4 溶けない氷 Ⅴ
王妃様は豊かな髪を銀のネットにおさめ、プリーツ寄せの青いスカートに、引き裾の付いたオリーブ色のドレスを重ねておられます。
ふくよかな姿は母性的で威厳ある女神のようで、柔らかな衣擦れの音を立ててソファに腰かけ、深々と礼をする僕たちに笑いを含んだやや低い声を響かせました。
「夕食の時間には、まだ早いんじゃないかしら」
「突然お邪魔をし、申し訳ありません」
「かまいませんよ。ラインハルトがどうしたと言うの?」
レオンさんを手で制し、ゆったりと背もたれに背をあずける王妃様。デイトノン夫人は王妃様の目配せで部屋の外に出て、静かに扉を閉めました。僕はソファにストンと腰をおろし、震える足をなだめようとしたけれど、少しも効果がありません。
「ああの、本日はお日柄も良く、雪ですけど、その、つい先ほど僕はエードバッハ氏に誘拐され殿下に助けられました」
しどろもどろながら一気に言い切り、咽喉がカラカラです。肩に手が置かれ、見上げるとレオンさんが見ています。穏やかな黒い瞳は落ち着けと言っているかのようで、僕はうなずき、ゆっくり話すんだぞと自分に言い聞かせました。
「えっと、ボーデヴィッヒ侯爵邸で殿下がナタリア夫人に会った際、気になる点がいくつか見受けられたので、王妃様にご報告申し上げたいと思ったんです」
「お待ちなさい。ナタリアが、ボーデヴィッヒの屋敷にいたのですか」
王妃様の表情は変わらないけれど、顔色が変わったように見えました。ナタリア夫人がトライゼン国内にいることを、御存知なかったんじゃ……。
「はい。エードバッハ氏と一緒に戻って来られたものと思われます」
「何ということ……。つづけて頂戴」
「最初から話していいですか? 僕が何故この事件に巻き込まれ、ラインハルト殿下が何故ナタリア夫人に会う成行きになったのか、順序立ててお聞きになった方がより判りやすいと思います」
王妃様がうなずかれるのを待ち、あの青天の霹靂のような国王命令について話しました。陛下の結婚命令書という言葉に王妃様の眉が僅かに上がり、これについても御存知なかったのかも知れない。
ボーデヴィッヒめが、いかに卑怯な手段で僕を脅したかという部分は口惜しくて涙なしでは語れない気がして、端折って説明しました。あの悪党が僕を利用して殿下とナタリア夫人を会わせようと企み、僕が役に立たないと知るやエードバッハをけしかけて僕を誘拐させ、殿下を誘い出したのだという結論。
「すべてはボーデヴィッヒ侯爵が仕組んだというのが、僕の推理です。ナタリア夫人をラインハルト殿下に会わせることで、彼はアメルグの賭博場で作ってしまったエードバッハからの借金を棒引きさせようとしたんです。侍従長直属の役人なら、殿下が僕を結婚させようとしている事は耳に入ったでしょう。国王陛下の結婚命令書には、侯爵ではない別の名前が書かれていたはずです。それをどんな手を使ったのか横からかっさらい、僕を利用してナタリア夫人と殿下を対面させようとしたんです。自分のために。借金を帳消しにするために」
「随分ボーデヴィッヒを恨んでいるようだけど」
王妃様の口角に苦笑が浮かび、一瞬ひやりとしたけれど、くじけてはいられません。重々しく自信たっぷりに言い放つ僕。
「多少は」
「何年も国家のために働いた功労者で、侍従長の右腕ですよ」
「頭が切れるというか、悪知恵の働く人物ですから、公の場では殊勝に振る舞ったものと思われます。だって僕を利用して借金清算の片棒をかつがせるだけでなく、僕を目一杯働かせて厚かましくも殿下から御褒美を貰おうとしてるんです。その御褒美というのは、もしかしたら国宝級の価値ある物で、大金に結びつくかもしれないんです」
「そう言えば、彼は絵を欲しがっていたわね……」
王妃様の視線が微かに揺れ、僕の脳が猛烈に働いています。それだ! それですよ、王妃様!
