表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
66/78

4  溶けない氷  Ⅲ

 粉雪は止んだけれど、冷たい風が雪片を吹き散らし、ところどころで雪煙があがっています。

 行き交う人もまばらなクラレストの街は、寂しく冷たい銀世界です。


 鐘の音が2つ聞こえ、もう正午なんだと空を見上げました。灰色の雲の下、騎馬隊は積もった雪を巻き上げながら、大通りをゆっくりと進んで行きます。


「寒いだろうが、もう少しの辛抱だ。ラインハルトの奴、レディに気配りしても良さそうなものなのに。あの暖かそうな外套をよこすとか」


 頭上からレオンさんの声が聞こえ、僕はレオンさんの腕にすっぽり納まって笑いました。


「レディというより、ヴァレットだもの。殿下の外套を剥ぎ取ったら、クビになってしまいます。一生懸命働いて、殿下から御褒美を貰わなければ。もちろん侯爵には渡しません。御褒美の権利をちらつかせて、彼の出方を見るんです」


 ボーデヴィッヒ侯爵は、何を欲しがってるんだろう。きっと金目の物に違いない。賭博にのめり込み、借金で首が回らなくなったに決まってる。何て国賊だろう。


「頼むからエメル。もう危険なことはしないでくれ。俺の心臓がもたない」


 レオンさんが焦った口調で言い、僕をぎゅっと抱きしめました。二度と離さないぞと言われてるみたいで、宝物みたいに大切に思われてる気がして、とろとろに溶けていく僕の頭。


 信じていいんですよね? レオンさんに何度も愛してると言われ嬉しかったのに、心の何処かで信じることを避けようとする僕がいます。


 信じるのが怖い……。いつか裏切られたり、過去のママたちみたいに突然いなくなってしまうんじゃないか、信じない方が自分を守れるんじゃないか、そんな事を考えてしまう。


 見上げると真剣な黒い瞳が僕を見つめていて、僕を守ってくれているレオンさんの全身にうっすらと雪が積もっています。思わず手を伸ばし、肩の雪を振り払いました。


「レオンさん、寒くないですか? 王子様は無理だけど、他の誰かの外套を剥ぎ取って来ましょうか? 僕、レオンさんのためなら頑張れます」

「鍛えてあるから大丈夫。心配するな」


 笑いながら手綱を操るレオンさんの手は血の気を失い冷たそうで、いつまでも脳をバターみたいに溶かしてはいられません。レオンさんが風邪をひいてしまう。


 騎馬隊をくまなく見回したけど外套が余っている様子はなく、僕は気持ちを引き締めました。やっぱり誰かを襲って剥ぎ取るしかない……?


 騎馬隊に囲まれて歩くエードバッハは、薄いスーツ姿で両手を縛られ雪まみれです。革靴が歩きづらそうだけど文句ひとつ言わず、そっと侯爵邸を振り返りました。


 老け込んだ顔が僕の目に飛び込み、胸が痛みます。アメルグで静かに暮らしていればこんな事にはならなかったのに、どうしてトライゼンに戻って来たんだろう。 


 僕を縛った時のエードバッハは、有無を言わせない雰囲気だったけど、決して手荒ではありませんでした。縄の結び目は緩くて今にもほどけそうで、頑張ってもほどけなかったんだけど、あれは縄の跡が残らないよう配慮してくれたのかもしれない。


 侯爵邸ではナタリア夫人に目が行って僕のことは眼中にないみたいで、それでも夫人の部屋に入るなり縄をほどいてくれ、「チビ」だの「黙れ」だのと偉そうな態度のボーデヴィッヒに比べれば、よほど親切でした。


 エードバッハが悪人とは、僕にはどうしても思えません。彼はきっと悪辣なボーデヴィッヒに騙され、トライゼンに誘い出されたに違いない。でもなぜボーデヴィッヒは、そんな事をしたんでしょうか。


 エードバッハ夫妻をラインハルト王子に会わせる代わりに、賭博の借金を棒引きさせようとしたんだ。そのうえ僕を利用し、王子様から金目の物をせしめようとしてるんだ。ボーデヴィッヒめ。何て悪い奴なんだ。役人が悪事を働いていいの?  


