6 後日譚 ~旅路の果て~
今回のお話は、マティアス・エードバッハ視点寄りの3人称で語られます。ヒロインのエメルは登場しません。
いきなり人称が変わって戸惑われる方、読みづらいと思う方もおられるかと思いますが、話の展開上避けては通れず、軽く読み進めてくださいますようお願い致します。
それでは、エードバッハ夫妻の後日譚をどうぞ。
出航して間もない船のデッキを、潮風が通り抜けていく。
マティアス・エードバッハは、白い手すりに片腕を置き、遠ざかる港を眺めていた。
青空はどこまでも澄み、柔らかな日差しが心地いい。船客の多くは客室に降り、残った人々は思い思いにデッキを散歩し、足を止めては海の景観を満喫している。
「寒くありませんか、ナタリア様」
彼は、かたわらに立つ妻に声を掛けた。
海の好きなナタリアは、黒灰色のセーブルの帽子をかぶり仔山羊皮の手袋に包まれた指で手すりを握りしめ、子供のように潮の香りを楽しんでいる。
陶器を思わせる白い顔が、彼に向けられた。薔薇色の頬が天使のようだ。青い目をきらめかせ、彼女は彼が予想した通りの台詞を口にした。
「マティアスったら。2人きりの時は、ナタリアと呼んで頂戴」
「仰せのままに。ナタリア」
同じやり取りを、何百回繰り返したことだろう。こう言えばこう返ってくると予想できるのは、夫婦だからだ。長年共に暮らしたからこそだと微笑し、ふいに顔を引き締めた。
彼女が目をそらし、悲しい顔でうつむいている。指を開いたり閉じたり、落ち着きがない。
そういう時の彼女は空想と現実の狭間に陥り、どうしていいのか分からず救いを求めているのだと、彼は長年の経験で知っていた。
「今回の事は、申し訳なかったと思っているよ。貴女のために良かれと思ってした事なのだが」
「いいの。あの失礼な隊長さんには驚かされたけれど、息子と同じ名前だから許してさしあげるわ」
「ああ、それがいい」
ラインハルト王子は騎馬部隊長に格下げされたのかと、マティアスは小さく笑った。
陸軍庁舎の牢に一晩拘留され、ボーデヴィッヒ侯爵邸に戻ってみると、彼女は意外にも上機嫌だった。国王の密使が来て、騎馬部隊長の非礼を詫びたのだと言う。
もちろん、そんな密使は来ていない。彼女の空想の産物だが、それで心が癒されるなら構わないと彼は思った。
「急にアメルグに戻ることになって、慌ただしい思いをさせてしまったね。急ぎの仕事が入ったんだ」
嘘である。アメルグに戻り国外に出ないことを条件に、彼と夫人は罪を問われなかったのだ。いつもの事だと、彼は苛立ちを呑み込んだ。
トライゼン国王と側近たちは、決してナタリアに関わろうとしない。まるで汚れ物に蓋をするように、見て見ぬ振りをする。
汚れ物扱いされる怒りを抑え、彼は彼女の顔を覗き込んだ。
ラインハルト王子に会って以来、彼女は息子に会いたいと言わなくなった。気持ちがどう変化したのか、聞いておかなければ。古傷にそっと触れるように、恐る恐る尋ねた。
「ラインハルト殿下に会うことは出来なかったが……」
「いいのよ。元気でいてくれるなら、それでいいの。生きていれば、きっといつか会えるわ」
ナタリアは顔を上げ、遠くに目を馳せた。美しい青い目は遠ざかる街を見ているようで、何も見ていないようでもある。
淡緑の丘に白い石造りの建物が立ち並び、空を彩る白い雲が遥かなトライゼンに向かって流れていく。彼女の傷口を広げないよう、彼は慎重に話題を変えた。
「貴女の故郷にも立ち寄るつもりだったのだが。すまない」
「謝らないで。故郷と言っても、覚えていないんですもの」
謝られると相手が不憫になるらしく、一生懸命慰める側に回るのが気の好い彼女の常である。だが今、ナタリアは視線を手すりに落とし、指先を見つめている。
いつもと様子が違う――――。彼は、微かな不安を覚えた。
「立ち寄らなくて良かったのよ。思い出は……怖いわ」
「そうかい?」
覚えていないのは思い出したくないからだろうと、マティアスは伏せられた彼女の長い睫毛を見やる。ナタリアには婚約者がいたが、婚約者も彼女の両親も、大金を受け取り口をつぐんだのだと言う。
「私にとって思い出は美しいが」
初めて彼女を見た時の感動は、今でも彼の胸を熱くした。それまでは、女性を花に例える者がいれば苦笑したものだった。どんなに美しくとも女性は生身の人間で、花とは違う。
だが王宮の中庭に立つナタリアを見た瞬間、薔薇が咲いているかのような錯覚に陥った。
陽光に輝く純白の薔薇。芳しい香りさえ感じ、花の精かと目をしばたかせ、ぼうっと見つめる彼に美少女は気まぐれな笑みを投げかけた。
若者のマティアスが、恋に落ちた瞬間だった。
それからと言うもの毎日彼女の姿を探し、目で追った。白薔薇はやがて紅薔薇へ、少女から大人の女性へと変わっていき、彼は国王を憎んだ。
「悲しいと思うこともあるわ」