「でも、この件とは無関係ね」
「そんな……えっと、関係あるかもしれません。高価な絵なんですか?」
王妃様の目が険しくなり、立ち入り過ぎたかなと唇を噛みました。一介の娘が、王家について根掘り葉掘り尋ねるのは失礼に当たります。でも、僕だって必死なんです。何とか侯爵を牢獄に送って結婚命令を無効にし、自由になりたい。
「無名の画家が描いた古い絵です。ラインハルトの話をなさい。ナタリアと会った時、何が気になったのです?」
無名画家の作品だから価値が無いとは言い切れません。いくらお金を積んでも手に入れたいという収集家が一人でもいれば、絵は高額で取引きされるはず。ボーデヴィッヒ侯爵は各国を渡り歩いたそうだから、お金持ちで古い絵を欲しがる収集家を知っているのかも。
そんな事を考えながら、ナタリア夫人を前にしたラインハルト王子の姿を思い浮かべました。
「殿下らしくない態度でした。僕の知ってる殿下は冷静で威圧感がもの凄くて、殿下の前に出るといつも僕は虫ですごめんなさいという気分になるんですけど、あの時の殿下は取り乱しておられるように見えました」
不憫な病を抱えた女性を罵り、心の均衡を失った彼女に苦悩の目を向けた王子。その様子を話すにつれ、王妃様の表情が曇って行きます。
「私が母親ですと王妃様以外の女性に言われたら、苦笑いで済ませるのが殿下だと思うんですけど、感情が抑えきれないご様子でした。長年かけて積もりに積もったものを吐き出すように、激怒を夫人にぶつけておられました。何故それほどの怒りが殿下の中にあったのか。殿下の実の母親はナタリア夫人だという妙な噂話を何度も耳にして、心に氷の棘が突き刺さっていたからではないでしょうか。棘で痛めつけられた傷口を広げようとする者がいたら、誰だって怒るでしょう」
「傷……」
王妃様の目が細められ、声に微かな怒りが感じ取れます。不愉快な話を聞かされ大切な王子を傷者扱いされて、怒るのは当然かもしれない。
王妃様を怒らせたんだと思うと僕の哀れな脳の動きが鈍くなり、白くなって行きます。頑張れ、僕の脳! まだ終わってないぞ。
「ラインハルトは、わたくしがお腹を痛めて生んだ子です。それを証言する者は皆、コレラで死に絶えたなどという愚かな話があるようですが、わたくしがいます。我が子を見誤るものですか」
「はい。僕はそう信じていますし、殿下もです。あの時殿下は、王妃様に対するナタリア夫人の無礼を許しませんでした。王妃様の名誉が傷つけられたからというのも、殿下が怒った理由の一つだと思います。殿下が王妃様をかばったのは、母と信じ愛しておられるからです。でも――――」
頭で理解している事と、心の動きは別です。
「幼少の頃、その、殿下はご自分の容姿が家族の誰にも似ていないことに気づき、なぜ金髪で青い目なのかと周囲の者に尋ねたことでしょう。先祖返りですよとか、そういう子供は数多くいますよとか、曖昧な答しか返って来なくて、聡明な殿下は敏感に感じ取ったはずです。彼らの困惑、目配せや微妙な空気を。そしてある日、嫌な噂を耳にしてしまったんです。王妃様はもちろん殿下に説明されたと思いますが、はっきりとした理由を殿下が納得できるよう話すのは難しかったのではないでしょうか。だって殿下の髪と目の色の理由なんて、神様にしか判らないことですから」
カラカラに乾いた唇を舐めて潤し、唾をごくりと呑み込みました。王妃様は小さく首を横に振り、呆れた表情で僕を見ています。
「想像力豊かな思い込みの激しい子ね。ラインハルトが、周囲の者にしろわたくしや陛下に対してにしろ、出自を疑うような質問をしたことは一度もありませんよ」
「一度も……?」
そんな事があり得るんでしょうか。小さい頃、鏡に映った自分の顔を見て不思議に思わなかったのかな。
「勿論、彼には世間で流布している忌まわしい噂について話し、決して惑わされてはならないと諭しました。あのような下劣な噂を楽しむのは、トライゼン王家に反感を持つ者に限られます。諸外国の王族の中でも、親トライゼン派はわたくし達に同情的です」
「王家は、噂を無視する方針だと聞きました」
「品性卑しい者達と同じ舞台に立ち、スポットライトを浴びて喜劇を演じるつもりはありません。無視することが、トライゼン王家の回答です」