「彼は、看護婦を2人連れて来ているそうだよ」


 じっとエードバッハを見つめていた僕に気づいたんでしょうか、レオンさんが静かに言いました。


「ナタリア夫人に長年仕えたメイドや、執事も。自分が捕えられた場合を考えたんじゃないかな」

「そうまでして、トライゼンに戻る理由があったんでしょうか。ナタリア夫人が望んだから?」


「たぶんな。エードバッハは元々、夫人の護衛官だった。二十余年経った今でも彼女に忠実なのか、アメルグの特命大使だから多少の事は見逃して貰えると甘く考えたか。ラインハルトによると、ヴァレットを死なせたくなければ殿下自身が迎えに来いと手紙をよこしたそうだ。立派な犯罪だよ」

「よほど夫人を殿下に会わせたかったんですね……」


 ナタリア夫人はラインハルト王子に会いたかっただろうけど、王子様の方は――――。エードバッハが何度も出した手紙や使者を無視したそうだし、今度のことだって――――。


 雪の積もった門が開かれ、僕たちは軍庁舎の中へと入って行きました。除雪された石畳を進む馬の蹄が、乾いた音を立てています。


 黒っぽい建物の前まで来ると兵士たちは馬から降り、手綱を引いて馬房へと向かい、ラインハルト王子が馬に乗ったまま近づいて来ます。


「私のヴァレットを預けよう。王宮まで送り届けてくれ」

「承知しました。今回のこと、礼を言います」

「頭を下げたと思ったら、今度は礼か。気味が悪いな」

「人は少しずつ大人になっていくものです。私も例外ではありません」


 にやりと笑うレオンさんに、ラインハルト王子は苦笑を浮かべました。


「それは嫌味か?」

「もちろん」

「以前と変わらん貴様だな。安心した」

「あの、助けに来てくださってありがとうございました」


 王子様の視線が注がれた機会をとらえ、ぺこりと頭を下げる僕。


「職務を果たしただけのこと。礼は不要だ」


 言うなり馬の向きを変え、直立不動で待っていた兵士に手綱を投げると、ラインハルト王子は颯爽とした足取りで軍庁舎の中へと消えて行きました。


 いつもの彼です。全身が氷の彫刻で出来ているかのような美しくも冷酷な軍人。ヴァレット一人を助けるために駆けつけ、本当は優しく温かい心を持ってるのに、「職務」の一言で済ませてしまう人。


 心に突き刺さった出生という名の氷の棘が、彼本来の姿を損なっているのかもしれない。人間らしい心を持ってるのに。一瞬だけ見えた彼の苦しそうな顔は、見間違いじゃなかったと思う。


 王子様はナタリア夫人のことを、本当はどう思ってるんだろう。出生について国王陛下や王妃様は、彼が納得できるよう説明したのかな。したとは思うけど……どうなんだろ。


 軍庁舎から大通りに出て王宮門を通り抜ける間、僕は氷の棘が気になって仕方がありませんでした。抜き取れるものなら抜き取りたいけど、僕なんかの力じゃ無理だ。


 そう思いつつ苦しんでいる人を見捨てて行くような罪悪感に襲われ、手を伸ばせばひょいと抜き取れそうで出来なさそうで、もどかしくて仕方がありません。


「どうした? 気分でも悪いのか?」


 無口になった僕をレオンさんは気遣わしげに見、僕は氷の棘について話しました。


「レオンさん。僕、王妃様に会いたい」

「会ってどうするんだ? 王家の問題には立ち入らない方がいい。傷つくのは、おまえの方だぞ」


「わかっています。ただ……その、えっと、王妃様に今日のお礼を言うことは出来ますか? 殿下が臣下のために何をしてくださったか、どれほど心を砕かれたか、会ってお伝えしたいんです。王妃様だって、御子息のいい話は聞きたいだろうと思います。できる事なら僕が感じたことも話したい。殿下は誇り高い人だから表には出さないけど、心の奥底では悩んだり苦しんだりしてると思う。だって人間だもの。その一つを、王妃様なら取り除けるかもしれないんです。平民の血は一滴も流れていないとか、あれほど必死になって守らなければならないほど、殿下の誇りは崖っぷちにあるんです」