彼を見上げる顔に、マティアスの心臓がどきりと一拍する。辛そうな顔だ。何かを告げようとして、言い出せないでいるような。
「たとえば? 何が悲しいんだね?」
「……陛下の顔を思い出せないの。夫の顔が思い出せない妻は、悲しいでしょう?」
他の男の顔など思い出さなくていい。言葉がせり上がり、咽喉元で止まる。
「陛下に会いたいか?」
動じるまいと、彼はゆっくり息を吸い込んだ。君は私と結婚しているのだよと何度も告げようとし、そのたびに思いとどまって来た。
王妃を演じることで彼女が幸せなら、合わせようと彼は思っている。病状が悪化し、永遠に彼女を失ってしまうよりはずっといい。
「わからないわ。だって顔も思い出せない人よ。ただ……」
「ただ?」
「陛下は、わたくしをどう思っておられるのかしら」
「もちろん、敬意と愛情を持っておられるよ。でも彼は、一人の女性に愛を捧げる事ができない」
「困った浮気性さんですものね、陛下は」
ナタリアは魅惑的な微笑を浮かべ、彼もつられて笑った。
実際の国王は愛妻家だそうだが、知ったことかと思う。ナタリアと2人、穏やかに暮らせればそれでいい。他のことは、どうでもいい。
ふいに彼女の微笑が消え、マティアスは体をこわばらせた。彼を見つめる哀しい顔。やはり様子が変だと、彼の心音が速くなる。
まさか、別れを切り出すつもりでは――――。
プロポーズも結婚式もないまま夫婦となり、ナタリアは今でも彼を護衛官と呼んでいる。護衛官はもう必要ない、使用人さえいればいいと言われれば、おとなしく引き下がって遠くから見守ろうと彼は歯を食いしばった。
彼女の心の平穏のために、その方がいいならそうするまでだ。だが、この24年は何だったのだろうと熱いものが込み上げた。
薔薇を妻にする事は、高望みだったのだろうか。何年経っても色あせない彼女の魅力。体に触れるだけでは飽き足らず、心も欲しいと望んだばかりに。
何度も諦めようとし、監視役に徹する決心をしたこともあった。だが彼女の笑顔を見ると決意はあっけなく崩れ去り、諦めきれない弱い自分が残る。
そばにいればいつかきっと。もしかしたら明日になれば。つくづく馬鹿な男だと、彼は思った。彼女の心は国王と共に在り、私のものになることは決してないのに。
「何か言いたいことがあるのだろう? 言ってごらん。私は、君の言いなりだ。これまでも、そうだっただろう?」
マティアスは、ぎこちなく微笑んだ。
「怖くて言えないわ。こんな事を言って、あなたはどう思うかしら」
「何を言われようと、君を大切に思う気持ちは変わらないよ。私の一生は君のものだ。私は生涯、君の護衛官だ」
ただの護衛官。時々、愛人。それだけで終わってしまうのかと思うと、胸に迫るものがあった。ナタリアは弱々しく首を振り、再び哀しげに彼を見上げた。
「陛下と離婚したいの。そして――――」
離婚――――。つまり、縁を切るということだ。マティアスにとって喜ばしいことだったが、その先は?
「あなたと結婚したいわ」
真剣な口調で言い、彼女は眉をひそめた。
「嫌なら、そう言って頂戴ね。恨んだりしないわ。時々自分を見失って記憶が途切れて、あなたに迷惑を掛けてしまうんですもの、妻になる資格がないのは分かっています。無理強いはしません」
「妻の資格なら、十分過ぎるほどあるよ。だが、どうして私と? 国王を捨て、なぜ私を選ぶ?」
「一緒にいたいからよ。他の人では駄目なの。あなたが牢につながれ帰って来なかった夜、一晩中あなたの名前を呼んだわ。あなたを失うんじゃないかと思うと、不安で怖くて堪らなかった。その時、悟ったの。あなたのいない世界では生きて行けないって。顔も思い出せない人に愛は差し上げられないわ。あなたを愛させて」
汽笛が鳴り、蒸気機関の低い振動が磨き抜かれた木の床から伝わってくる。マティアスは三度瞬きし、これは夢かと心の中で呻いた。
監視するための強制的結婚ではなく、本当の意味で夫婦になれる――――。早鐘の如く鳴る心臓に手を置き、そっと彼女の頬を撫でた。
「妻になってくれるのか、ナタリア」
「そうよ。夫になってくださる?」
不安そうな表情で、彼女は祈るように指を組んでいる。夢ではない――――。彼の胸に臆病な喜びが湧き起こり、少しずつ用心深く広がっていく。
「ある人が箱庭と呼んだ私たちの家で、老いて死を迎えるまで一緒に暮らしてくれるかい?」
「もちろんよ。箱庭は大好き。箱庭にしては広いと思うけれど。牧場も、遠くに見える雪山も、白いお城のような家も好き。もちろん、あなたが一番好きよ」
ナタリアはあでやかに微笑し、彼は歓喜に包まれた。
薔薇の心が、私のものになる。努力は、無駄ではなかった。想いが咽喉を詰まらせ、言葉を塞ぎ、目の奥を熱くする。
「……24年越しのプロポーズだ」
きょとんとするナタリアを、マティアスは力一杯抱きしめた。




