5 昔日の名残 Ⅳ
夜の帳が降り、深い闇がシャンデリアに照らされた王宮官房室のテーブルを囲んでいます。ラインハルト王子の薄青い目は闇より暗く、苦悩を滲ませて澱んだ宝玉のようです。
「首謀者はミレーヌか? それとも貴様がミレーヌとエメルを使っているのか」
「女は愛するものだ。使うものではない」
ボーデヴィッヒ侯爵の顔から笑みが消え、憐れむようにラインハルト王子を見つめました。
「ミレーヌが陰謀を嫌うことは、長い付き合いの貴方なら御存知だろう。彼女と私は、南トライゼンの出身だ。生家は隣同士で、干ばつと貧困という窮地を切り抜け生きて来た。同郷の同志のようなものだ。貴方が呼び出せば、彼女は何かあったのかと心配して駆けつけるだろう。夏の王宮舞踏会のように。ああいう事は、二度と起こらないと約束して頂けますね?」
「私が呼び出したのではない」
「夫のロイスブルクにきつく命じられ、彼女は王宮舞踏会を訪れた。すぐ帰るつもりだったのに、あなたが誘ったのだ」
静かな、それでいて空気を切り裂く侯爵の声。僕の脳は忙しく働いたけど、出て来るのは解答のない疑問ばかりです。侯爵が欲しいのは、ミレーヌさん? 何で、ミレーヌさん? ロイスブルク伯爵にきつく命じられたって、何を?
「ミレーヌとは、とうに終わっている」
「感謝します」
侯爵の形ばかりの会釈を受け、殿下は立ち上がりました。金と黒に彩られた軍服が、テーブルから扉の陰へと移って行きます。振り返った青い目線が、起立した僕たちの間をゆるやかに流れ、座ったままの侯爵に切りつけました。
「――――もしもミレーヌの方から誘って来たら、貴様を笑ってやろう」
不気味なまでに平静な声を残し、ラインハルト王子は重い扉の向こう――――薄暗い廊下へと消えました。
侯爵はしゅうと細く息を吐き、トーニオさんは暗い表情で侯爵を睨み、閉じた扉から侯爵へと移るレオンさんの視線は殺気立っています。僕はレオンさんの後ろを小走りで通り抜け、侯爵の前に立ちました。
「あなたが欲しいものって、ミレーヌさん? 殿下からミレーヌさんを貰い受けようとしたんですか? ミレーヌさんはいい人なのに、どうしてあなたと?」
「おいおい。ひどい言われようだな。さっきも話した通り、彼女とは古い知り合いだ。無礼な近づき方をするなと、殿下に釘を刺しただけのことだ」
ふいに、田園風景と緑薫る風が吹き抜けて行きました。見渡す限りの小麦畑と葡萄園。豊かな森。草原で無邪気に遊ぶ、小さな男の子と女の子。もしかして――――。
「ミレーヌさんは昔、男の子と野山を駆け回るお転婆娘だったと話してくれました。いつも真っ黒に日焼けして、傷だらけだったって」
「勘違いするなよ。傷だらけは木登りのせいで、私が怪我をさせたんじゃない」
やっぱり。ミレーヌさんの昔話を聞いて、侯爵の顔が一瞬明るくなったのは見間違いでしょうか。
「幼馴染のミレーヌさんを殿下から救い出そうとしたんですか? マイセルンの伯爵夫人がトライゼンの王子とお付き合いしたらスパイだと思われますよね? だから2人を引き離そうとしたんですか? ミレーヌさんには幸せになって欲しいんですけど……」
殿下と別れるつもりだと、消え入りそうな声で話してくれたミレーヌさん。7年の歳月と悲しい恋を終わらせるのは容易ではなく、見かねた侯爵がそっと、ミレーヌさんに知られぬよう気遣いながら手を貸したのかも知れない。
そんな繊細な神経を持ち合わせた人には見えないけど。僕の目には映らない、別のボーデヴィッヒ侯爵がいるのかも。
「君もな」
侯爵は、にっこりと微笑しました。穏やかに笑っている彼は優しそうで、いつもの意地悪な悪党とはまるで別人です。
「君には別の良縁を用意するつもりだった。その必要は無さそうだが」
「そうだったんですか。気を遣ってくださって……」
