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アップルケーキに愛をこめて  作者: セリ
アップルケーキに愛をこめて3 ~王宮の陰謀篇~
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4  溶けない氷  Ⅱ

 

 毛皮の襟のついた黒い外套をまとい、暖かそうな帽子をかぶった10人余りの騎兵が、馬から降りようとしています。馬上のラインハルト王子は兵士と同じ装いですが、ボタンとベルトが金色です。


 みんなの視線が集まった気がしたけど、僕の目に映るのはレオンさんだけ。


 粉雪が風に舞い、レオンさんの黒髪と黒いスーツを白く染めています。レオンさんはコートも着ずに、僕のために駆けつけてくれたんだ――――。ありがとう。レオンさん、ありがとう――――。


「……わっ」


 全力で走っていた体が突然ふわりと浮き、僕はバタバタと両足を振り上げました。誰かの腕がお腹に食い込み、ごつごつした大きな手が僕の大事なモップをしっかり握っています。視線を上げると、カーネルさんのとても侍従とは思えない怖ろしい顔。


「カーネル家の先祖は肉屋なのです、レディ。家畜の首を素手でポッキリ折るのが先祖伝来の得意技ですが、試してみてもいいですか?」

「えええっ」


 駄目に決まってるじゃないっ。聞く方がおかしい。はいどうぞと答える人がいるの? 


 返事の代わりに、かかとでカーネルの膝を思いっきり蹴ってやりました。足に激痛が走ったけど、モップを握った彼の手がほんの少し緩み、このチャンスを逃すわけにはいかない。


 歯を食いしばってモップをくるりと回し、奴のお腹めがけ第一撃。ひるんだ隙に二撃三撃を叩き込む僕のお腹に別の腕が回されて、僕はレオンさんに抱きしめられていました。


「無事か。……よかった」


 レオンさんの声が震えています。僕を抱いた腕が緩み、見上げると黒い瞳が微かに揺れながら僕を見つめています。レオンさんは、僕を心配してくれたんだ――――。


 そう思うと泣きながらレオンさんにすがりつきたくなったけど、肉屋で今は侍従のカーネルが僕たちを睨み上げていて、気を緩めるわけにはいきません。


「一度ならず二度までも私を蹴るとは。レディにあるまじき振舞いですな。もう容赦しませんぞ」


 カーネルは言い、僕はレオンさんを守るべく一歩前に出ました。レオンさんの首を、ぽっきり折られてなるものか。愛剣モップを握りしめる僕の目に、屋敷から出て来たボーデヴィッヒが映ります。


「王子の前だぞ、カーネル。下がっていろ」


 侯爵の命令にカーネルは口惜しそうな顔で引き下がり、僕の頭にポッと灯りがともりました。チャンス到来! 広い場所で愛剣を存分に振り回し、侯爵をボコボコに叩きのめしてくれる!


「ボーデヴィッヒ――ッッ!!」


 モップを掲げ、突撃する僕。背後から誰かに抱き留められ、耳もとでレオンさんの声が聞こえました。


「俺を信じて退け。ボーデヴィッヒに手を出すな」


 そんな――。悪党を成敗する絶好の機会なのに。ボーデヴィッヒには恨みつらみがあるし、いくらレオンさんの頼みでも嫌だ――っ。じたばた暴れる僕をレオンさんは引き戻し、唇を耳に寄せて囁きました。


「奴は役人だ。しばらく様子を見よう」

「えっ、やく……もごもご」


 口を塞がれ、僕の言葉はちらつく雪の中に消えて行きます。侯爵が役人? まさかどういうこと? 


 レオンさんの視線はエードバッハと馬から降りたラインハルト王子に注がれて、この場では詳しく話せないみたい。仕方なく口を閉ざした僕の頭の中を、数々の疑問が巡りました。


 侯爵が役人だという事を、王子様はともかく、エードバッハに知らせてはいけないんでしょうか。だとしたら――――侯爵は身分を隠し、エードバッハを騙したの? 何のために? 悪党を騙すなんて、何てひどい悪党だ。そのことと僕の結婚が、どうつながるの?

