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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
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5  昔日の名残  Ⅱ

「今年の春、アメルグに駐在していた外交官が定期報告書を提出しました。その中の一文が、陛下の怒りを買ったのです。第二王子殿下の御生母が我が国におられるのかと、アメルグ政府高官から尋ねられたという部分が」


「今に始まったことではないでしょう」


 王妃様は、ラインハルト王子に視線を走らせました。殿下は軽い微笑を返し、「気にしないで」「わかっていますよ」と目の会話が成立したようです。


「さよう。ゴシップは無視し、公の場ではきっぱりと否定する。何度も繰り返されて来ましたな。エードバッハには、幾度となく注意をしたはずだが」

「すべてが私とナタリアのせいだとは、どうか思わないで頂きたい」


 エードバッハのきつい目と侍従長の厳格な目がぶつかり、間に挟まれたボーデヴィッヒ侯爵は素知らぬ顔で壁を眺めています。


「噂の出所をたどれば、必ずと言っていいほど君の夫人にたどり着く。彼女の虚言を面白可笑しく吹聴する者どもは、さらに罪深いが」

「妻を部屋に閉じ込めておけとでも言うおつもりか」


「そうしておいた方が、身のためだったのではないかな。火消しをしたと思えば、別の場所で煙が立つ。外交に利用され、トライゼンは風評被害をこうむる事になる。君は真剣に考えておらんようだが、問題が新興国で起きたという点を陛下は重要視され、二度とこのような事なきよう手を打てと仰せになったのだ」

「二度と……?」


 エードバッハの顔が青ざめ、立ったまま椅子の背を握った僕の手に力がこもります。


 全国民が平民であるという点で、アメルグは諸外国の中でも特異な国です。王族・貴族のしがらみが無いはずの、まっさらな新興国アメルグで噂が囁かれている――――それを問題視する陛下の気持ちもわかる気がしますが、二度となきよう……手を打つって……まさか。

  

「殺すの? 口封じのために?」


 震える声を絞り出すと侍従長は険しい目を僕に向け、王妃様の後ろに立つトーニオさんが「口を出すな」と言いたげに首を振りました。隣から静かな声が流れ、見ると椅子に背をあずけたレオンさんが、ゆったりとした態度で挑むような目を侍従長に向けています。


「妥当な質問だと思います。可能性はあるのですか?」

「すべての解決方法を視野に入れておる」

「よくもそんな事を! この事態を引き起こしたのは誰か、ナタリアがああなったのは誰のせいか、あなたはよくご存知のはずだ!!」


 激昂したエードバッハは立ち上がり、わけの分からない僕はトーニオさんの無言の忠告も忘れ、尋ねてしまいました。


「誰のせいですか?」

「ダレフ殿下だ」

「口をつつしめ!」


 侍従長の叱責が飛んだけれど、エードバッハは引き下がりません。奥歯をぎりっと噛み、憤怒と憎悪のこもった眼で侍従長を射すくめています。


「ナタリアの両親に大金を払い、田舎町で平凡に暮らしていた彼女を無理やり国王に侍らせたのは誰ですか。国王を王妃から引き離し、有力貴族の娘の中から新しい王妃を選ぼうと持ちかけ、外国人王妃に反対する勢力を配下に集めたのは誰か。ダレフ殿下ではありませんか。彼が失敗したのは自業自得、ラーデン侯爵を参謀にしたからだ。国王がナタリアよりアン王妃を選んだ時、ラーデンは掌を返したように王妃派に寝返り、ダレフ派は瓦解した。ああ、あの時のダレフ派貴族が見せた薄汚い逃げっぷり。今でも思い出すと呆れ果てますよ。何もかもダレフ殿下とナタリアが仕組んだこと、あの2人に騙され踊らされたのだと口裏を合わせ、国王の処罰を逃れようとしたんだ。聡明な国王は、アン王妃への忠誠と引き替えに彼らと和解し、領地と爵位を返上して詫びる弟を許した。あれほどの騒動を起こしながら、誰もが何事も無かったかのように平穏無事に暮らしている。ナタリアを除いて……」


 エードバッハの顔がしかめられ、落した視線の先で握った両拳が微かに震えました。


「何の後ろ盾も持たない彼女に、すべての罪が押しつけられた。稀代の悪女、野心家、妖婦。そんな言葉が、無垢な彼女をどれほど傷つけたことか。子供を失い心の支えだった国王の愛情を失い、国外追放を宣告された彼女は文字通り言葉を失ったのです。あれほど輝いていた彼女が、話すことも笑うことも出来ない人形になってしまった。私が結婚したのは、ナタリアの人形でした」


