5 公爵令嬢の表と裏 Ⅰ
その夜。ベッドでガーゼケットに埋もれながら、拳闘倶楽部で起きたことを何度も思い返しました。
「俺のものに手を出すな」――――レオンさんの声が、頭の中で蘇ります。
俺のもの――――。
「俺のもの」とは「俺の家族」という意味だろうと僕は思いました。
家族になったんだから、家族の一員を自分のものと考えても不思議じゃありません。
レオンさんが僕を家族と認めてくれた。それはとても嬉しくて、僕を幸せな気分にしてくれました。
アーレクさんも、ロビーで僕をパーティーに誘った紳士も、きっと女性より男性を好む類の人です。
レオンさんが言っていた「ある種の人間」とは、そういう事をさしているのだろうと思います。
レオンさんは、僕を危険な人達から守ってくれた――――。
そう思うと僕の幸福感はますます高まり、雲の上を歩いているようなふわふわした気分になります。
でも僕がレオンさんの生き方に口出しして、レオンさんに嫌な思いをさせたという事実に変わりはなくて、僕の気分は雲の上から地の底の暗い部分に落ちて行きました。
眠る前、僕はレオンさんに謝ろうかどうしようかと迷いながら、結局何も言い出せませんでした。
レオンさんはほんの少し目が赤かったけれど充血はしていなくて、いつもと変わらない表情でいつもと同じ口調で「おやすみ」と言い、そうしてドアのそばに敷いたマットレスと枕とガーゼケットだけの即席ベッドにもぐり込んでしまったんです。
眠れないまま考えているうちに、レオンさんに謝らなくて良かったんだと思うようになりました。
やっぱりレオンさんには危険な目に合ってほしくないし、怪我もしてほしくない。拳闘をやめてほしい。
どうしてレオンさんが拳闘にのめり込むのか、僕には理解できません。
尋ねる勇気もないし……。
怒ったレオンさんを見ると、弱虫の僕はどうしても傷ついてしまう。これ以上傷ついたら、立ち直れないかもしれない……。
最も忘れられない出来事――――たぶん一生忘れられない出来事は、レオンさんが僕を抱きしめたことです。
あの時のレオンさんは、何を想ったのでしょうか。
きっとレオンさんは体調が悪いんだと思ったから、僕は必死に支えたけれど、ただ眠かっただけなのかもしれない。
でも「眠い」と「抱きしめる」の間にはもの凄く隔たりがあるし、僕の頭の中で少しも結びつきません。
抱きしめるというのは、愛情表現だと思うんだけど……。
僕が小さかった頃、パパが僕を抱きしめてくれました。
パパに抱きしめられると安心したけれど、レオンさんに抱きしめられるとドキドキして、心臓が飛び出しそうになりました。
レオンさんは樹の香りがして温かくて、細く見えるのに僕をすっぽり包み込めるほど大きかった。
僕はガーゼケットから顔を出し、ドアの前で眠るレオンさんをそっと見ました。
レオンさんの寝顔はとても綺麗で睫毛が長くて、目を閉じややこちらに傾けた顔は女性に見えなくもありません。
目を開くとあんなに怖い人になるのに……。
考えてみるとパパ以外の男性の寝顔を見るのは初めてで、見惚れているとレオンさんがぱっちり目を開けて、目と目が合ってしまいました。
僕の心臓は脳天を突き抜けそうなくらいに跳ね、慌てて頭からガーゼケットをかぶり、はみ出した足をあたふたとケットに押し込みました。
しばらくしてガーゼケットから顔を出すと、レオンさんは僕に背を向けて眠っています。
本当に眠ってるのかなと、僕は思いました。夕べのレオンさんの充血した目。
あれはもしかすると僕の部屋が寝苦しくて眠れないせいなんじゃないかと気づき、僕の心臓がまた跳ねました。
僕のせいでレオンさんは寝不足になってる……。
そう思うと哀しくなって、どうしたらレオンさんに自室に戻ってもらえるだろうかと考えてもいい知恵が浮かばず、でも何か方法を考えなくてはと堂々巡りを繰り返しているうちに、身勝手な僕は眠ってしまったんです。
夜明けの気配が忍び寄り、長年の習慣から僕の全身が起きる時間だと知らせています。
香り高いそよ風が僕の顔をよぎって行く。
どんな香りかと言うと、オーデコロンに似た香りです。
パパは濃厚で男性的なコロンを使っているけれど、もっと爽やかで柑橘系の混じった中性的な香りがそよ風に乗ってやって来ます。
いい朝……のはずなのに、そよ風の理由が目の前にあって、僕は飛び起きました。
「きゃっ」
トーニオさんが床に膝をついてベッドに肘をつき、身を乗り出して僕の顔に息を吹きかけてるんです。
「な、な、なに……」
「おはよう、メイドくん。まだまだだね。男の子は『きゃっ』なんて言わないものだよ」