「今の僕ならかろうじて理解できますが、小さい頃は理解できなかっただろうと思うんです。小さな子供でも納得できる、そのう、例えば何かはっきりとした証拠のような物があったんでしょうか?」
「証拠ですって?!」
背もたれにもたれていた王妃様がすっと背筋を伸ばし、いよいよ王妃様を怒らせてしまったみたいで僕の唇がわなわな震えます。
「お許しください。王子様の心に突き刺さった氷の棘という印象が、どうしても消えないんです。幼い頃ラインハルト殿下の心に小さな疑惑が芽生え、今日までそれを消し去ることが出来なかったのではないかと。きっと殿下は王族らしくあろうとし、小さな疑惑を封じ込めてしまわれたのでしょう。解決できないまま封じられた疑惑は、殿下の行動や人生に影響を及ぼしていると思うんです。だから怒りを抑えられなかったり――――女性に対して冷たかったり――――」
震える唇から発せられた言葉に、王妃様は石の彫像のように固まってしまいました。僕をじっと見つめているようで、視線は僕を通り抜け遥か遠くに向けられているみたいで、頻繁に瞬きしながら何事かを考えておられます。
「わかりました。ラインハルトと話してみましょう」
王妃様の静かな声が響き、僕は慌てました。親子の会話は必要だけど、それだけじゃ足りない。ボーデヴィッヒをスポットライトの下に引きずり出し、悪事を暴かなければ僕は自由になれない。
「あの、どうか、殿下との話し合いの場にエードバッハを呼んでください。今頃エードバッハは、陸軍庁舎でラインハルト殿下の取り調べを受けてると思います。彼がナタリア夫人の思い込みを信じているのかどうかは判りませんが、殿下のお母様は王妃様なんだから、二度とこんな事をしないよう厳しく言って聞かせる必要があると思うんです。それからボーデヴィッヒ侯爵も。エードバッハと僕を悪事に巻き込んだ張本人ですから、ことさら厳しく言ってやってください。侍従長も呼んだ方がいいと思います。ボーデヴィッヒの悪事を見抜けなかったか、最悪の場合は悪事の仲間かも知れません」
「わたくしと王子の私的な会話に、無関係の者を同席させろと言うの?」
「もちろん、殿下と親子水入らずの時間を持って頂きたいです。でもその前に、悪党たちに王妃様の裁きの鉄槌を下して欲しいんです。それは殿下のためでもあります。王妃様が皆の前で殿下の血統の正当性を宣言すれば、殿下の氷の棘が溶けるかもしれません。ボーデヴィッヒ侯爵の悪事を晒して頂けたら、僕は陛下の結婚命令から解放されます。逆賊と結婚しろとは、陛下だって仰らないでしょうから。もしお許し頂けるなら、ボーデヴィッヒを追い詰める役は僕がやります。僕、侯爵の罪の数々をこの目で見て来ましたから。侯爵と侍従長を問い詰めて、白状させてやります」
「子供の遊びじゃないんですよ。国内の女性に関する問題は、わたくしの職務の一つです。国外追放のナタリアがなぜボーデヴィッヒ邸にいたのか侯爵と侍従長に説明させ、エードバッハからも事情を聞くつもりですが、その場にラインハルトを同席させたくありません。……いえ、仕事熱心なあの子のことだから、押しかけて来るでしょうね」
組んだ指をせわしなく動かし、王妃様は苛立っておられる様子です。暫しの沈黙後、ぴたりと指を止め、知的な目を僕に向けました。
「いいでしょう。貴女が尋問なさい。わたくしは聞き役に徹します」
王妃様が立ち上がり、レオンさんと僕も慌てて立ちました。気配を感じたかのように扉が開かれ、オリーブのドレスと黒レースの引き裾が扉の向こうに消えて行きます。
王妃様の姿が見えなくなり扉が閉じられた瞬間、骨がなくなったみたいにへなへなと崩れ落ちる僕の足。しゃがんだレオンさんに抱き寄せられ、暖かい胸に顔をうずめると優しい声が聞こえて来ます。
「立派だったよ、エメ」
「僕、足が震えて……。手も震えっぱなしで……」
「わかってる。王妃様も気付いておられた。しかし最後までやり遂げたな」
「レオンさん……」
極度の緊張と恐怖から解放され、抱き締められると涙がこぼれそうです。でも、まだ終わりじゃない。あと一つ、やらなければいけない事がある。勇気の糧をかき集めるようにレオンさんの熱を吸い込みながら、僕は震えていました。