 

 僕の結婚命令書に判を押した侍従長と、卑劣なボーデヴィッヒがこの一件の黒幕に違いない。騙されたエードバッハが何だか気の毒に思え、僕は下馬したラインハルト王子に話しかけようとする痩せた紳士を見ました。


「エードバッハを連行しろ」


 王子の冷徹な声が響き、兵士2人がエードバッハに近づいて行きます。


 エードバッハはナタリア夫人より二つ三つ年上だと聞いたけど、眉間に縦じわを寄せた陰鬱な顔は実年齢よりずっと上に見え、緑の目だけが少年のように澄んで王子を凝視しています。 


「わたしはどうなっても構わない。ナタリアに会って頂けますね?」

「必要ない」

「何ということを。何度も手紙を出し、使いの者をやりました、手紙は読んで頂けたのでしょう?」

「読むわけがなかろう」


 王子の氷のような目。凍てつく冷気より冷たい、足もとの蟻を見るみたいな尊大な態度。でも、エードバッハは引き下がりません。


「彼女に会ってください。ナタリアは、それだけを生きがいにしている。彼女に生きる希望を与えられるのは貴方だけだ」

「貴様の妻に会う理由など私にはない」


 兵士たちの間にどよめきが走り、玄関に紅薔薇色のドレスをまとったナタリア夫人が立っています。信じられないものを見たかのように両目を見開き、ちらつく雪の中に一歩踏み出す夫人をエードバッハが止めました。


「ナタリア。殿下との話し合いが終わるまで、屋敷の中で待っていてくれ」

「わたくしを呼び捨てにする事は許しませんよ、マティアス」


 毅然とした一声でエードバッハを退け、雲の上を歩くような頼りない足取りで王子に近づくナタリア夫人。王子の目が細められ、その冷ややかな視線が彼女の足を竦ませました。


「……ラインハルト……でしょう?」

「夫君を連行する。申し立てあらば陸軍情報部まで来るがいい」

「夫君? マティアスは護衛官よ。わたくしの夫は、国王陛下。わたくしはトライゼン王国の王妃です」


 兵士の間に失笑が起き、僕の胸がずきんと痛みます。暖かい繭のような部屋で小さくなっていた方が安心なのに、まるで天罰か試練みたいに外に出なければいけない日が来るんです。長年かけて築き上げた幸せな世界はとても脆く、一歩外界に出ると崩れてしまい、心が傷ついて血の涙を流すことになる。


