥ずかしいじゃないの」
「男が一大決心をして求婚してるのに、恥ずかしいだと?!」
「あのね、オスカー。思い出してくださらない?」
爵位を継いだ兄が珍しく実家に招待してくれたと思ったら、出迎えたのは不仲な兄ではなく幼馴染のオスカーだった。散歩に行こうと無理矢理連れ出され、神妙な顔をした彼に告げられたのが求婚の言葉だったのである。
呆れ顔で首を振り、ミレーヌは片手を腰に置いた。
「わたくしは、もう結婚してるのよ」
既婚者に結婚を申し込むなんて、悪い冗談にもほどがある。昔からおかしな人だったけど、と彼女は小道の先に目をやった。
林を通り抜ければ、広大な小麦畑が見下ろせる丘の頂上に出るはずだ。懐かしい風景。5年前父が亡くなって以来、一度も帰ることのなかった故郷。
せっかく帰郷したのだから、ネジのはずれた人は放っておいて、精一杯楽しもうと歩き出した彼女の腕を彼がつかむ。
「あれが夫と言えるか?」
腕をしっかりつかんだまま前に回り込み、オスカーは挑むように彼女を見下ろした。
「51歳。たるんだ顔と腹。薄くなった髪を、地肌が目立たぬよう撫でつけている。容貌については、これ以上言うまい。誰だって年をとる」
「失礼な人。伯爵は美男子よ。50代には見えないわ」
「悪あがきして若作りをしてるんだろうが、そんな事はどうでもいい。私が怒っているのは、君を騙したことだ。政治的に失脚した後、田舎の領地でのんびり暮らそうと結婚を持ち掛け、あいつは君を釣った」
「釣った? コイやマスみたいに!」
「可愛いミレーヌ。君は魚じゃないよ。私が惚れた、ただ一人の女性だ」
人差し指を立てて振り、彼は大抵の女性ならうっとり見惚れるような微笑を浮かべた。先ほどの哀れな声が芝居だったのではないかと思うほど、彼は魅惑的で、大人の男性の色気とゆとりがある。
放蕩三昧の暮らしをしているという噂は、本当なのだろうと彼女は思った。結婚を餌に、幼馴染にまで手を伸ばそうとしているのかしら。不愉快な気分と失望を押し隠し、ミレーヌは淑女らしく居ずまいを正した。
「光栄ですわ、口先の素敵なオスカー・セバスチャン。では、ごきげんよう。久しぶりの故郷を楽しみたいので」
「もちろん楽しんでくれ。その前に、これだけは聞いてほしい。君を得たロイスブルクが何をしたか。田舎暮らしどころか、颯爽と王都に舞い戻った。妻をスパイとして使い、トライゼンの情報を流すからと政府要人に自分を売り込み、政界に返り咲いたんだ」
「ずい分詳しいこと」
「元・諜報官だからね。結婚して田舎暮らしをするために、退職したが」
「そう。お幸せに」
冷たく背を向け歩き出す彼女を力ずくで引き戻し、彼はそっと手を離した。
「すまない。つい力を入れてしまった。痛くなかったか? あのなあ、ミレーヌ……」
言いかけ、彼は言葉を詰まらせた。彼女の顔は蒼白で、はっとするほど美しく怒っている。怒れば怒るほど彼女は美しくなるという懐かしい事実を目の前に、彼は一瞬のうちに少年に返った。
フィアに入学する前は、彼女と野山を駆け回るのが日課だった。入学後は顔を合わせることも稀で、長期休みに帰郷して会うのが楽しみになった。やがてそれも数少なくなり、彼女は帰郷しなくなった。
彼女が王子の愛妾になったお蔭で、自分は一気に大人へと変貌できたのだと、オスカーは苦い思いを噛みしめる。世の中そんなもんさと斜に構えるようになり、女性は遊び相手と割り切り、金銭に執着した。
金と財産――――。それを持たない貴族がどれほど惨めで、多くの大切なものを失う羽目になるか。痛いほど思い知らされた後、彼は大学進学を諦め、仕事についたのだった。
じっと見つめるオスカーの目を、ミレーヌは一歩も引くことなく見返している。
「伯爵は、温厚で優しい紳士です」
「優しい紳士が、妻を愛人のもとへ行かせるか? 君が頻繁に里帰りするのは、情報を仕入れて来いと伯爵に命じられたからだろう」
「それは……」
否定しようとし、情報の専門家を相手に言い訳を並べても無駄だろうと、彼女はすぐに諦めた。
「あなたの言う通りよ。でも、夫にトライゼンの貴重な情報を流したことは一度もないわ」
