4 溶けない氷 Ⅳ
白地に銀の装飾をほどこした扉には、女神の顔をかたどったドア・ノッカーがついています。レオンさんがノッカーで扉を叩くと、暫しの間を置いてブルネットの女性が顔をのぞかせました。
くるくるの巻き毛を頭頂で結い上げ、縦ロールが耳の横で揺れています。青い花の刺繍を散りばめた象牙色のシルクのドレス。お揃いの靴。
甘い濃厚な香りのする女性は30代くらいで、何処から見ても貴族の奥様です。妖艶に微笑しながら開いた扇で口元を隠し、首をかしげて斜め下から流れるような視線をレオンさんに送りました。
「あら、クレヴィング卿。部屋をお間違いじゃございませんこと? ここは王妃様の居室ですのよ」
「大切な用件で、至急王妃様にお目にかかりたい。失礼は承知の上です、デイトノン夫人」
レオンさんが白い手を取って唇を寄せると、夫人の扇がパチリと音を立てて閉じられました。貴族の奥方がよく使う悩ましい微笑。値踏みするみたいな視線。その両方が、レオンさんへとまっしぐら。
う、うーっ。そんな目で見ちゃ駄目! 僕のレオンさんだぞっ。
ふつふつと怒りがこみ上げたけど、レオンさんが「すまない」と言いたげに微かな目配せをし、僕ははっと悟りました。僕を王妃様に会わせようと、レオンさんは頑張ってくれているんです。ここで怒ったりしたら何もかもぶち壊しだ。
「彼女は、エメル・フォン・リーデンベルク。男爵家の兄妹が参上したと王妃様に伝えて頂けませんか」
夫人の色っぽい半眼が、たゆたうように僕の頭のてっぺんから足先まで一巡し、顔で止まりました。とっさにニッコリする僕。心の中で怒り、顔はニッコリ。大人って、大人になるって――――辛い。
「レオン卿ったら、ご無理をおっしゃって」
山盛りの砂糖に蜂蜜をかけたような声です。ところどころに吐息が混じり、僕の背筋にゾクッと何かが走ります。……虫唾?
バサバサと長い睫毛を瞬かせ、デイトノン夫人は扇の端でレオンさんの肩を撫でました。何、これ。誘ってるの? それとも早くお帰りなさいという合図?
貴族の空気に慣れていない僕にはよく判らないけれど、夫人の甘い仕草の中で目だけが冷静で、レオンさんの反応を観察しているように見えます。
きっとこれは、貴婦人のお遊びなんだ。戯れに誘惑を仕掛け、馬鹿な男とか軽いとか未熟とか、あるいは若いのになかなか魅力的とか品定めしてるんだ。
レオンさんがそっと手を離し、優雅な所作で軽く頭を下げ、デイトノン夫人の唇から満足そうな嘆息が洩れました。いつまでも手を握ってるのは変だし、手を離すタイミングにも色々と意味があるらしいけど、レオンさんは合格点なのかな。
「面会の約束をしておられないのでしょう? うふ。困った人ね。侍従に話を通して頂かないと。御存知でしょう?」
「突然押しかけ、申し訳ありません。貴女の顔に泥を塗るようなことは決してしないと約束します。どうか取り次いで頂きたい」
「女官の一存ではどうにもならないことですのよ。ん……卿のために、して差し上げたい気持ちはあるけれど」
「貴女だけが頼りです、マダム」
「とっても大切な話なんですっっ!!!」
しびれを切らせた僕は、レオンさんと色気の塊のような貴婦人の間に割り込みました。彼女の冷たい視線が落ちて来たけど、かまってはいられない。
「ラインハルト王子様のことなんです。王妃様もきっと興味を持たれるはずです」
「殿下の、どのような話ですの?」
「ここでは話せません」
きっぱり言い切ると、デイトノン夫人は扇で顎先を叩きながら考え込み、横目で僕たちを見ました。
「王妃様はお忙しい方だから、面会の約束はできないけれど。中へどうぞ」
夫人は一歩下がって通してくれ、ベージュと濃紺の空間に僕の目が忙しく働きます。猫脚の優雅な家具。真冬にも関わらずそこかしこに生花が飾られ、金糸の織り込まれた濃紺のカーテンが、シャンデリアに照らされ煌めいています。