「それは、おまえの想像だろ?」


 ネフィリムは馬丁に口を取られ厩舎へと戻って行き、レオンさんは僕の背中を押して王宮玄関へと向かいながら、横目で僕を見ました。


 心で感じることを、どう説明すればいいんでしょうか。ナタリア夫人に対する、ラインハルト王子の過剰とも言える怒りと拒絶反応。夫人の何が彼の心を乱したんだろう。

 

 疑惑――――それしか思いつきません。彼は、自らの出生に疑惑を持ってる。だからエードバッハの願いを無視し、ナタリア夫人に会いたがらなかったんだ。会った時の自分の反応に自信が持てなかったから。


 わたしはあなたの母親ですよ――――。そう言ったのがナタリア夫人でなければ、彼は傲慢な冷笑を浮かべ、虫を振り払うように素っ気なく追い払ったでしょう。


 相手がナタリア夫人だったから、怒りに駆られる自分を抑えられなかったんです。傷を負わせた張本人が目の前に現れ、傷口を広げるようなことを言ったから。


 彼女の病状を悪化させるほどひどい言葉を投げつけてしまい、今頃彼は自身を呪いつつ、一人傷を癒しているんでしょうか。


 可哀相な一人ぼっちの王子様――――。可哀相な手負いの獣。 


「お願いです、レオンさん。王妃様に会わせてください。ほんの少しでいいんです」

「エメ……」


 黒い瞳が宙をさまよい、僕に留まりました。僕の肩に手を置き、レオンさんは食い入るように僕を見つめています。


「まったく、王家に関わるのは危険だと分かっているのかな。友達とお喋りするんじゃないんだぞ。王子の出生を疑うような話を持ち出したら、悪くすれば王室侮辱罪だ。だが俺は、おまえを止めることができない。ラインハルトを助けたいか?」

「はい」


 即答したけど、王室侮辱罪という言葉が頭の中でぐるぐる回っています。――――牢獄行き! 


 ヒッと悲鳴が咽喉の奥で止まり、やっぱり王妃様に会うのはやめた方がいいかなと思いました。僕は自業自得としても、レオンさんや家族まで罪に問われたらどうしよう。


 でも、でも、ここを突破しなければ僕の未来はありません。逃げたら今までの僕と同じ。傷つかないよう困難を避けるのではなく、戦って自分を守りたい。


 国王陛下への直訴はしどろもどろになって失敗に終わったけど、王妃様とは堂々と話したい。ラインハルト王子の様子をありのままに伝え、王妃様の話を聞き、王妃様が今のままで良いと仰れば仕方がないけれど、僕にできる事を見つけ王子様を助けたい。


「殿下のためというより、僕のためなんです」

「ラインハルトを助けることが、おまえの目指す貴婦人につながるのか?」

「はい、そうなんです」


 僕の声が、大きく明るくなりました。心の中でもやもやしていた事を、レオンさんが端的にまとめてくれた。


 僕が目ざしているのは優しく柔らかな口調で堂々と意見を主張し、困ってる人がいればさりげなく手を差し伸べることの出来る女性です。


 話を上手に聞き流しつつ大切な部分はしっかり記憶にとどめ、ユーモアと思慮と思いやりをこめて会話のできる女性。美しくたおやかで洗練された趣味があり、高貴な強さと童女のような茶目っ気を持ち、勇敢に闘うことのできる女性。


 僕の憧れの貴婦人。そんな貴婦人になれたら! 今のところ無理そうだけど。


 男の子の服とモップを手離せない僕は、貴婦人どころか女の子にすらなれてないけど、王子様を助けることが出来たら、最初の一歩になるかもしれないんです。


「わかった。一緒に行こう。俺がおまえを守る」  


 レオンさんの声に、僕ははっと顔を上げました。


「思う通りにやれ、エメ。後ろには俺がついてるから」

「でも、あの、レオンさん。僕なんかと一緒にいたら、レオンさんまで罰を受けるかも」

「一人で行く気だったのか? 少しは俺に頼れよ。来い」


 レオンさんに手を引かれ、僕は駆け出しました。青の回廊から赤い絨毯の客室棟、回廊庭園を通り過ぎ、王の回廊へと向かいます。


 壁際に立つ衛兵が怪訝そうに僕たちを見たけど、気にしてはいられません。回廊の奥へと突き進むと、ひときわ豪華な銀の二枚扉が現れ、僕は目を見張りました。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