「僕の質問に……」
僕は寝ている間にガーゼケットを蹴飛ばしてしまったことに気づき、慌ててケットに手を伸ばしました。
「君に贈り物を持って来たんだ。早く渡したくて起こしたってわけ」
贈り物は嬉しいしありがたいけれど、もっと普通に起こせないものなのでしょうか。
ガーゼケットを抱きしめた僕の前で、トーニオさんは青い目を瞬かせています。
トーニオさんが床から白いネグリジェを持ち上げ、僕はますます目を見開きました。
「屋根裏部屋を探索してたら、ご先祖の貴婦人が着ていたらしい夜着を見つけたんだ。きっとこういう物を着て、夫を喜ばせたんだろうねえ。俺たちは夫婦同然に夜を共にしているわけだから、メイドくんがこういうのを着てくれると嬉しいなあ」
「着る……僕が?」
衣服とは名ばかり。見事に完璧に透けています。こんな全裸同然の物を、貴婦人が着ていたなんて信じられない。
「む、無理。夫婦同然というのも……違うと思います。あの、くわしく説明した方がいいでしょうか」
トーニオさんは吹き出し、悪魔めいた表情で僕を見ました。
「もちろん。今度時間をとって、夫婦の夜の過ごし方をくわしく説明してもらうとしよう。楽しみだなあ」
「ええっ」
どうしてそうなるんですかっ。そんな説明するなんて、僕は一言も言ってない。
トーニオさんはくすくす笑いながら、床から網のような物を持ち上げました。
「これを探そうと屋根裏部屋に行ったんだけど、どう?」
差し出されたのは、頭にかぶるヘアー・ネットです。髪形が崩れないよう、紳士たちが夜かぶって寝るための物です。
髪を切った後、僕も欲しいと思ったけれど、手に入れる機会が無かったんです。
「これ、欲しかったんです。貰っていいんですか? どなたの持ち物なんですか?」
「ご先祖の誰かが使ってたんだろうけど、随分古い物だよ。君が使ってくれたら、ご先祖も喜ぶだろう」
「使わせて頂きます。ありがとう、トーニオさん」
トーニオさんはにっこりして、立ち上がりました。
トーニオさんは何をするか予測できなくて、僕には強烈過ぎる冗談を言うけれど、本当に優しい人なんだなあと思いました。
夜明けの曙光が窓から差し込んで、レオンさんが使っていたマットレスを白く照らしています。
「トーニオさんもレオンさんも、早起きなんですね」
僕が言うと、トーニオさんは苦笑を浮かべました。
「いつもというわけじゃないけどね。レオンは夜明け前に俺を叩き起こした後、厩舎に行ったよ。ひどいよねえ。俺とメイドくんを二人っきりにしないつもりなんだよ。全然信用してないんだよねえ」
「厩舎……?」
「あいつ、馬が好きだから。厩舎の二階は干し草置き場になっていて、昔っからあいつの逃げ場だったしね。それじゃ、俺は朝食作りに励んで来るよ。メイドくん、ゆっくりしていいよ」
部屋から優雅な足取りで出て行くトーニオさんの背中を眺めながら、僕は暗い気分になりました。
やっぱりレオンさんにとって僕の部屋は居心地が悪くて、居心地のいい場所に移ったんでしょうか。
僕のせいで、トーニオさんの睡眠まで妨げられてる。
このままではいけないと思い、僕は決心しました。
馬房を一つ一つ見て回ったけれどレオンさんの姿はどこにもなく、梯子をのぼって二階に上がりました。
干し草の山に囲まれるようにして、レオンさんが横たわっています。
起きてすぐに着替えたらしく、上着だけを脱いだスーツ姿です。
眠っているようなので、僕の決心はしおれてしまいました。
「用があって来たんだろ?」
梯子に戻ろうとした僕の背中に、レオンさんの声が響きました。振り返ると、干し草から上体を起こしたレオンさんが僕を見ています。
「はい。あの……」
僕はレオンさんに駆け寄って足元に正座し、勇気が萎まないうちに一気に必要な言葉を並べました。
「僕、今夜から一人で寝ます」
「駄目だ」
レオンさんの冷ややかな声が木霊して、僕の胸に突き刺さります。
「どうしてですか。僕、もう大丈夫です」
「そんな保証がどこにある? たった1日で、俺やトーニオが信じられるのか?」
「えっと……お二人が優しい人だということは分かりました。僕を家族と認めてくださってることも。他には……」
レオンさんの口元に微笑が浮かび、僕の心臓がわけも分からずどくんと跳ねました。
「言い分はよく分かった。おまえが一人でも大丈夫だと、俺かトーニオが確信したら引き揚げるよ。ただ俺は、おまえが家族なのか他の何かなのか、よく分からない」
レオンさんの言葉が、またもや僕の胸を貫いていきました。僕は家族じゃない……? 他の何かって何? ……他人?