ここがトライゼン王妃のサロン――――。王妃様の部屋に入るなんて、半年前の僕なら足がすくみ唇をわなわな震わせ、一目散に逃げ出したでしょう。
でも今は違う。モップがないのは心もとないけれど、レオンさんという強い味方がいて、以前の僕とは違うんです。
「掛けてお待ちになって」
レオンさんと僕は並んで蒼いソファに座り、夫人はドレスの裾を翻して奥へと消えて行きました。一瞬だけ見えた真紅の裏地。象牙色のドレスが翻るたびに、紅い裏地がちらちら見えるって――――色っぽい。
うーん。やってみようかな。遊び慣れた貴婦人の真似は無理だけど、ドレスに裏地を付けるぐらいなら出来そうで、僕みたいな子でも色っぽくなれるかも。
黒いお仕着せのメイドさんが銀のトレイに乗せたお茶を運んで来て、優雅に膝を折りました。
「王妃様は、春の王宮舞踏会の打ち合わせをしておられます。このままお待ちくださいませ」
奥の部屋へと戻るメイドさんの後ろ姿から、僕の視線は王妃様のサロンをぐるりと一周し、銀の彫刻が施された天井へと移って行きます。
銀とベージュ。蒼と濃紺。部屋は豪華で美しいけど、明るくさっぱりとしたラインハルト王子の部屋に比べると古めかしくて、何処か暗い気もする。
はっと気がつくと、隣に座るレオンさんが面白そうに僕を見ていました。
「初めてリーデンベルク邸に来た時も、そうやって天井から何から大きな目をさらに大きくして眺めていたな」
舞踏室や絵画を見て口をあんぐり開け、慌てて閉じたことを思い出すと、僕の顔が熱くなってしまいます。
「だって正面玄関から貴族邸に入るなんて初めての体験で、配達でベネルチアの子爵様のお屋敷の裏口に入ったことはあったけど、リーデンベルク邸は見たこともないほど豪華だったんだもの」
「夏の間、アンナをつかまえては色々と尋ねていただろう? その素直な反応を見て、俺の心のしこりが溶けたような気がするよ」
しこり……? 怪訝な気持ちで見上げると、レオンさんは出窓に吹きつける雪に目を向けました。
「初めてリーデンベルク邸に来た時のことを、俺はよく覚えていないんだ。貴族の屋敷を物珍しそうに眺め回していると思われたくなくて、何も見なかったから。ただサロンのソファに座り、雪を眺めていたことは覚えている」
「雪……一人で?」
「いや。母上と亡き父が前に座って仲睦まじく話していて、俺の隣ではトーニオがふてくされていた。トーニオもそうだが、俺は素直じゃなかった。珍しい物に目が行くのは少しもおかしくないし、分からないことは素直に使用人に聞けば良かったんだ。そうしたからと言って、人の価値は下がらない。些細なプライドにこだわり周囲の者と打ち解けず、父上はさぞ……心配されただろう」
黒い瞳が雪を追い、端整な横顔に憂いが走ります。レオンさんほど確固とした自分を持っている人でも、後悔するんだ……。人間なんだから当たり前だけど、僕にとってレオンさんは嵐が来てもびくともしない大木のような人で、僕みたいな奴を見て反省したり後悔したりするのは想像できません。
「レオンさんはレオンさんらしくあれば、それでいいと思います。でも初めて会う人には、怖い顔を見せない方がいいですよ。僕、最初の頃、レオンさんが怖かったから」
「怖がることはなかったんだよ。俺の方こそ、エメルが怖くて仕方がなかったんだから」
「僕が?」
レオンさんは困った顔で笑い、その表情が照れているようにも見えます。
「気がつくと、君を目で追っていたから。美女に目が行くことはあっても、あれほど四六時中気になる女の子は初めてだった。掃除している姿を見ては、俺が代わると言いたくて言えなくて自分に腹を立て、美味しい料理をありがとうと言いたくて言えなくてまた腹を立て、そんな風だから眉間に縦じわが寄っていたんだろう。最悪なことにどうして気になり、話しかけたくても話しかけられないのか判らなかった。君が好きだからだと気づき、やっと気持ちの整理がついたばかりだ」
