5 昔日の名残 Ⅲ
窓の外に夕闇が垂れこめ、シャンデリアの蝋燭がテーブルに影を落としています。「手短にね」と王妃様に言われ、「はい」と答えた僕は、大慌てで頭の中を整理しました。
侯爵も侍従長も国王陛下の命令を果たすべく動いたとわかったけれど、疑問点が残されています。なぜ僕が必要だったんでしょうか。
エードバッハ夫妻の一件と、僕をラインハルト王子の愛妾として差し出すという侯爵の謀略が、どうつながっているのか少しも理解できません。
うまく言えないけど、まるで国家規模の大事件に僕の結婚問題を無理やり押し込んだかのようで、シリアスな難題に僕だけがぽっかり浮いていて、もの凄く違和感を感じます。
侯爵は王家から何かを手に入れるため、僕とエードバッハ夫妻を利用したに違いない。そう考えると辻褄が合うけれど、新たな疑問が出て来ます。
僕が頑張って働いて殿下から御褒美を貰う、あるいは従順な愛妾になって王家の宝を譲り受けることを期待したのかもしれないけど、どちらも可能性は限りなく低く、腕利きの諜報官で有能な人物らしい侯爵がそんな不確実な計画を立てるでしょうか。
何かが釈然とせず、胸の中がもやもやします。侯爵と目が合うと、彼は片頬を上げニヤリと笑いました。
「陛下の結婚命令なら、無効だ。印を新しいものに取り換えた際、テスト用に押印した書類を文官があやまって届けてしまったらしい。さっきそう聞かされ、驚いたよ。そんなことがあるものなんだな。と、いう事にしておこう。お互いのために」
「は……?」
バキッ。レオンさんが指を鳴らす音が聞こえました。
無効……? 僕は拍子抜けして、前につんのめりそうです。侯爵と結婚しなくていいってこと? 家に帰っていいの? 僕の結婚問題は解決しました。めでたしめでたし。――で済むわけないじゃないっ。
「取り繕って欲しいんじゃなくて、真相が知りたいんです。あれは、あなたが国王陛下に頼んで書いてもらった物でしょう? あなたは僕にそう言いましたよ。王宮舞踏会で一目惚れして、陛下に頼んだって。嘘だったの?」
「まあ、何だ。話の成行きで、そういう事にしたんだ」
「御褒美は? 言う通りにするなら、陛下に頼んで結婚を白紙にしてやる。欲しい物があるから、働いて殿下から御褒美をもらえって僕をさんざん脅したでしょう。あれも嘘?」
「詫びろと言ってるのか? 騒がせたな、お嬢さん」
よくもいけしゃあしゃあと。全部嘘だったなんて、そっちの方が嘘っぽい。さては侯爵め、御褒美の件がバレたら職を失うから、無かったことにしたいんだな。
テスト用の書類に偶然僕の名前が書かれてたなんて、誰が考えてもおかしい。そんな言い訳が通用するほど世間は甘くないってことを、こんこんと言い聞かせてやらなくては。
「用済みというわけですか。エメルは、エードバッハをトライゼンにおびき寄せる餌だった。侍従長も御存知だったんですか」
レオンさんが不穏な声音で尋ね、侍従長はやや上ずった声で答えました。
「どうだったかな。結婚命令書に関しては、申し訳なかったと思っておる。今後こういう不手際が起こらぬよう、業務改善せねばならんな」
どうだったかなって……覚えてないの? 言い訳はいらない真相を話せとレオンさんは言っていて、今後の事なんて一言も聞いてないのに、大丈夫かなこの人。
侯爵は答をはぐらかすし、侍従長はすっとぼけるし――――わざとだな。やっと気づきました。侯爵も侍従長も責任をとりたくないから、こちらの質問をのらりくらりとかわしてるんです。
僕が睨むと侍従長は困った顔で目をそらし、ますます怪しい。書類に僕の名前を書き込んだのは侯爵だろうけど、侍従長も知っていたに違いない。やっぱり2人はグルなんだ。
こうなったら切り札を使い、一気に攻め込み締め上げてやる。逃がしてなるものか。大きく吸った息を声に乗せ、矢のように放ちました。
「侯爵。あなたは王家が所有する絵を欲しがったそうですね。高値で売れそうですか? 売却先は見つかりましたか?」
「絵? ……ああ、あれね」
視線を王妃様へと移すなり、ボーデヴィッヒ侯爵の口調が真剣で真面目なものへと変わりました。
「私見ですが、私はあの絵を公開すべきだと思っています。ラインハルト王子のために、そして国民のために」
「考えてみましょう」
「何の絵です?」
ラインハルト王子が問いかけ、王妃様は首を微かに振りました。
「話せば長くなるわ。夕食を一緒にいかが?」
「いいですよ」
夕食の席で話すという意味なのでしょう。即ち、ここでは話せないという意味です。どんな絵なのか根掘り葉掘り聞きたいけど、そんな失礼な事ができるはずもなく、侯爵に詰問するしかない。
「あなたは、絵を自分の物にしたいんでしょう?」
「オッサンの顔を眺めて喜ぶ趣味はない。美女の肖像画なら、ありがたく貰い受けるが。……お許しを」
侯爵は王妃様に会釈を送り、僕の脳は混乱をきたしました。オッサン――――侯爵の品性に相応しい、品のない言い方だということはさておいて、彼は絵を欲しがっていないようです。
絵でないとしたら、何が欲しいの? お金? 公開しても王家が拝観料を取るわけもなく、侯爵に実入りがあるとは思えません。お金目当てじゃないとしたら、何のため? 紳士の肖像画のようだけど、誰の肖像?