「わかってる。君は、あのろくでなしには勿体ない女性だ」
彼は、まっすぐ彼女を見つめている。赤銅色の髪も黒い瞳も昔のまま。端整で男性的な顔に幼い日の面影が重なり、彼女は小さく溜め息をついた。
「この話は、もうやめましょう。自分の馬鹿さ加減は、わたくしが一番よく知っているわ。わざわざ言い聞かせてくださらなくても結構よ」
「君は馬鹿ではないし、何一つ悪くない。悪いのは、君の純真な心に付け入ったロイスブルクだ」
「やめて」
「駄目だ」
彼女の前に立ち塞がり、彼は真剣な顔を作る。
「ロイスブルクと一緒にいたら、幸せにはなれないぞ。君がラインハルトと別れようとしても、あの老いぼれが許さないだろう。自分の利益のため、君をとことん利用する気だ。そんな男と一緒にいて、どうして幸せになれる?」
「ご親切に。ご忠告は胸に刻んでおきますわ。ありがとう、さようなら」
「待てよ。私なら君を幸せにできる。誓ってもいい。必ず幸せにする」
ミレーヌは、くいっと顎を上げた。
「あなたと言う人は! はっきり言わないと分からないのかしら。もう昔のあなたではないでしょう? わたくしだって、あなたが知ってる小さな女の子じゃないのよ。お互い大人になったんだから、何もかも昔とは違うの」
「そうか? ところで、君に見せたい物があるんだ」
言うなり彼女の手を取り、彼は雪の残るモミの木立ちに向かって駆け出した。
「何なの?!」
「こっちだ。……足もとに気をつけて」
小道からはずれ、木々の間を進む。枝を払い彼女の足もとを気遣い、オスカーは彼女の手を引いて林の奥へと向かった。
ミレーヌにとっても見覚えのある道である。この先に小川があるはず。野花が咲き、野鳥が訪れ、そして――――。
水のせせらぎが柔らかな音を奏で、黒っぽい木々の間に煌めく川面が見えた。川辺一帯にタンポポが咲き広がり、黄色い絨毯を作っている。
「まあ……! タンポポが、いつの間にこんなに沢山」
「領地を買い戻して数年ぶりに来た時、私も驚いたよ。私たちが吹き散らした綿帽子が、子孫を残したんだ。ひ孫のひ孫のひ孫あたりかな、今咲いてるのは」
綿帽子を摘んで来てはタンポポ王国にな~れと2人で唱えながら吹いた――――そういう事があったわねと、彼女は懐かしく思い出した。
「そんなに長い間、ここに来なかったのかしら」
「8年になると思うよ。君が帰郷しなくなってから」
8年――――。王子に会いたくて、故郷よりも王都に残ることを選んだのだ。歳月が哀しくて、彼女は唇を噛んだ。
「これを覚えてるかい?」
オスカーが指さしたのは、モミの木に結び付けられた小さな家型の箱である。急角度の屋根。丸い出入り口。箱の下に餌台があり、ヒマワリの種が置かれている。
木の根もとで鳴いていたアオゲラの雛を掌に乗せ、ドキドキしながら箱に戻した幼い日の自分を思い出し、ミレーヌは目を細めた。
「もちろん覚えているわ。巣箱、増えたんじゃない?」
そこかしこの木に巣箱が置かれ、餌台が据えられている。
「最近、うちの別荘は人気が高くてね。取り合いになるから数を増やしたんだ」
「蛇は? 鳥の卵が襲われたりしない?」
「万全さ。とくとご覧あれ、最新の蛇返しを」
木の幹を囲むように、板が吊り下げられている。記憶にある蛇返しは平坦だが、今ある板は外側が下がっていて、彼女はくすくす笑った。
「木がスカートをはいてるみたい。可笑しいわ」
「そう言うな。私の自信作なんだ。これならたとえ身体能力の高い蛇が来ても、登れないぞ」
「そうね。……きっと」
ふいに涙ぐみ、彼女は彼に背を向けた。
野鳥の雛が見たくて、巣箱作りに挑戦した遠い日。彼と力を合わせ、何度も失敗し、ようやく完成した巣箱にアオゲラが巣を作った時は飛び上がるほど嬉しく、蛇が卵を食べてしまった日は泣いた。
――――昔のことなのに、鮮やかに思い出せるのは何故だろう。思い出すと涙ぐんでしまうのは、どうしてだろう。
「ミレーヌ。これを見て」
オスカーのかすれた声が聞こえ、振り返ると彼はモミの木の向こう側に立っている。無言で歩み寄る彼女の目に、幹に彫られた文字が飛び込んだ。