ありがとうと言いかけ、やめました。さんざん振り回され、嫌な思いをさせられたんだもの。怒りの炎が燃えたぎり、絶対に報復してやるぞと思っていたのに、ミレーヌさんのためだったと知った途端、不思議なことに炎は萎み小さくなっています。
憧れのミレーヌさん。お姉さんみたいに、ドレスや立ち居振る舞いや貴婦人になるためのあれこれを教えてくれるといいんだけど。……無理だろうな。
「そいつに礼を言ってどうする」
レオンさんの低い声が飛び、長身の体が僕に並びかけました。
「嫌がるエメルを無理やりラインハルトに押しつけ、エメルを犠牲にしてミレーヌ夫人を王子から取り上げるつもりだったのか。それがあなたの目的か!」
「落ち着け。一般的な貴族がどういう人種か、知らぬわけではあるまい。若く有能で裕福な高位貴族というだけで、縁を結びたがる。王家の愛妾になれるとなれば、一族総出でしゃしゃり出て来る。男爵家も同じと考えた私にも非はあるが……」
「あなた以外に非のある者がいるように聞こえますが」
トーニオさんがゆらりと侯爵に歩み寄り、長剣の柄に手を置きました。すらりと長い剣は白銀の鞘に収められ、美しい芸術品のようだけど、それだけでも無さそうです。
「落ち着けって。夏の王宮舞踏会で、エメルを美しいと思ったのは本当だ。ラインハルトとの間を取り持てば男爵家も王子もエメル自身も喜び、ミレーヌは板挟みから解放され、すべてが丸く収まる。そう考えた私が悪かった。エメルが男の子の恰好でモップを持って現れ、結婚を拒否した時は冗談だろうと思ったんだ。背中を押してやれば本性を現し、愛妾の地位と贅沢な暮らしを望むだろうと考えた私が悪かった」
「悪かったでは済みませんよ」
トーニオさんは剣の柄をしっかりと握り、レオンさんは怒りが収まらない様子で、2人とも侯爵にのしかかるように上から睨みつけています。
レオンさんとトーニオさんが僕のために真剣に怒り、戦おうとしている――――。
そう気づいた瞬間、侯爵に対する怒りも恨みも何処かに飛んで行き、僕は幸福感に包まれました。僕ほど幸せな子はいません。涙が滲み目をぱちぱちさせる僕の隣で、レオンさんが拳と拳をぶつけ、低いかすれた声でたたみかけました。
「ミレーヌ夫人とエードバッハ夫妻の件を都合よく絡め、貴方は容赦なくエメルを利用した。ああ、言葉に気をつけた方がいいですよ。さっきから拳がうずうずして、止めるのに苦労している」
「頼むから落ち着いてくれ。ナタリア夫人をどうするか、侍従長は頭を悩ませていたんだ。だから私に一任し、好きにさせてくれたんだろう。これが私の最後の仕事だからという恩情もあったかもしれん。抜くなよ。王宮規範違反だ。厄介なことになるぞ」
レオンさんの拳。今にも剣を抜きそうなトーニオさんの手。その間を侯爵の目線が忙しく行き来し、口調がどんどん早口になって行きます。
「結婚命令書についてはこちらの手違いで男爵家にもエメルにも何ら落ち度はなかったと公表する。それで気が済まないなら殴っていい。おまえ達ではない。エメル、殴っていいぞ」
「えっ、僕……?」
ご指名にあずかった僕に、6つの目が集まりました。侯爵を殴ってやりたいと思っていたけど、いざやれと言われたら……。素手で人を殴ったことは一度もなく、殴った方も殴られた方も痛い思いをすると聞いたことがあります。
「えっと……やめておきます。あなたを許したんじゃないですよ。僕の手が痛くなるから」
侯爵は立ち上がり、じっと僕を見つめました。口角がゆっくりと上がり、唇が弓型になって微笑を形作っていく。その過程が誰かに似ている気がして、つい見入ってしまいました。
パパだ。パパがこういう笑い方をする。じんわりと胸にしみる、嬉しくてこちらも笑顔になってしまうような笑い方を。侯爵め。卑怯だぞ。