「褒美の話は忘れろ。褒美がもらえるほど熱心に、骨身を削って殿下に奉公しろと言ったのだ。君には伝わらなかったようだが」
「そういう言い方ではありませんでしたよ。欲しい物があると、僕にはっきり言ったじゃないですか」
「男の言葉を鵜呑みにするな。痛い目に合うよ」
「ご心配なく。放蕩者で変態の言葉は、まったく信じてません。あっ」
手で口を押さえたけど、時すでに遅し。王妃様が小振りの扇で口元をおおい、くすくす笑っておられます。しまった――――。王妃様の前で「変態」だなんて。品のない子だと思われたに違いない。
おもむろにラインハルト王子が立ち上がり、僕の背後を通って扉に近づき、傷だらけの樫の戸板を細く開きました。
「エードバッハを連れて行け」
殿下の黒い軍服は影にまぎれ、金の肩章がシャンデリアの灯を受け煌めいています。闇から抜け出すように入って来た兵士2人に両脇を持ち上げられ、エードバッハの口から悲痛な声が洩れました。
「アン様。どうかナタリアを助けてください。すべては私の責任です。罰せられるべきは私で、彼女に罪はありません」
「それを決めるのは、貴方でもわたくしでもありません。内密に陛下の判断が下されるか、相応の機関で裁判が開かれるのか、いずれにしてもそう時間は掛からないでしょう。心静かに裁定をお待ちなさい」
冷徹とも言える王妃様の返答。エードバッハの顔に失望の色が広がり、彼が部屋を後にするや王妃様は立ち上がりました。
「あの、あの……」
終了なの? 知りたかった真相も暴けないまま終わり? 焦る僕に、王妃様の穏やかな微笑が注がれます。
「後は任せましたよ、エメル。トーニオ、報告をお願いね。わたくしは陛下の執務室に参ります」
「承知しました」
トーニオさんは礼をし、侍従長が立ち上がって王妃様に腕を差し出しました。
「お供しましょう」
侍従長の腕に手を添え、柔らかな衣擦れの音と共に退室される王妃様。僕たちは頭を下げ、黒レースの引き裾とふくよかな後ろ姿を見送りました。
扉が閉ざされるなりラインハルト王子の鋭い視線がボーデヴィッヒ侯爵に突き刺さり、トーニオさんは武器を携帯したまま殿下と侯爵に視線を走らせ、レオンさんはテーブルを見下ろしているもののピリピリした空気を放っています。
大股で席に戻った王子様は、黒いズボンに包まれたすらりと長い足を組み、薄氷のような目を侯爵に向けました。
「話せ。貴様が隠していることを、すべて」
「話しましたよ。24年を経て、ナタリアの一件を正式に終わらせる時が来たということです。幽霊は闇の中では怖ろしいが、光が当たると消えてしまう。何もかも明らかにし、新たな始まりを迎えようではないですか」
「その事ではない。この事件には2本の線がある。1本はナタリア、もう1本はエメルが中心になっている。ナタリアと関わりのないエメルを、なぜ巻き込んだ?」
「私も知りたい」
静かに言葉を挟んだのは、レオンさんでした。
「リーデンベルク家の娘と結婚することになっている。彼女はラインハルト王子の愛妾候補だから、うまく使えば王子に会える。ナタリア夫人を王子に会わせる代わりに借金を清算してくれと、エードバッハを釣ったのでしょう? 手間をかけたものだ。エメルがいなくとも、王子が会いたがってるの一言で夫妻は喜んで騙されただろうに」
それだ、僕が侯爵に尋ねたかったのは!
エードバッハ氏を騙すのに、結婚命令書やニセの借金を用意する必要は無かったんです。僕を利用することで、手口がより複雑になってしまっています。
心の中でもやもやしていたものをレオンさんが端的に表現してくれ、すっきりした気分で胸を押さえ、改めて侯爵を睨みました。
「そう簡単に騙されてくれるとは思わなかったのでね。何年も諜報官を務めていると、念には念を入れる習慣がつくものさ」
「そうか? 妻を愛妾にする男の目的は一つだが、金を必要としているようには見えん。ボーデヴィッヒ侯爵家が負った借財は、貴様が全額返済したそうだな。王宮官房室にいるというだけで地位も名誉も満たされている。とすると何だ? 貴様の目的は?」
ラインハルト王子がきつい口調で尋ね、侯爵はうんざりしたように片手をテーブルに置き、王子を横目で見やりました。
「仕事ですよ。貴方のお父上から命じられたことを、忠実に果たしただけだ」
「そうかな。欲しい物があるのだろう。言ってみろ。条件によっては、くれてやる」
くれてやる――――。最後の一言が木霊の如く余韻を残し、沈黙を呼びました。
侯爵は無言を返し、細めた目が刃のようです。ラインハルト王子とボーデヴィッヒ侯爵。2人の間で時間は飴細工のように長く薄く引き延ばされ、柱時計の振り子の音がやけに大きく聞こえます。
先に動いたのは、侯爵でした。テーブルに両手をつき、挑むように身を乗り出し、放たれた冷たい怒りの言葉。
「貴方から何も貰おうとは思っていない。必要な時は、取り上げる」
雄ライオンを思わせるゆったりとした余裕たっぷりの動作で、侯爵は椅子に腰をおろし、皮肉で乱暴な笑みを浮かべました。
「忠告しておこう。二度とミレーヌに近づくな。貴方にその資格はない」
「なるほど。ミレーヌと貴様は、幼馴染だったな。そういうことか」
ラインハルト王子は、ふっと笑いました。