『ミレーヌの木』――――隣に小さく描かれた『オスカーも』の文字。彼女は、申し訳なさそうに彼を見上げた。
「巣箱はあなたが作ったのに、わたくしの木だと言い張ったのよね。ごめんなさい。何てひどい事をしたのかしら」
「発案者は君なんだから、巣箱も木も君のものさ。代わりに私は、釣り場を貰った。覚えてるかい、マスが釣れる岩場を『オスカーの岩場』と呼んでいたことを」
「ええ。覚えているわ」
夏は魚を釣り、秋はブルーベリーやキノコを採り、冬になるとソリを楽しみ、両親は何と自由に遊ばせてくれたことか。時折使用人の姿が見えたのは、見守り役を務めていたのだろう。
もしも子供を持つことができたら、両親のように自由に育てたい。叶わない夢だわと小刻みに瞬きし、彼女は指先で文字をなぞった。
「……残っていたのね」
「変わらないものがあるんだよ、ミレーヌ。何十年経とうと、よぼよぼになろうと、変わらないものがある。心に思い出がある限り、いつでも昔に帰ることができる。帰って来いよ。思い出の地に。いつも一緒だったあの頃に」
「無理よ」
目をしばたかせ、黒テンの毛皮で縁取りされた青いドレスを翻し、ミレーヌは急ぎ足で小川に向かった。3つ並んだ平たい石にブーツを乗せ、跳ねるように川を渡ると、後から彼がついて来る。
まるで昔みたいだわと、彼女は過去に思いを馳せた。遊んでいる時、見回せばどこかに必ず彼がいた。
「小麦畑――――いや小麦王国と君は呼んでいたな。あの場所に行きたいんだろう? 護衛させて頂く」
「ボーデヴィッヒ侯爵は、危険な人だと聞いてるわよ」
「君の前では、ライオンだって番犬になるさ」
軽口を叩き、オスカーは腕を差し出した。彼女は小さく笑い、すっかり諦めて手を添える。残雪を踏みしめながら木々の間を抜け、元の小道を登りきって丘の上に出ると、雄大な光景が広がっていた。
地平線までつづく大地。背の高い樹が横一列に並び、赤い屋根の家々が小さく固まっている。等間隔で植えられたワイン用の葡萄の木を除けば、右を見ても左を見ても菜の花畑だ。細やかに織り込まれた黄色と淡い緑が、風を受け柔らかく波打つさまは息を呑むほど美しい。
「綺麗……」
言葉を失った彼女を横目で見て、オスカーはすまなさそうに眉毛を下げた。
「例年なら青々とした小麦畑のはずなんだが。今年は土を休ませなきゃならない。菜の花を刈り取って肥料にし、その後キャベツを植える」
「キャベツですって?!」
彼女は麗しい顔をしかめ、鼻の頭にしわを寄せた。
「言いたいことは分かる。私だって、キャベツなど見たくもない」
「じゃが芋もよ」
「もちろんだ。キャベツとじゃが芋は、食べ物とは認めない。しかし手堅い収入になる」
「すっかり領主さまね」
「貧乏は二度と御免だからね。仕事の合間を縫って農業と領地経営の勉強をしたんだ。領民も家族も決して飢えさせない。ここから見える土地はすべて私のもの、つまり君のものだ」
ミレーヌは目をぱちくりさせて彼を見つめ、雄大な景色に視線を馳せた。
「すべて……買ったの?」
「借金を抱え困っている地主から、通常の倍の値段で買い取った。喜んでもらえたよ。先方が買い戻しを望むなら応じるつもりだが、今のところはボーデヴィッヒ家の領地、そして君のものだ」
「本気でわたくしに結婚を申し込んでるの?」
「当たり前だ。勇気と魅力を振り絞り、死ぬ気で求婚している」
「どうしてなの? あなたは……」
ラインハルト王子の愛妾となった後、彼は顔を合わせても挨拶すらしなくなった。親友だと思っていたのに。親友の恋が成就したのだから、喜んでくれてもいいのにと彼を恨めしく思ったあの頃の自分は、本当に子供だったと思う。
子供はほどなく大人になり、愛妾の立場がどういうものかを思い知らされた。賞賛と侮蔑の表裏一体。羨む者もいれば、蔑む人もいる。蔑む人の方が多い。
「わたくしを軽蔑しているとばかり……」
「軽蔑、か。できることなら、そうしたかったよ。努力はしたが、君への想いが消えることはなかった。真剣に申し込む。ミレーヌ、結婚してくれ」
彼女は三度瞬きして彼に見入り、唇をすぼめた。彼が本気で求婚してくれるのなら、こちらも真摯に誠実にお断りしなければ。