レオンさんは子犬を撫でるように僕の頭を撫で、立ち上がりました。
そばに置いた上着を手に取り、梯子を降りながら、僕を振り返って言うんです。
「おまえを、どうしたらいいんだろうな」
そう言ってレオンさんの姿は見えなくなり、僕は泣きたくなりました。
トーニオさんと二人っきりの朝食の後、トーニオさんはお洒落して何処かに出掛けてしまい、僕はモップを持って掃除を始めました。
でも気がつくとぼんやりしていて、同じ箇所を何十回も磨いてしまい、一向に進みません。
掃除はあきらめて、他にできることはないかと考えていると、表の呼び鈴が鳴りました。
緊張しながら玄関の重い樫の扉を開けると、立っていたのは赤毛を上品に結い上げ、ロイヤルブルーの華やかなドレスを着た令嬢です。
「マチルダ・フォン・バーミアンと申します」
と品よく淑女風の礼をするので、僕は男の子の格好をしていることを思い出し、慌てて紳士風の礼を返しました。
「実は今、カミーラ・フォン・ペテルグ嬢の馬車に同乗させて頂いているのですが、車輪が壊れてしまって困っておりますの。丁度こちら様の玄関で立ち往生してしまったものですから、ご迷惑とは存じながらこうして伺った次第ですの」
「それはお困りでしょう」
大通りに軽二輪馬車が止まっていて、金髪のはっとするような美しい令嬢が手綱を握っています。
「どうぞ中へお入りください。修理については、中で相談しましょう」
僕が言うと、マチルダ嬢はにっこりうなずきました。
カミーラ・フォン・ペテルグ嬢は、本当に美しい人です。
蜂蜜のような巻き毛を淡いピンクのリボンで結び、瞳は明るい碧。リボンとお揃いのピンクのアフタヌーンドレスをお洒落に着こなし、肉感的な体は大人びているのに、顔立ちは可愛らしくてまるで妖精のようです。
二人の令嬢を最も広いサロンに案内したものの、僕はどうしていいのか困ってしまい、アンナさんのもとへ走りました。
「カミーラ様はペテルグ公爵の令嬢ですよ」
アンナさんに言われ、僕は硬直してしまいました。公爵令嬢!
どうしよう……僕にきちんとした応対ができるでしょうか。
「お美しい方でしょう? 余りにお美しいので、ラインハルト王子が求婚されたそうですよ。もっとも王子は、毎日誰かに求婚なさってるようですけれど」
ラインハルト王子は王家の次男で名うての放蕩者という噂ですが、この時の僕には噂話を楽しむ余裕もなく、馬車についてはアンナさんにお願いし、薔薇の花びらを浮かべた紅茶をお盆に乗せて、急いでサロンに戻ったんです。
「ちょっと小耳に挟んだのですけれど、こちらにわたくしと同い年の令嬢がいらっしゃるのでしょう?」
カミーラ嬢が、可愛らしく小首をかしげて尋ねました。同い年って……僕?