「君は生涯ナタリアを監視し、決してトライゼンに迷惑を掛けさせないと約束して大金を受け取った。忘れていまいな」


 侍従長の声が非情な響きを伴って巡り、エードバッハは目線を上げました。


「それは貴方の言葉だ。私はうなずいただけ。腸が煮えくり返る思いでね。今なら全額返還できるが、返すつもりはない。あの金は、ナタリアへの賠償金だ。あの時私が金を受け取ったのは、彼女に恩返しをするためだった」

「恩返し……って?」


 エードバッハの視線が僕に留まり、僅かに和らいで遠くに離れて行きます。


「真面目だけが取り柄の衛兵だった私を、彼女は護衛役に取り立ててくれた。彼女にすれば勤務態度のいい者を選んだだけだっただろうが、私にとっては生涯最高の喜びだった。だから人形となった彼女を前に、何でもする覚悟を決めたのだ。たとえ私は罰を受けようとも、彼女だけは――――。彼女に笑顔を取り戻して欲しかった。もう一度、輝いてもらいたかった。だから――――」


「何をしたの? 聞かせてください」


 沈黙が降り、彼は力を失ったように椅子に崩れ落ちました。縄に縛られた両手をテーブルに置き、うなだれています。


「……ナタリアの子供は、産声をあげませんでした。動かない息子に、彼女は泣きながら『ラインハルト』と呼びかけたそうです。第二王子の名はラインハルトと決められていたから、当然自分の息子がその名を受けるものと信じていたんです。言葉を失った彼女が、ほんの時折口にする名も『ラインハルト』。彼女の心を癒す鍵は、ラインハルト。だから私は――――子供は死んでいないと言い続けた。すり替えられ、トライゼン第二王子として生きていると」


 ラインハルト王子の息を呑む音が、微かに聞こえました。エードバッハは握った拳を広げ、遠目にも血が滲んでいるのが分かります。


「毎日毎日、一日中語りかけた。貴女の息子は生きていると。1年を過ぎた頃、彼女はようやく微笑んでくれたんです。話の辻褄を合せるために、作り話を重ねなければなりませんでした。ナタリア王妃は静養のため、アメルグに滞在している。王子は国王が立派に育てている。国王の周囲には数多くの愛妾がいるから、今戻れば辛い愛憎劇に巻き込まれる。やがて、ナタリア自身が空想を編み始めました。――――流浪の王妃。愛憎渦巻く王宮より旅を愛し、奔放な夫を遠くから見守る寛大な妻。罪深いと思いつつ、止めることが出来なかった。空想に守られた彼女が、幸せそうだったから」


 咽喉を詰まらせたエードバッハの目に涙が光り、僕の目の奥が熱くなります。


「あの……こんなこと尋ねてごめんなさい。答えるのは辛いと思うんですけど、どうしてナタリア夫人を殿下に会わせようとしたんですか? 結果として夫人は真実を知ってしまって、空想世界を失いそうですけど……」


「彼女は息子に会いたがっていた。何十年もの間、思い留まらせて来たよ。しかし泣きながら人形を撫でている彼女を見ていると……。思い切って、話を合わせて貰えないだろうかと殿下に手紙を書いたが、読んでは頂けなかったのですね?」


「恩情で生き長らえ何不自由なく暮らして来ながら、感謝どころか恨みつらみを募らせている。そのうえ私に芝居をしろとは、どこまで他人に甘えるつもりなのだ」


 ラインハルト王子のくぐもった声がテーブルを巡り、王妃様の口からかすれ声がこぼれ落ちました。


「ラインハルト……」

「はっきり言うべきですよ、母上。エードバッハ夫妻のために、トライゼンの国益がどれほど損なわれたか」

「ナタリアの人生は、損なわれなかったと言われるのか」

「貴様と妻は、箱庭で暮らせばいい。外部と関わるな。関われば国家が被害をこうむり、大勢の人間が嫌な思いをする」

 

 殿下の横顔と強張った肩に、怒りが感じ取れます。最後の言葉が、彼の心情を最も強く語っているんだろうと僕は思いました。嫌な思いをする――――殿下が。


「私もナタリアも、もう若くはない。彼女の故郷に隠棲させて欲しい、監視付きで構わないと申し出て却下された。そうでしたね、侍従長」

「そうだったかな」


 感情のない声で侍従長は答え、ちらりと王妃様を見やりました。王妃様は無表情だけど顔色が悪く、組んだ指先が震えています。


 ナタリア夫人がトライゼンに戻る――――国民すべてが家族みたいなものと王妃様は言っておられたから、かつての愛妾と一つ屋根の下で暮らすように感じられたのかな。エードバッハの申し出を拒否したのは王妃様? 違うかな。