「わたくしは……」
エメラルドの瞳を陰らせ、彼女は両手を固く組んだ。
「自分がした事の責任を取るわ。ロイスブルク伯爵だけを責められないもの。苦しくて……よく考えず、結婚に逃げてしまったわたくしに非はあるわ」
「ろくでもない男どものために、人生を台無しにすることはない。よく考えずに結婚したなら、次は考えて結婚すればいい。私と。お買い得だぞ、私は。働き者で領地経営の才能に長け、健康で頑強で上手く使えば長持ちするぞ」
「何だか商品を勧められてるみたい」
僅かに口角を上げた彼女の顔を、彼はじっと見つめる。
「ロイスブルクは君に、成人した息子が3人いて相続で揉めたくないから、子供は諦めるようにと言ったんだろう? そういう話を耳にしている」
彼女の僅かな微笑は瞬く間に消え去り、美しい顔に衝撃と怒りが浮かんだ。
「誤解しないでくれ。君の情報だけを集めたんじゃない。集まった情報の中に、たまたま君のものがあっただけだ。もちろん、君に関することはどんな些細な話も聞き逃さなかったが」
「夫婦の会話まで情報になるのね」
「ゴシップという名のね。私の仕事は、ゴシップを集めることから始まった。汚い仕事さ。人間の醜い部分にどっぷり浸かり、成果をあげ金を手に入れる。自分が嫌になったよ。そんな時、思い出すのはいつも君の顔だった。君は私を癒し、救ってくれた」
「あなたを救ったのは、あなた自身だわ。わたくしではなく」
「いや、君だ。色んな女性と付き合ったが、金茶色の髪と緑の瞳だけは避けていた。君に似たところがあると、のめり込みそうで怖くてね。どうしても忘れられなくて、いっそ結婚してしまおう、ラインハルトから君を取り返そうと策を練っていた矢先、君はあの大ぼら吹きと結婚してしまった。あんな男のどこが良かったんだ」
彼女は肩を上下させて溜め息をつき、諦めたように視線を落とした。
「安らぎよ。一緒にいると肩の力が抜けるの。気を遣ったり自分を飾ったりしなくていいから……」
「愛していないからだろう。愛していない相手なら気を遣うこともないからな。だがそれは、偽物の安らぎだぞ。本物の安らぎは、愛する相手から愛される時に生まれるんだ」
「そうなの?」
ラインハルト王子と一緒にいた時は常に緊張していた気がすると、彼女は哀しく菜の花畑を見やった。
絶えず入れ替わる、王子の愛妾たち。彼女は最も長く愛された女性と言われているが、その理由は欲の無さにあるのだろうと彼女自身は思っている。地位や名誉を求めず、純粋な気持ちで彼に接したからだ。
ただそれだけの理由。愛されていたんじゃない。彼は愛される心地良さを求め、誰も愛さない。いつ他の愛妾たちのように追い払われるかと気が気ではなく、彼を失ったら心が壊れてしまうだろうと身も心も休まらなかった。
そんな時現れたロイスブルク伯爵は、父親のような愛情で包み込み、穏やかな安らぎを与えてくれた。幸せになれると思ったのに――――。彼女の心に、口惜しさと自己嫌悪が湧き上がる。
何かが肩に触れ、見上げるとオスカーが手を置いていた。
「結婚してくれ。ここで暮らし子供を育て、他愛のない事で笑い合い、一緒に歳をとろう」
「無理を言わないで」
「何が無理なんだ?」
「それは……一度結婚したら、簡単には離婚しないものよ」
「相手による。妻に対し子供を諦めろなどと、よくも言えたもんだ。あんな男とは、さっさと縁を切った方がいい」
「簡単なことじゃないのよ。伯爵は、ああ見えて怖ろしい人なの。わたくしはともかく、あなたまで報復されるのは嫌だわ」
「報復は、されない。奴が利口な人間なら」
「どうして……?」
彼はにやりと笑い、不遜な態度で腕を組んだ。
「ロイスブルクは、20年以上政治に関わっているんだよ。身を滅ぼすネタには事欠かない。レディには聞かせたくない話だが」
「身を滅ぼすネタ……まさか脅迫する気なの?」
「いや。褒めるのさ。ヤバイ連中と付き合い、キナ臭い話に首を突っ込み、叩けば出るホコリの量は膨大で、さすが熟練の政治家は違いますねと」