好き……。胸に柔らかな火が灯る言葉。これで何度目でしょうか。何度でも聞きたい。毎日レオンさんの口から聞きたい。
「君……って言いました?」
「レディに対し、『おまえ』では失礼だろう?」
レディ――――僕が。でも――――。
「ありがとう、レオンさん。でも、それがその、男の子の服装や言葉使いをやめられないんです。それと言うのも不安だからで、モップも手離せないし、レディへの道のりは遠くて険しくて、そのうえ僕、あの……変態なんです」
衝撃の告白をしてしまいました。レオンさんは何と言うだろう。見開かれた僕の目に、今にも吹き出しそうな笑顔が映ります。
「変態か。どんな?」
「匂いが気になるんです。香水とか。レオンさんの夏草のような香りが好きです。ディリアお母様の薔薇の香りも。パパの香りがすると安心して、いつまでもクンクン嗅いでいたくなるんです。レオンさんの香りも。……変ですよね?」
「女性は香水が好きだろう? 変だとは思わないが、エメの変態ぶりを少しずつ知るのは楽しいだろうな。俺はどうやら変質者らしいよ」
「ど、どんな?!」
腰が抜けそうな告白です。まさかボーデヴィッヒ侯爵みたいに鞭と蝋燭を持ち出したり、カミーラさんのお兄さんのアーレクさんのような少年好きじゃないよね? さっきは、僕を何処かに閉じ込めるような事を言っていたし……。
レオンさんはコホンと咳払いし、僕を見つめました。
「女性と喧嘩して部屋を飛び出したものの、彼女が気になってすぐに舞い戻り、こっそり後をつけるような男は変質者だろう? とある貴族に脅されている彼女を木陰から盗み見て、相手の男を殴ってしまうのは犯罪行為だろう。それより……」
犯罪――――ボーデヴィッヒ侯爵を殴ったことを言ってるのかな。侯爵なら殴られて当然で、僕が殴りたいぐらいだし、レオンさんは確か殴り返されてるはずだけど。
「エメルは、本物のレディだよ。服装や作法や言葉は添え物に過ぎず、何を着て何を持とうとも本物のレディは魂が輝いているものだ。君は誰よりも美しく愛らしい、本物のレディだよ」
レオンさんの言葉が、僕の脳の働きを止めました。僕が――――美しく愛らしいレディ。魂が輝いてる。褒め過ぎだと思ったけど、レオンさんの真剣な顔が真実を語っています。本気で言ってくれているんだ。
「ありのままの君が好きだ。生意気なところも。変態だという部分もきっと俺は気に入る」
「レオンさん……」
15年近く生きて来て、これほど褒められたことはありません。一生分の賛辞を一度に貰ったみたいで、胸が締めつけられ涙が滲みそうになり、やっぱり嬉しい――――。
柔らかな衣擦れの音がして、デイトノン夫人が近づいて来ます。急いで目をパチパチさせる僕の耳に、レオンさんが囁きました。
「いよいよだ。心の準備はいいか?」
「はい」
「王妃様が、お会いになります。こちらへどうぞ」
先ほどとは打って変わった硬い口調のデイトノン夫人は、品格ある女官といった風情です。王妃様付きの女官になれるほど有能な女性は、その場に合わせ自分を変えられるんでしょうか。
サロンから出ると細い廊下で、扉が3つ並んでいました。1番右端の扉から小部屋に入り、クッションの並んだソファに座るやいなや心臓の音が大きくなっていきます。
とうとう王妃様にお目にかかる――――いきなり押しかけ、意見を申し上げる。そんな大それたことが出来ると考えた自分を、罵りたい気分です。失敗したらどうなるの?
ううん、できる! できると信じる。ラインハルト王子のために。僕を信じてくれているレオンさんのために。大切な人のためなら、死に物狂いで頑張れる。
ノックの音が響き、僕は弾かれたように立ち上がりました。大きく開かれた銀色の扉から王妃様が入って来られ、デイトノン夫人が扉を押さえ頭を垂れています。
僕の緊張は頂点に達し、足の震えが止まらなくなりました。