「いつか埋め合わせをするよ。これから先、困ったことがあったら私のところに来るといい。私が君を助けよう」
「そんな……いいんですよ。僕もミレーヌさんが好きだから、貴方の気持ちはよく判ります」
「ミレーヌも君が気に入っているようだ。昨日フィア卒業以来の再会を果たしたが、挨拶もそこそこに、年端もいかない少女を苛めてるのかとなじられた。何も言わず、私を味方につけておけ。味方は多い方がいい。邪魔にはならん」
侯爵の大きな手が僕の頭を撫で、うなずく僕のそばで、2人の兄は溜め息をついていました。
部屋を後にするボーデヴィッヒ侯爵を見送り、僕はレオンさんとトーニオさんに向き直りました。
「色々とありがとうございました。お世話をおかけしました」
「何言ってんの。兄妹だろ」
トーニオさんが軽い口調で言い、「お人好しのエメには任せておけないからな」とレオンさん。
「こういう結末とはねえ。侯爵とミレーヌ夫人が同郷とは聞いてたけど、幼馴染とは情報収集不足だった。申し訳ない」
「俺だって。夫人が突然王宮にやって来たのは、侯爵と裏でつながっているせいかと疑ってしまった。親戚に不幸があって里帰りしたらしいが」
「ボーデヴィッヒ侯爵、焦ってたんですね。殿下をミレーヌさんに近づけるなとか、3日以内に御褒美を貰えとか、あわあわ口走ってましたよ」
ミレーヌさんに知られないようこっそり陰謀を巡らせたのに、いきなり本人が現れ、侯爵はどんなに慌てふためいたことでしょう。右往左往する侯爵を想像すると、どこか憎めなくて笑ってしまいます。
3人で話しながら王宮官房室を出て、剣と短銃を返して来るからとトーニオさんは去って行き、僕はレオンさんと執務棟の暗い通路を歩きました。
「なあ、エメ。俺のいない所で危険なことはしないと約束してくれないか。でないと、おまえを屋敷に閉じ込めてしまいそうだ」
「えっ、閉じ込める……」
ぎょっとして見上げると、レオンさんは横目で僕を見ています。
「おまえには、ある種の力がある。それは認める。だがらこそ心配でたまらない。俺はどんな時もおまえのそばにいて、力になるよ。小さな事でもいいから話して欲しい。一人で頑張ろうとしないでくれ。俺のために。約束してくれるか?」
「あの、でも、迷惑じゃないですか? だって僕ときたら、いつも詰まらないことに巻き込まれるんです。昔からそうで、逃げ足が遅いと言うか、僕を見ると苛めたくなる人が多いみた……あっ」
レオンさんの手が僕の腕を引き、僕はレオンさんの胸と両腕にすっぽりと包まれました。レオンさんの背中に両手を回して力をこめると、レオンさんの腕にも力がこもります。
「迷惑なわけないだろう」
暖かくて居心地のいい、僕の居場所。レオンさんの囁きが力強く耳をかすめ、僕の胸に安堵が広がって行きます。甘えていいのかな。すべてを委ね、何も考えず安心していいのかな。
心を守る硬い壁が一枚また一枚と取り除かれ、心細くて恥ずかしくて、ちっぽけな裸の僕が震えています。レオンさんは変わることなく暖かく、僕の体からしだいに緊張感が抜け、溶け入るようにレオンさんに寄りかかりました。
素直な気持ちで甘えれば、新しい道が開ける。壁を取り払って自分をさらけ出し、それでも愛して貰えたら壁なんか必要ない。敬語も、武器のモップも、戦闘服である男の子の服も要らない。レオンさんの愛が僕を守り、愛されてる実感が僕の武器になる。
レオンさんの存在が僕の中で根を張り、柔らかな枝が力強く広がり、大木となって僕を優しく守ってくれています。うっとりと夢見心地の脳に、言葉を刻みました。信じること。一人じゃないこと。そして――――甘えること。
「約束します」
見上げると、心配そうな黒い瞳が僕を見つめていました。
「泣いてるのか?」
「嬉しくて。僕、レオンさんが好きです」