 冷ややかな沈黙が降り、どんよりと暗い空気を何とかしようと僕は言葉を探しました。


「あの、その、ダレフ殿下は関わってるんですか? 今回の事件に……」

「叔父上なら、逃げたよ。ナタリアがクラレストに潜んでいるらしいという噂を聞きつけたんだろう。彼女とは24年間一度も会っていない、今後も会うつもりはないと私に言い置いて、アーデンへ旅立って行った」


 アーデンは、南トライゼンにある温泉地です。ダレフ殿下は急に思い立ってアーデンに向かわれたと聞いたけど、本当はクラレストに立ち寄り自身の立場を釈明して、事件との関わりを避けることが目的だったんだ……。


「どうして、ナタリアさんだけが処罰されたんですか? 陛下に刃向った貴族も弟君も許されたのに、どうしてナタリアさんは許されなかったんですか?」


 こけた頬を震わせ、沈んだ声で答えたのはエードバッハでした。


「人は許されても、罪は残るからね。騒動に決着をつけるため、勝者と敗者、犯罪者とその処罰を国民にはっきり示す必要があったんだ。国王は妖婦ナタリア・ハンセンに魅了されたが、苦悩の末目を覚まし、善良な妻の元へ戻った。国民受けのいい話だ。妖婦は天罰を受け狂気に陥り、国王に反抗した貴族は悔い改めて国家に奉仕しようと政治家に転身した。若隠居したダレフ殿下は実は兄思いの好人物で、人間味ある国王と若く美しい王妃がトライゼンの明るい未来を築くだろう。一件落着」


「そこまでにしておきなさい」


 王妃様の声にエードバッハは天井を仰ぎ、涙を押し留めようと瞬きしています。


「誰もが罪深い時代でした。わたくしも、陛下も、ナタリアも、傍観者だった国民ですら。ナタリアは、王妃の地位を望んでいましたよ。反論は許しません。彼女の口から直接聞いたのですから。貴方にとって彼女は無垢な女神かもしれませんが、わたくしから見れば違います。でも、そんな話はやめましょう。侍従長、先ほどの続きを。陛下が事態を打開するようにと指示を出し、その後どうなったのです?」


「さよう。陛下の指示は、2つありました。1つ、人目につかないこと。エードバッハ夫妻が突然行方不明になれば、無用な憶測を呼ぶでしょう。そのような事なきようにと仰せでした。2つ、陛下は貴女様のご心痛を心配しておいででした。ラインハルト殿下の生母の噂が耳に入るたびに、貴女様が毅然としながら心を痛めておられたことを陛下は御存知です。2つの条件を満たす良き方法を考えよとの命令を受け、ボーデヴィッヒをアメルグに派遣したのです」


 侍従長の視線を受け、侯爵はこほんと乾いた咳払いをしました。


「この問題に関する我が国の基本方針は、昔も今も変わりません。第二王子の御生母はアン王妃であるとの公的立場を貫き、陰で囁かれるゴシップの類は一切無視する。そこに新たな施策として、ナタリア・ハンセン・エードバッハの現在の姿や彼女の病状、虚言癖など事実を明らかにする事を加えます。正確な情報を全世界に向け発信すれば、噂など信じる者はいなくなる」


「ナタリアを晒し者にするつもりか」

「部屋に閉じ込めておきたくないと、さっき言ったではないか。出掛けて貰おう。気が済むまで」


 ボーデヴィッヒ侯爵の怒気を含んだ声が、部屋の空気を震わせました。侯爵が人を脅す時はこういう怖ろしい殺気立った顔をするんだと、今更ながら思い知らされます。僕を脅した時は、軽い雰囲気だったのに。あれは脅しと言うより、彼にとっては遊びに近かったに違いない。


 エードバッハの暗い眼が、ボーデヴィッヒ侯爵から自らの手に移って行きます。肩を落とした姿は見るのも辛く、声をかけたいけれど言葉が出ません。


「事情は分かりました。皆、よく話してくれました。今日はここまでにしておきましょう。陛下の裁定が下るまで、各部署が自重してくれる事を望みます」


 王妃様は沈んだ声で言い、立ち上がろうとしています。僕は焦りました。ここで終わって貰っては困る。まだ尋ねたい事があるんです。


「あのっ。お願いです、王妃様。もう一つだけ質問させてください!」


 侍従長の険悪な視線。侯爵の苦笑。ラインハルト王子のうんざりしたような嘆息。トーニオさんの驚きと恐怖に見開かれた目。それらを一身に受けた僕の隣で、レオンさんが微かに笑っています。


「私からもお願いします。どうか、あと一つだけ」

「レオン卿は、妹に甘いわね」


 王妃様の口角が、僅かに上がりました。





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