 ラインハルト王子は情け容赦ない人だから、ナタリア夫人の悲惨な姿が目に浮かぶようで、まるで僕自身のことみたいに辛くなります。


 ナタリアさん、用心して。王子様は、あなたを母親と認めてないみたい。お願いだから心に鎧を付けて。あなたの傷つく姿は見たくない。


「ナタリア様、中にいてくれ。殿下を迎える準備をしていてくれ」


 エードバッハの悲痛な言葉を聞き入れることなく、彼女は歩を進め王子に両手を差し伸べました。


「わたくしは、あなたの母親ですよ。24年前の秘密は御存知でしょう?」

「何のことだ。24年前、おまえの息子は産声をあげることなく葬られた。秘密などない」

「いいえ! 死産だったのは、アンの方。わたくしの息子は生きていて、死んだアンの息子とすり替えられたのです」


「やめておけ。トライゼン王妃に対し無礼を続けるなら、たとえ狂った女であろうと罰せねばならん。私の手をわずらわせるな」

「狂った女……? 言葉を慎みなさい!」

「やめるんだ、ナタリア。頼む、殿下。少し時間をくれ。私の話を聞いてほしい」


 エードバッハがナタリア夫人をかばうように立ち塞がり、ラインハルト王子の顔に冷笑が浮かびます。


「時間なら、たっぷり与えよう。牢獄でな。連れて行け」

「やめなさい、ラインハルト! わたくしの護衛官を罰する事は許しませんよ」


 ナタリア夫人は、背を向け立ち去ろうとする王子の袖をつかみました。振り向いた王子の表情に、僕の息が止まります。


 怒ってる――――。彼は何が起きても表情一つ変えない印象があったけど、顔に血の気がなくなり、目に激怒と憎悪を湛え、屈強な兵士でも縮み上がりそうな形相です。


「はっきり言っておく。私の体に平民の血はただの一滴も流れていない。身の程をわきまえろ、愚かな女め」


 夫人の顔が凍りつき手が微かに震え、僕は思わず口走りました。


「ひどい……いくら何でも……」

「狂人なら何をしても許されると思うなよ。甘えるな!」


 僕や夫人に言い放ち、馬に向かって大股で歩く殿下は、いつもと雰囲気が違います。感情を剥き出しにして怒る彼は、冷徹な彼を見慣れた僕から見ると違和感があるんです。


 何故あんなに怒ってるんだろう。平民の息子呼ばわりされたから? 王妃様を悪く言われたから? それとも別の理由?


「きっ、きっ、きいっ……」


 じっと手を見つめるナタリア夫人の唇から、奇妙な声が洩れ出ています。大きく見開かれた両目。ぶるぶる震える両手。兵士たちは何事かと足を止め、エードバッハに抱き寄せられた夫人は瞬きしない目を空に向けました。


「きぃ――――っっ! きぃやあああああああ――――っっ!!!」

「ナタリア、落ち着くんだ。殿下はただ気が立っておられるだけだ。こんなはずでは……殿下、あなたのせいだ。何ということをしてくれたんだ!」


 恨みのこもった目を王子に向けるエードバッハ。彼は、どういうつもりでラインハルト王子とナタリア夫人を会わせようと目論んだんだろう。こうなる事は判っていたはずなのに。


 兵士が彼を夫人から無理やり引きはがし、金切声をあげるナタリア夫人にボーデヴィッヒ侯爵が駆け寄りました。


「後のことは心配するな。カーネル、夫人を部屋へお連れしろ」

「かしこまりました」


 騎乗したラインハルト王子はいつもの冷徹さを取り戻し、冷ややかな視線を侯爵に向けています。


「貴様に話がある。後で情報部まで来い」

「ちょうど良かった。私も貴方に話があったんだ」 


 ラインハルト王子とボーデヴィッヒ侯爵。2人の視線がぶつかり火花が散った気がして、間に立った僕はぎょっとして直立不動です。

 この2人、仲が悪いのかな。侯爵が役人なら、王子様の味方のはずだけど。


 王子は視線をはずして馬を進め、ふいに振り返りました。彼の視線の先には、カーネルに抱えられ運ばれるナタリア夫人がいます。一瞬だけ王子の表情が歪み、何かの感情が走ったように見えました。


 ――苦悩? 表情はすぐに消え、僕は目をぱちくりさせるばかり。


 ラインハルト王子が、ナタリア夫人を見て苦しむなんて事があるのかな。僕の脳裏に、氷の棘に刺し貫かれた彼の姿が浮かびます。


 もしかして彼は、本当はナタリア夫人が母親ではないかと疑ってる? まさかとは思うけど、子供の頃にそんな話を耳にしたら、もしやと疑ってしまうかもしれない。


 でも――――。


 ラインハルト王子とナタリア夫人が並ぶと、少しも似ていないことが分かります。王子はダークブロンドの髪と薄青い瞳を持ち、夫人は明るい黄金色の髪で濃い青空色の瞳で。


 王子の顔は彫りが深く頬骨が高く、夫人はおうとつの目立たない滑らかな顔立ちで、彼の唇は薄く、彼女の唇は厚みがあって肉感的で――――似たところが一つもないんです。


「あの2人、似てませんよね?」


 僕が尋ねると、レオンさんは微かに首をかしげました。


「王子と夫人のことか? ラインハルトは誰にも似てないよ。さあ、戻ろう。こんな所にいつまでも立っていると風邪をひく」

 

 レオンさんは僕を抱き上げ、ネフィリムに乗せました。後ろに座ったレオンさんの腕が僕を包み込み、頭の上から溜め息が聞こえて来ます。


「どうしてこうも簡単にさらわれてしまうのかな。何処かに閉じ込めておきたくなるよ」


 閉じ込める……? 見上げると、レオンさんはくすりと笑っています。よかった――――冗談だ。でも喜んではいられないような。急に真顔になったレオンさんが、じっと僕を見つめています。


 まさか本気じゃないよね? その真剣な顔で、僕をどこに閉じ込めようかと考えてないよね? レオンさん、どうしちゃったの?