「わかってる」
僕の涙を吸い取る柔らかな唇。右目、そして左目へと。
「帰ろう。誰が何と言おうと、夕食は家で食べるぞ」
「はい」
レオンさんと並び、執務棟の通路から王の回廊へと向かいました。ラインハルト王子の部屋に入ると、マテオさんが荷物の紐をほどき、開梱作業の真っ最中です。
「王妃様からのお届け物。絵みたいだよ」
――――例の絵だ! 口の悪いボーデヴィッヒ侯爵はオッサンの絵だと言ったけど、どんな絵だろう。はやる気持ちを抑え、マテオさんを手伝って何重にも巻かれた包装紙をはがすと、錆びた額縁が現れました。
「殿下は?」
「着替えてるよ。ブルーノが手伝ってる」
レオンさんとマテオさんが額縁の両端を持ち、サロンの壁に立て掛けた肖像画。紳士の胸から上が描かれ、金糸に縁どられた黒い上着と白い胸飾りが古めかしく、百年から二百年くらい前の人物に見えます。
肩まで伸びた黄金の髪。突き刺すような青い目。秀でた額と彫りの深い顔立ち。年の頃は三十代でしょうか。でも――――ラインハルト王子に瓜二つ!
「ラインハルト……様?」
「いや。彼より年配だろう。だが……驚いたな。まるで同一人物だ」
レオンさんはそう言ってひゅうと口笛を鳴らし、「何か挟まってる」とマテオさんが額縁の裏に手を伸ばしました。奥の部屋から正装に着替えたラインハルト王子が出て来て、肖像画の前で足を止め、遅れてやって来たブルーノさんが隣に立ちます。
「あれ? 殿下が仮装してる?」
「ウィリアム・ヘンリー・アントン、初代オーレックス準男爵、だそうです」
紙を開き、読み上げるマテオさん。ラインハルト王子は彫像のように立ち、瞬きもせず肖像画に見入っています。
「アントン家って、王妃様のご生家じゃありませんでした? ということは、この方は殿下の御先祖様?」
「初代オーレックス準男爵は北方のどこかの国出身で、アントン家の婿になったんだよ。功が認められて、準男爵の位を貰った。そうか、殿下の金髪と青い目は北方の血を引いてるからなんだ。あちらの国々では金髪碧眼が多いらしいから。ちなみに我がザイエルン家にも、北方の血は混じってる」
「昔の絵か。俺はまたどこかの仮装舞踏会で、殿下が酔狂ぶちかましたのかと思った」
ブルーノさんが呻き、僕の脳裏を金と青に彩られた一本の糸がよぎって行きました。遥か遠い北方の国からアントン家、そしてトライゼンへとつながる一本の糸。細く頼りない糸が人を結び、国をつなぐんです。――――心も。
「この絵を見れば、ラインハルト殿下は間違いなく初代オーレックス準男爵の子孫だと、みんな納得しますよね。こんなに似てるんだもの、他人なわけない」
もっと早く公開すれば良かったのに、と思わないではないけど。そうすれば妙な噂が立つこともなく、殿下が悩まされることも無かったでしょうに。
クックックク……。乾いた笑い声が聞こえ、僕はぎょっとしました。殿下が片手で顔を覆い、苦しそうに咽喉を震わせ笑ってる……。
「……帰っていいぞ」
冷たい青い目が僕たちを素早く一巡し、肖像画に戻って行きます。4人で顔を見合わせ、レオンさんはうなずいたけど、マテオさんは不満そうです。
「僕はキリのいい所まで務めさせて頂きます。晩餐のお見送りまで」
「後はスミスがやる。おまえ達は家に帰れ。……出て行け!!」
最後の言葉が怒声となって響き渡り、僕は飛び上がりました。クビ――――? 不慣れなヴァレットにいつまでも付き合っていられるほど、殿下は暇ではないという事なんでしょうか。
それだけじゃないかも知れない。肖像画を見つめる端整な横顔は怒りに張りつめ、今にも絵を切り裂いてしまいそうです。
何を怒っているんだろう。肖像画の存在を今初めて知らされたから? 何も教えてくれなかった王妃様に対して? それとも運命を?