それを脅迫と言うのよ! ミレーヌは呆れ返り、まじまじと彼を見つめた。醜聞を嫌う伯爵は、自分を守るために平然と妻を切り捨てるだろう。
「……色々考えてくださって、感謝します。嬉しいけれど、そこまでして頂く資格はわたくしにはないわ」
「花嫁にどういう資格を求めるかは、私が決める。君は最高だ」
「買いかぶり過ぎだわ。……愛妾あがりの女なのよ。他国に嫁いで、うまく行かなくて……あなたの名誉にはならないわ」
彼女の言葉の端々に辛そうな様子が見え、彼は眉をひそめた。
「愛妾あがり? 王宮の者どもがそう言ったのか。言いたい奴には言わせておけばいい。私など、何と言われていることか。まあ、私の場合は自業自得だが。君はただ、恋しただけだ。願わくば最後の恋人が私であってほしい」
二度も男性に失敗した彼女には、彼の言葉が力強い励ましに聞こえた。涙を誘われ、だからこそ彼を不幸にしたくないと懸命に首を横に振る。
「あなたは、わたくしには勿体ない人だわ。だからお受けできないの。あなたには幸せになって欲しいから」
「断るのか……」
水を失った草木のように、オスカーはみるみる萎れて行った。背中を丸め肩を前に落とし、がっくり沈み込んだ姿は見るも無残で哀れで、ミレーヌは罪悪感に襲われた。
「……ごめんなさい。でも、わかってほしい……」
「私の人生は決まった。生涯独身だ。一つ頼みを聞いてくれ。私が死んだら、棺に君の肖像画を入れてほしい。年老いて死ぬまで愛した、たった一人の女性の肖像画を。いや、老いるまで生きられないだろう。絶望した人間は、早死にするもんだ」
彼はよろよろと重い歩を進め、丘の下を覗き込んだ。その仕草が、彼女の不安を駆り立てる。急勾配の斜面は藪を作り、崖というほどではないにしろ、飛び降りたら軽傷ではすまないだろう。
飛び降りたら――――早死に。彼女の心臓が、ドキリと跳ねた。
「オスカー。何を考えてるの。やめて」
引き戻そうと彼の肩に飛びついた瞬間、いきなり両手首をつかまれ、彼女は目を見開いた。オスカーはにやりと笑い、嬉しそうな顔で彼女を見つめている。
「私が飛び込むと思ったか? 心配してくれたのか? 少しは脈があるんだな? どうでもいい男の心配などしないだろう」
「馬鹿!」
本気で腹を立て、彼女は拳で彼の胸を殴りつけた。二発、三発。もがき暴れる彼女を抱き寄せ、彼は声をあげて笑った。
「君を置いては逝かないよ。一生君を守るのが私の務めだ。他の男は近寄らせない。ラインハルトとロイスブルクは、永久追放だ。君を悪く言う者がいたら舌を引っこ抜いてやる。子供は欲しくないか?」
「え? ……ええ、欲しいわ」
殴りつける手を止め、うっすらと頬を染めた。
「私と結婚したら、欲しい物は何でも手に入るぞ。子供、美しい領地、田舎暮らし。君に首ったけの夫も、もれなく付いてくる。ドレスと香水と宝飾品を外国から取り寄せよう。好きなだけ買ってくれ。君の好みに合せ、屋敷を改装しよう。費用は惜しまない。使用人も君が選んでくれていい。他に欲しい物は? 何でも言ってくれ」
「そんな事をしたら、破産してしまうわ」
苦笑まじりに言い、彼女は目を閉じた。何を言っても弾き返され、言いくるめられてしまう。蜘蛛の糸に絡め取られて行く気分だ。抗う気力も残り少なくなり、精魂が尽き果てようとしている。
「ドレスも宝石も欲しいとは思わないわ。もっと大切な物が欲しい。安らぎのある家庭。安心して暮らせる家。お金は、飢えなくて済むだけあればいいわ。楽しい食卓。可愛い子供たち。そして尊敬し合い、信じ合い、愛し合える夫……それだけでいいの」
「全部、君のものだ」
自信たっぷりの腕が、彼女をそっと静かに抱き締める。彼の胸に頬を寄せ深く息をつき、彼女は最後まで抵抗しようとした。お断りしなければ。でも――――どうして?
ふいに彼の腕が緩み、彼女の手が持ち上げられる。胸ポケットを探っていた彼の指が、ミレーヌの指に輪をはめた。彼女の瞳に似たエメラルドの指輪を。
「やっと捕まえたぞ」
「待って。まだ、返事は……」
「二度と離さない」
オスカーの唇に塞がれ、彼女の言葉は続かなかった。春風が、未来の侯爵夫妻に優しく吹きつけた。