 それは後回しにして、今はもっと大切なことがある。王家の方々の顔が脳裏を巡り、レオンさんの言葉がよぎって行きます。ラインハルト王子は誰にも似ていない――――。あの端整な顔は、何処から来たんでしょうか。


「あの、国王陛下や王妃様は、王子様にどう説明しているんでしょうか。敵対する諸外国の陰謀として無視してるってユリアスさんは言ったけど、王子様にはちゃんと話してますよね?」


「彼の出生について言ってるのか? どうだろう。王家の家庭生活は俺たちとは違うから、ざっくばらんに話すということは無いんじゃないかな」


 そう言えばフィアに入学するまで両親とは別々に暮らしていたと、王子様は言ってたっけ。国王陛下に会うのは年に1、2度だとも。そんな暮らしの中で、出生について両親とじっくり話す時間があったでしょうか。


 子供は周囲の大人に感化されやすいから、一緒に暮らす使用人たちが本当の母親はナタリア夫人だなんて口にしたら、幼い王子様は信じてしまうかもしれない。


 使用人がそんな事を言うわけないと思うけど。……あるかな。


 騎馬部隊はラインハルト王子を先頭にゆっくりと進み、縄に縛られたエードバッハが馬に囲まれるように歩いています。ネフィリムは部隊について行き、僕は侯爵邸を振り返って大切なことを思い出しました。


「あっ、ボーデヴィッヒ。……役人なんですか? 何の役人ですか?」

「王宮官房室所属。侍従長直属の諜報官だ」

「諜報官……スパイ!」


 僕は思わず声をあげ、慌てて周囲を見回しました。誰も聞いてないな、よし。


「でも侯爵はフィアを卒業した後、外国を巡って女性たちと浮名を流しまくったそうだけど……それが仕事?」

「仕事の一部なんだろう」


 頭の上から、レオンさんの低い笑い声が聞こえます。


「それじゃやっぱり侯爵と侍従長はグルなんですね? 2人で何かを企んで……でもどうして僕が巻き込まれるの?」


「その辺りの事情については、分からないことが多い。侯爵邸の使用人を一人買収して、邸内にナタリア夫人がいる事や侯爵の職業についての情報を手に入れたが、それ以上の事はこれから調べるつもりだ。おまえが侯爵邸に連れ込まれたことも、使用人が知らせてくれたんだ。王宮門で王子にばったり会って、一緒に行くことになった」


「レオンさんと王子様が協力して、僕を助けに来てくれたんですね。あらためて、ありがとうございました」

「どういたしまして」

「レオンさんと王子様が仲良くなって、僕、嬉しいです。2人が一生対立したままだったら、悲しい」

「そうか?」


 レオンさんは困ったように髪をかき上げ、僕を見下ろしました。


「失望される前に言っておくべきだろうな。仲良くなったわけじゃない。頭を下げて部隊に加えて貰ったんだ。でなければ、軍人気質の鑑のような彼が民間人を同行させるわけがない」

「頭を下げた――――レオンさんがラインハルト王子に?」


 誇り高いレオンさんが、敵対するあのラインハルト王子に頭を下げた――――? 


「頭の一つや二つ、いつでも下げるさ。それでエメルが助けられるなら。難しいことじゃない」


 レオンさんの言葉が、心に沁みていきます。僕のまわりに春が訪れたのは、彼の腕にすっぽり包まれているせいじゃない。彼の胸が僕の背中を暖めてくれているせいでもない。


 レオンさんの気持ちが温かくて嬉しくて、僕は夢見心地の蝶々になり、お花畑の真ん中をひらひら飛んでいました。




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