出て行けと言われたら従うしかなく、僕たちは肩をすくめ、しょんぼりと部屋を出ました。
「俺の側使いは、毎朝こんな気分かな。我慢強い奴だなあ」
「不機嫌で最低だもんな、寝起きのブルーノは」
廊下に出たブルーノさんが小声でぼやき、マテオさんは軽口を叩いているけれど、笑うに笑えないといった表情です。
「胸が痛いな。頭に血が昇ってつい怒鳴ってしまい、後悔する。だが俺の場合、助けてくれる仲間がいるからな」
「後悔してるレオンは、可愛いからさ。悪いことしたな許して貰えるかな、なーんてビクビクしてるレオンを見ると、頭を撫でてあげたくなるんだよね」
「あのなあ」
「殿下も今頃、後悔――――するわけないか」
ブルーノさんが言いながら振り返り、マテオさんも諦めきれない様子で扉を見つめています。僕だって、こんな別れ方はしたくない。最後はきちんと挨拶して、清々しい気分で家に帰りたい――――あっ。
「僕、挨拶してない……すっかり忘れてた」
「最後に一声、掛けて帰るか」
レオンさんが言い、「また怒鳴られそうだが」とブルーノさんは心配顔で、マテオさんは颯爽と扉に戻って行きます。一歩中に入ると、腕を組み肖像画を凝視していた殿下の目が僕たちを貫き、僕は震え上がりました。
「ああの、そのっ、勉強になりました。ヴァレットのお仕事とか、厨房のお手伝いとか。ありがとうございました!」
慄きながらも先陣を切って口上を述べ、ぺこりと頭を下げる僕。
「次に伺う時は、笑い話をどっさり持って来ますから。今回は時間が無くて残念でした。でも楽しかったです。ホッホー!」
「いつでも呼んでくださいよ。ただちに参上し、じゃが芋踊りを披露致します。お世話になりました」
マテオさんブルーノさんに続き、レオンさんの番です。
「色々ありましたが、貴方に敬意を持っています。これからも俺より一歩先を歩いてください。すぐに追いついて見せますから。先輩」
レオンさんから飛び出したのは意外な言葉で、しかも深々と頭を下げています。殿下の険しい顔にふっと笑みが浮かび、目に柔らかな光が差しました。
「王宮は仕事場だ。楽しい場所ではない。それで良ければ、いつでも来るといい」
「了解です! それではお言葉に甘え、帰宅させて頂きます」
マテオさんを真似て4人揃って敬礼すると、殿下の笑みが苦笑に変わり、目に差した柔らかな光が顔全体に広がって行きました。
笑ってる――――ラインハルト王子が。苦笑いだけど、目が笑ってる。
ほんの少し、氷の棘が溶けたんでしょうか。そう簡単に溶けるわけないなと思い直しつつ扉まで戻り、振り返ると殿下の視線は肖像画に落ち、口元には微笑があります。
溶けない氷は無いんじゃないか、と僕は思いました。小さな優しい出来事を積み重ね、多くの人の心に触れながら、きっといつかは溶けると信じたい。人とのささやかだけど心温まるつながりが、過去の嫌な記憶に幸せな記憶を上書きしてくれると思いたい。
一人で頑張らないでくれ――――。レオンさんの言葉が、頭の中で鳴り響きました。