「あの……カミーラさんは、お幾つですか?」
「14ですわ。フィアの6年生です」
「……じゃあ、きっと、僕のことです。あの……自分を僕と呼ぶことについては……その、事情が……」
沈黙が漂い、カミーラさんとマチルダさんは顔を見合わせました。
「……あなたが、クレヴィング卿の新しい妹さん?」
クレヴィング卿とは、クレヴィングに領地を持つレオンさんの公称です。
トーニオさんは既に爵位を継いでいるので、広大な領地であるベルトラムの領主としてベルトラム男爵を名乗っています。
ちなみにパパは、リーデンベルク卿と呼ばれることになります。
「でも、その男の子のような格好は……?」
「あの……これにつきましても、色々と事情が……」
僕の顔が、熱くなって来ました。
同い年とは言え、カミーラさんと僕とでは違いがあり過ぎます。
「まあ。女の子なのに――――ご苦労がおありですのね。それで、お屋敷には慣れまして? レオン卿とは、仲良くしてらっしゃるの?」
レオン卿――親しみを込めて、名前のあとに『卿』という敬称を使用することもあります。
「はい。優しくしてくださいます」
一瞬カミーラさんの目がちかっと光ったような気がしたけれど、すぐに笑顔に戻り、
「わたくしの兄とレオン卿が懇意にしておりますの。その関係でわたくしも、レオン卿やトーニオ卿のことはよく存じあげておりますのよ」
と上品に紅茶を飲まれるのでした。
ベテルグ公爵という聞き覚えのある名前について、僕はようやく思い出しました。
フレデリクさんというレオンさんの先輩が、カミーラ嬢の兄に当たる方なんです。
パパとディリアさんの結婚式の話をしていた時マチルダさんが化粧室に立たれ、ご案内を申し出たのですが、以前舞踏会でこちらに来られたことがあるので無用とのことでした。
舞踏会に王妃様がお忍びで来られた話や、晩餐会には高位のお歴々が出席される話などをカーミラさんから聞くうちに、僕は又もや硬直してしまいました。
そんな場に、もしかして僕も出るのでしょうか。
トライゼンでは通常、社交界デビューは男性は16歳、女性は14歳以上とされていて、14歳で結婚する女性もいます。
今すぐ社交界デビューだの結婚だのって言われたら――――。
想像するだけで冷や汗が流れます。
マチルダさんがなかなか戻って来ないので心配していると、アンナさんが馬車の修理が終わったと伝えに来て、その後すぐにマチルダさんが姿を現しました。
二人の令嬢がご機嫌麗しく帰って行かれたので、ほっとしながら紅茶セットを片付けようとキッチンに入って見ると、勝手口が開いています。
キッチンの勝手口は、収納庫を通り屋敷の裏口につながっているのですが、毎朝の食材の配達が終わると鍵を掛けることになっているんです。
変だなと思っているうちに勝手口の向こうから見たことのない青年が二人現れて、僕に飛びかかって来ました。
「わっ。何――――」
叫ぶ暇もありませんでした。
一人が僕に猿ぐつわを噛ませ、必死に暴れる僕の腕をもう一人がねじ上げ、僕はそのまま抱えあげられて運ばれたんです。
裏口から裏門――どちらも閂がかかっていて外からは開けられないはずなのに、どうして開いているのか不思議です――を抜けると、大通りに通じる小道に黒い天蓋付き馬車が止まっています。
青年たちの手を振りほどこうと暴れていた僕は乱暴に中に放り込まれ、頭を上げるとそばかすの散った角ばった顔が笑っていました。
「マチルダさん……?」
猿ぐつわに阻まれて、その名は声になりませんでした。
僕が連れ込まれたのは、とある立派なお屋敷でした。
裏口から馬車ごと邸内に入り、そこで僕は引きずり出されました。
マチルダさんと二人の青年に囲まれ、使用人用と思われる階段で5階まで上り、着いた先が屋根裏部屋。
扉を開けると、シックなピンクの壁紙と大胆な花柄のソファが印象的な、女性的なサロンになっています。
ソファには男女一人ずつが座っていて、女性は濃い茶色の髪をゆったりと結い上げ、どこかの令嬢に見えます。
男性の顔を見て、僕はあっと思いました。――――アーレクさん!
「ようこそ」
聞き覚えのある声に僕は振り向き、目を見張りました。
窓辺にカミーラさんが立って微笑んでいるんです。
その微笑は薄気味悪く、僕を蔑んでいるかのようで、目には強い怒りがこもっているような――――。
でも、どうして――――? 猿ぐつわをはずされるやいなや、僕は真っ先に尋ねました。
「どうしてなんですか、カミーラさん」
長身のカミーラさんはゆっくりと歩み寄り、僕を見下ろしました。